三章之六 ジャガイモクッキー事件
一年に一度、五月に進路希望調査がある。
簡単に言うと、将来何になりたいかのアンケートみたいなものだ。
ただ、あとから『調査』が入るので、適当なことは書いてはならない。
ホームルームが始まり、希望書が配られる。
じゃあ、無難な職業を書いておこうか。
なんて樹理は思ってみるが、この学校の理事長は母。
そして生徒会長は兄。
仕事はしてみたいが、では何の職種がいいのか、と考えるとまとまらない。
お兄ちゃんは、家を継ぐのだろうか、とか、思考をそらしてみる。
この学校は、とある大企業をしている会社の社長、つまり樹理の母が経営している。
そのとある大企業の会長が、祖父。
父と母のナレソメはお見合い。
今は離婚して、父は行方不明気味だ。
時々手紙が届くので、生きていることは分かっている。
三浦家が婿養子をとった形になるので、離婚をしたが名字は三浦のまま。
当時は、それがよく分からなかったな~。
まぁ、今でもあんまり分かってないんだけど・・・あはは。
「じゃあ、そろそろ回収しますよ~」
担任の声がして、樹理ははっとする。
みっつある希望欄には、なにひとつ書いていない。
慌てて弄っていたシャーペンの芯をカチカチと出し、走り書きをする。
樹理は、第一希望欄にこう書いた。
『 芸術家 』
* * *
一方その頃、二年七組。
やはり彼らも、就職希望調査を受けている。
満は鼻と上唇の上に、えんぴつを挟んで、背伸び。
そして「あっ」と言うと、就職希望書に何かを書き込む。
後ろの席に振り向く。
「書いた?見せて見せて~」
後ろの席にいたのは、棗。
棗は頬杖を突いて、難しそうな顔をしている。
リュックから出したCDを差し出す満。
「サンキュー」
「ああ、貸してたっけ?」
「うん」
棗は取り合えずCDを机の中にしまう。
「お前、どうすんの?」
「僕?『ウルトラマン』って書いておいた」
「第一志望?」
「ううん。第二」
「第三は?」
「まだ書いてない」
「ふぅん・・・」
「棗は?極道じゃないの?」
「極道って、書こうか?」
「やめた方がいいよ~」
「うっせ」
棗はうしろの席に振り向く。
その席にいるのは、葉介。
「書いた?」
「ああ。家継ぐつもり」
「お菓子屋さん?」
「ああ」
「いいな~」
葉介の隣の席にいた孝司が言う。
「もう手伝いとかしてるんだろ?」
「うん・・・まぁ・・・」
ちょっと気恥ずかしそうな葉介。
満が孝司に聞く。
「孝司君は、何になりたいの?」
「作家」
「え?」
「小説家」
「ええ~っ」
満と棗は意外そうな顔をする。
「小説とか、書いてるの?」
「ちょくちょく」
「読まして?」
「やだ。棗はどうすんの?」
「俺?家、手伝おうかなぁ」
「極道手伝うって、麻薬売りさばくとか?」
「うちは、任侠だってのっ」
「違いがよくわからん。任侠は麻薬売ってないの?」
「うちは売ってない。他のとこの稼ぎ方知らない」
「なんだ・・・」
「お前、小説のネタにしようと思ったんじゃねぇだろな?」
「あはは」
「何が、あははだ」
葉介が聞く。
「満はどうすんの?」
「ウルトラマン」
棗が言う。
「多分、将来仕事なかったら、家具の買い付け始めるよ」
「なんで?」
「ああ、僕のパパ、家具の買い付けしててね。外国とかに月に一回くらい飛ぶんだけど、そこの会社、もうちょっと社員欲しいんだって」
「そこ、狙ってんの?」
「よく分かんない」
「考えとけよ~」
「わ~かってるけど、今は将来のこと考えたくない。今を楽しみたい」
「今がよければ、将来はどうでもいいって?」
「そういう意味じゃないって」
「ああ、なんだ、安心した」
「なに、心配してくれてるの?」
「そうだよ」
数秒の間。
満は自分の机の方に振り返り、何かを書いた。
その紙を棗、葉介、孝司に見せる。
「第一希望、家具屋に就職っ」
三人が同時に関心した。
『「ほぉ~」』
* * *
昼食時間、生徒会室。
そこには、生徒会員と、樹理。
「そう言えば樹理ちゃんは、将来どうするの?」
質問したのは、松崎美緑。
「え~・・・秘密」
美緑は微笑。
生徒会長席に座っている蔵人を見る。
「会長は、もちろんお家が経営していらっしゃる会社を継ぐんですよね?」
「あ~・・・ああ、まぁ」
「なんか、素敵だわぁ~」
「ははは・・・」
笑って誤魔化す樹理。
あの結婚届付きの告白から、兄蔵人は逃げている。
逃げてはいけない。
