四章之壱 物知りリンデンバウム
一面が芝生・・・
助走をつけ、崖から一気に飛び降りると、視界が変わる。
目の前に広がるのは、黄土色の川。
落ちてゆく。
特に恐怖はない。
背中を意識すると、片羽が開く。
水面手前。
今度は水面と平行に、とんでもない速さで飛行する。
触れてもいないのに、川が左右に割れて、後ろの方で戻っていく。
その音がうるさい。
耳を打つような音、とは、こういうことを言うのだろうか?
いつの間にか場面が変わり、そこは森。
ブルーローズの里のものと同じくらいの巨木がそこにはある。
俺はその巨木に話しかける。
「リンデン。リンデンバウム。質問がある」
風が起こった。
緑色の葉が音を立てて竜巻を起こし、踊り、集った。
いつの間にやらそこにいたのは、緑色の体毛を持った巨木の精霊だった。
女性の体つきをしている。
中性的な声。
「なんだいルシファー。久しぶりだな。五十二年ぶりか?」
「相変わらず記憶力がいいな、リンデン」
「ははは」
「質問がある」
「おや、もう本題?」
「いっこくを争うことだ。妻がさらわれた・・・」
は、っとリンデンバウムは息を飲み込む。
「なんてこったい。嫁をめとったのかい?」
「そうなんだ。天使軍にさらわれた。物知りのリンデン。どこにいるのか分からないか?」
「調べてあげよう・・・」
リンデンバウムは目をつぶった。
そして数秒後。
「変質してしまった『世界樹』の苗木の、養分になっている・・・」
衝撃的過ぎて、しばらく言葉が出てこなかった。
「何が目的でっ?」
思わず叫ぶ。
「それを聞いているんだが、何か別の世界の言葉を使っている・・・すでに亜種化してるんだね。何かを言っているのは分かるんだが、何を言っているのか分からない・・・」
「リンがまだ生きているのかどうか分かるかっ?」
「ああ、今、通信が来た。生きているそうだ」
「どこにいる?」
「泉の中に植えられたそうだ」
「どこのっ?」
「どこのかは、知らないそうだ」
「泉・・・」
「磁場が狂っている場所だね。だから『言葉が届きにくい』のかもしれない」
「リンと通信はとれるか?」
「取れない」
リンデンバウムが目を開け、数秒の間。
「礼を言う、リンデンバウム」
「なんの」
俺は腰にぶら下げていたほら貝のようなものを、リンデンバウムに放って渡す。
「なんだい、これは?」
受け取ったリンデンバウムは不思議そうにそれを見ている。
「耳を当ててみろ。海の音を記憶した貝だ」
リンデンバウムは驚いた顔をしていた。
「まさか、五十二年前に、わたしが『海を聞いてみたい』と言ったのを覚えていたの?」
「そうだ。もう行く。じゃあな」
「ああ、またいつでもおいで。可愛いルーシー」
俺、いやルシファーは片方だけの翼で羽ばたき、宙に浮いた。
「今度会うときは、きっと妻と一緒にだ」
リンデンバウムは口元を上げた。
「きっとその森は、磁場が狂っているせいで、羽を出して飛べないよ」
ルシファーは目を見開いた。
「リンの居場所が分かったっ」
ルシファーは空へと舞い上がる。
「またの訪問を、楽しみにしているよ~」
――
―――――・・・
黄色とオレンジ色の小鳥がいっせいに飛び立つ。
エメラルドグリーンの樹に、体の半分ほどが侵食されているリン。
青銀髪がそよそよと揺れている。
彼女は眠っているかのように見える。
その映像が見えた瞬間、夢が終わって、俺は目覚めた。
異常に磁場が狂った森・・・
羽が出せず、走っていたのはそのせいだったんだ・・・
そのあと、あの気持ちの悪い色の樹に、リンがいて・・・
俺はリンを取り戻し・・・
棗は深いため息を吐こうとして、う、っと思わず声を出した。
腹部を押さえる。
まだ腹痛が残っている。
横に丸まった状態の棗は、眉間にシワを寄せた。
側にあった携帯電話を開く。
電池の残量がもうすぐなくなる。
いつもは眠る前に充電するのだが、昨日はそれを忘れていた。
ネット検索。
リンデンバウム。
検索結果、ヒット。
セイヨウボダイジュ
別名、セイヨウシナノキ
リンデンバウム
シューベルトの歌曲『菩提樹』で有名。
何かが意外だ。
棗はしばらく難しそうな顔で画面を見つめている。
電池の残量がなくなり、忠告音が鳴る。
そこらへんを手探りで探してみても、充電器が見当たらない。
ピーー・・・
と腹痛を増させるような音を残し、電源が切れた。
棗は手探りを止め、無意識のうちに鼻からため息を吐いた。