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大罪人の娘・前編  作者: いずもカリーシ
第壱章 前夜、凛の章
1/48

第壱節 本能寺の変、前日

挿絵(By みてみん)


その娘の名前は、(りん)と言う。


はっきりとした顔の輪郭(りんかく)に加えて、鼻筋が通り、切れ長の目をしている。

現代では男顔、あるいは濃いめの顔と表現されるのだろう。

当時の常識であったロングヘアに限らず、ショートヘアやアップバングでも似合うはずだ。


ただし。

その外見は、彼女の持つ意思の強さを強調させてしまってもいる。

人によっては近づきがたい印象を与えるかもしれない。


 ◇


娘の父は明智光秀、母は煕子(ひろこ)と言う。


互いを深く愛し合う理想の夫婦であったが、娘がまだ幼い頃に一つの悲運が襲った。

母が不治の病に侵されてしまったのだ。


娘は母の無事を真剣に祈り、母は娘の成長を見たいと強く願った。

ところが!

願いも叶わず、祈りも(むな)しく、母の命はまもなく尽きてしまう。


嗚呼(ああ)……

どうして!

どうして、祈りが通じないの?

どうしてよ!

母上、戻って来て!

お願い、母上……

母上!」

娘の必死の呼び掛けにも(こた)えはなく、徐々に(ぬく)もりも失っていく母を見た娘は激しく泣き叫ぶ。


有史以来、このような光景は数え切れないほどに繰り返されてきた。

望む望まないに関わらず……

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どれほど高い地位を得て、どれほどの資産を築き、どれだけ有名になっても、やがて必ず、何の前触れもなく突然に襲い掛かって来る『死』という終焉(しゅうえん)からは誰一人といえども逃れられない。

加えて。

人間は、何かに『命』の息吹(いぶき)を吹き込むことすらできない。


命と死が成り立つ仕組みは人智(じんち)をはるかに超えており、科学という人間の叡智(えいち)の結晶をもってしても、その一端(いったん)すら解明できていない。

人間、あるいは人間が生み出したモノに(すが)ったところで意味はなく、最後は時間とお金の無駄であったことを思い知らされるだけだろう。


ただし。

与えることはできないものの、残すことのできるものが一つだけある。

それは『血』だ。


命は尽きても、血が尽きることはない。

これは親から子へと確実に受け継がれる。


もしかしたら。

血は命を(つむ)ぐ特別な存在であって、赤の他人にほいほい与えるような代物(しろもの)ではないのかもしれない。


 ◇


夫を悲しみのどん底へと叩き落とした熙子(ひろこ)の死であったが……

その血は、長女である凛の身体の中に濃く受け継がれていた。


特に。

目先のこと、表面的なことに(とら)われず、将来のこと、物事の本質を見通そうとする千里眼(せんりがん)の能力を有しているかの(ごと)き鋭い『目』は、亡き母に瓜二(うりふた)つであった。


これは……

兄弟姉妹の中でも凛が際立って父から深い愛情を注がれ、ついには明智光秀の『愛娘(まなむすめ)』と呼ばれるに至ったことと無関係ではないだろう。


そして。

成長した愛娘は、いつしか一人の男性を愛するようになる。

その男性は父が最も信頼した家臣であり、これ以上に相応(ふさわ)しい相手は他にいない。

2人は何の問題もなく夫婦となれるはずであった。


ところが!

父は愛娘を『政略結婚の道具』として手放すことになる。

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「父上。

今までお世話になりました。

凛は、行って参ります」


大粒の涙を浮かべて自分を見上げる愛娘の顔は……

父にとって、この世にこれ以上ないほどの(いと)おしい存在であった。

心の奥底から湧き上がる衝動を抑えることができず、珍しく涙を流し、愛娘を強く抱きしめた。


「凛。

体を大事にするのだぞ」

こうして娘は、摂津国(せっつのくに)有岡城(ありおかじょう)[現在の兵庫県伊丹市]の城主である荒木(あらき)家へと嫁いで行く。


「わしは最愛の妻を失い、その血を濃く受け継ぐ愛娘すら手放さねばならないのか!」

父は(おのれ)の宿命を激しく呪った。


 ◇


それから、およそ8年後。


1582年6月1日。

日本史上最大の『暗殺事件』、本能寺の変の前日である。


紆余曲折(うよきょくせつ)を経て娘は再婚し……

丹波国(たんばのくに)福智山城(ふくちやまじょう)[現在の京都府福知山市]へと移り住んでいた。


娘が夕餉(ゆうげ)[夕食のこと]の支度をしようとすると、夫の足音が聞こえて来る。

帰って来る時間にしてはかなり早い。

その足音には甲冑(かっちゅう)の音も混ざっている。


「何かが起こったの……?」

不安を感じながらも、慌てて夫の座る(しとね)[座布団のこと]を用意した。


「凛。

すまない……

急だが、出陣せねばならなくなった」


夫は座るなりすぐに話し始めたが、妻を見る眼差しは思いやりに満ちている。

再婚するよりずっと昔から彼女を一途に愛していたのだろうか。


「どちらに?」

備中国(びっちゅうのくに)[現在の岡山県]へ行く。

羽柴秀吉(はしばひでよし)[後の豊臣秀吉]殿から織田信長様へ、重大な報告がもたらされたらしい」


羽柴秀吉といえば……

安芸国(あきのくに)[現在の広島県]の大名・毛利家との戦いを任せられている、信長お気に入りの家臣だ。


「重大な報告とは、何です?」

「毛利家から『降伏』の申し出があったと」


「降伏!?

それは(まこと)ですか?」


「真だ。

あの毛利家が、ついに降伏したのだ」


「それで。

信長様はどうなさるのです?

甲斐国(かいのくに)[現在の山梨県]の大名であった武田家と同じように、徹底的に滅ぼすおつもりでは?」


甲斐(かい)(とら)と恐れられた武田信玄が死に、その息子である四郎(しろう)勝頼(かつより)が取り仕切っていた武田家を……

織田信長は徹底的に滅ぼし、武田一族を根絶(ねだ)やしにしていた。


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ただし。

『条件』がある」


「それを飲ませるために大軍をもって圧力を?」

「そうだ」


「要するに……

脅しのための出陣なのですね。

どんな条件なのです?」


「条件の内容は教えられていないが、毛利家は必ず飲むだろう」

「どうして分かるのですか?」


「降伏を申し出たのが……

あの小早川隆景(こばやかわたかかげ)だからだ」


「こ、小早川隆景!」

「そなたは……

あの男から、唯一無二(ゆいいつむに)の大切な存在を奪われた。

まさに『宿敵』であろう」


「……」

「そなたの辛さは痛いほど分かっている。

それでも、隆景は毛利家で随一の知恵者だ。

信長様のお考えを全て(つか)んだ上で降伏の申し出をしたはず」


「毛利家との(いくさ)が終われば……

信長様に敵対する大名はいなくなるのでしょうか?」


「信長様の敵はもういない。

戦国乱世に終止符を打ち、平和な世を達成する瞬間が……

ついに訪れたのだ」


「……」

「凛。

喜んで欲しい。

これからは、存分に平和を謳歌(おうか)できる。

もう二度と苦しい目に合うことはない」


これで、妻は喜んでくれる。

夫はそう確信していた。


 ◇


しかし。


妻の反応は正反対であった。

表情は曇り、みるみる不安げに沈んでいく。

「ああ、あなた様……」


「凛。

そなた、一体どうしたのだ?」

夫は戸惑いを隠せない。


「あなた様。

これで、本当に叶うのでしょうか?

平和な世になって欲しいとの願いが……」


「どういう意味なのだ?」

「わたくしは、全く別のことを考えています」


「別のこと?」

「『戦いの黒幕』たちが動き出してしまう……」


「戦いの黒幕たち!?」

「今よりもはるかに厳しい、新たな『闘い』が始まるかもしれません」


「そんな馬鹿な!

今や、信長様の武力は圧倒的ではないか。

(かな)う者など何処(どこ)にもおるまい?」


「この日ノ本(ひのもの)を、戦いの黒幕たちが数百年に(わた)って裏から支配していた『事実』をお忘れですか?

あなた様」


「そ、それは」

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 ◇


夫は、妻の言葉に何かを感じたようである。


「そなたがそう申すのであれば、信長様のこの命令は……」

「どのような命令です?」


「京の都にある本能寺に寄れという命令だ」

「本能寺に寄って、そこで何を?」


「これが、その命令書だ」

夫は妻に命令書を渡す。


そこには……

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ある直感が、彼女の中を稲妻のように走った。

「あなた!

本能寺で閲兵(えっぺい)などしてはなりません!

すぐに止めるよう信長様にお伝えください!」


閲兵(えっぺい)』とは何か?

軍の最高司令官が、兵士の前で演説することである。


戦争には必ず勝利しなければならない。

そのためには、全兵士が死を恐れず戦って敵を(ことごと)殺戮(さつりく)し、最後の一人となるまで血を流し続けてもらわねばならない。

要するに。

閲兵とは、人間を『殺戮(さつりく)兵器』へと変えるための重要な儀式なのだ。


まずは兵士たちに一糸乱れず行進させ、一体感を高める。

続いて全兵士の前で最高司令官が演説を始めるのだが……

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悪の権化(ごんげ)から家族や愛する人を守るための正義の戦いであると『(だまし)し』、『(あざむ)いて』敵への憎悪を(あお)り立て、兵士たちから他人を思いやる心を()き消し、兵士たちの正義感をまったく別の方向へと持って行く。

続いて。

名誉やお金をチラつかせて兵士たちの欲を刺激し、兵士たちを十分に『(あやつ)った』上で最後に雄叫びを上げさせ、軍の士気を最高潮へと引き上げる。


有史以来ずっと……

閲兵という儀式は、数百、数千、数万の殺戮(さつりく)兵器を生産し続けてきたのだ。


 ◇


「なぜ、本能寺で閲兵してはならないのだ?」


「よくお考えください。

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それを聞くと、夫の顔がみるみる蒼白(そうはく)となる。

全てが妻の言う通りであった。


明智軍の兵たちのほとんどは、ここ数年で(やと)われていた。

しかも……

兵たちのかつての(あるじ)を滅ぼしたのは、光秀様自身の手によってだ!

光秀様のみならず、その主である信長様へ深い『恨み』を持つ者がいないわけがない!


「戦いの黒幕が、兵たちの中に(まぎ)れ込んでいると?」

「あなた様。

その可能性がないと、自信を持って申せますか?」


「……」

「敵が紛れ込んでいる可能性がある状況で、無防備な本能寺で閲兵することが……

どれだけ『危険』な行為かお分かりでしょう?」


「何ということだ!

だが、今からではまずい。

まず過ぎる!」


「間に合わないのですか?」

「京の都に近い丹波国(たんばのくに)亀山城(かめやまじょう)[現在の京都府亀岡市]から、既に斎藤利三(さいとうとしみつ)殿の軍勢が出発している!」


「ああ……」

「ともかく、急いで追いかけるしかあるまい」


「あなた。

間に合わないなら無理をなさらないで……」


「大丈夫だ。

凛。

わしは……

わしにとって一番大切な、そなたの元へ……

必ず戻って来るから」

心配そうに見上げる妻を、夫が強く抱きしめる。


「はい。

あなた……

お待ちしております」


その後。

軍勢を率いた夫は、慌てて福智山城を出て行った。


 ◇


翌、6月2日早朝。


彼女の直感は見事に的中した。

日本史上最大の暗殺事件が起こってしまったのだ!

事件の首謀者は何と、信長と(こころざし)を同じくしていたはずの明智光秀。

一夜にして凛は『大罪人の娘』となった。


光秀はなぜ信長を討ったのか?

そもそも、本当に光秀は信長を討った首謀者なのか?

戦いの黒幕とは誰なのか?


もう一度、8年前に(さかのぼ)って物語を始める。

【次節予告 第弐節 政略結婚の道具】

「家臣の娘までも政略結婚の道具になさるのですか!」

凛の悲痛な叫びが響きます。

彼女の『宿命』を知った周りの人々は皆、胸が締め付けられる思いをしていました。

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