ただ、松崎美緑の態度の豹変を見ていると、逃げたい気持ちが痛いほど分かる。
事情を知らない生徒会員が、どうかしたんですか、と聞くくらい、いつもと違う。
どうしていいのか、分からない。
それが樹理と蔵人の、松崎美緑に対する現在の状態だ。
「それで、会長、わたし・・・」
「あっ、ああ、クッキーありがと」
「ああっ、いえ~」
数秒の間。
一年生の生徒会員が口に何かが入ったまま言う。
「美味しいですよ~、このジャガイモ入りクッキー」
松崎美緑は笑顔のまま、蔵人を見ている。
何だか、食べざるをえない感じだ。
何か嫌な予感がする。
蔵人は口元を上げる。
「家に帰ってからにするよ」
「今、感想聞きたいんです~」
「いや、遠慮しておく」
「何でですか?」
「今、満腹なんだ。樹理、紅茶」
「あ、はい」
弁当を食べていた樹理が席を立とうとする。
「ああ、いい、いい、私が入れて差し上げますわ」
「え」
紅茶を入れる美緑。
その紅茶がカップにそそがれるのを見ている蔵人。
樹理には、兄がイライラしているのが分かった。
ただイライラしているのを隠しているようなので、黙っていることにする。
今樹理にできるのは、兄の側にいてやることぐらいだ。
美緑はにこやかに紅茶を生徒会長席のテーブルに置いた。
「はい、どうぞっ」
蔵人は言った。
「俺は樹理に入れてもらいたかったんだけど?」
美緑の顔がすっと無表情になる。
「なんで?」
「は?」
「私がそんなに嫌いですかっ?」
生徒会室にいた全員が美緑と蔵人の方を見る。
「誤解されるような言動は、正直、止めてほしい・・・」
「あの・・・もしかして、会長と松崎書記って、付き合ってるんですか?」
蔵人がその質問をした生徒会員を見た。
そして、美緑の顔に向き直る。
「もう一度言う。周りに誤解される言動は止めて欲しい」
松崎美緑の目が赤く潤んでゆく。
「やっぱり・・・やっぱり、そうなんですね・・・」
数秒の沈黙。
蔵人はあくまでも冷静に対応した。
「何がだ?」
美緑は大声を上げて泣く。
「やっぱりホモなんだっ」
美緑は泣き顔を隠すために顔を手でおおい、生徒会室を飛び出す。
唖然としている生徒会室。
胸元にまだ唖然が残っているが、沈黙が浮き出してきた頃。
「は・・・?」
生徒会室にいた全員が、生徒会長、三浦蔵人を見た。
蔵人は席に座ったまま、頭を抱えて大きな溜息を吐いた。
「あの・・・会長ってホモなんですか?」
蔵人はまた、大きな溜息を吐いただけで、その質問には答えなかった。
* * *
「は?」
「とにかく、渡して下さいねっ」
廊下を走って行く女性徒に、相楽孝司は声をかけた。
「あんた、名前はっ?」
聞こえなかったのか、そのまま走り去っていく女生徒。
手の中の包みと便箋を見て、孝司は名前が書いてあるかどうか見た。
樋口葉介君へ
便箋の表に、そう書いてあった。
教室に入り、葉介に近寄る。
「葉介、これ」
「ん?」
棗、満、雅と話していた葉介は振り向く。
周りが異常反応。
「まっ、まさかこれはっ、恋文と手作りお菓子っ」
『「なにっ?」』
「見せろ」
「開けろ」
「読め」
葉介は孝司を見る。
「何、これ?」
孝司は肩をすくめ、近くの席に座る。
雅が手紙を読む。
「『樋口葉介君、君のためにジャガイモクッキーを焼いてみました。必ず食べてね?」』
それを読んでいる間にも、満が包みを開く。
緑色のリボンをしゅるりと解く。
「おお~、クッキーだぁー」
受取人の了解も得ず、クッキーを手に取り、ほおばる棗。
「あ、美味し」
満と雅も、勝手にクッキーに手を伸ばしている。
「いただきまーす」
「しぼりだしタイプのクッキーだにゃぁ、これ」
孝司が葉介に聞く。
「俺も食べていい?」
「ああ」
孝司がクッキーを食べる。
「いいんじゃん?甘さひかえめで」
数秒の間。
葉介はクッキーと机に置かれた手紙を見ている。
孝司を見る。
「なんか、怖ぇ・・・」
――
―――――・・・
次の授業中、棗、満、雅、孝司が腹痛をうったえ、保健室へ。
原因は皆の証言により、食あたりだと判明。
唸りながら腹部を押さえベッドに横たわる四人に、葉介は言った。
「ごめん、嫌な予感がしたのに・・・」
「お前のせいじゃねぇよ・・・」
「そだよ・・・」
「そうだっちゃ・・・」
「気にするな・・・」
葉介は泣きそうになっている。
それを見て、思い出す孝司。
「そう言えば、クッキーと手紙の差出人、なんか泣いたあとみたいに涙目だった・・・」
保険医が言う。
「もしかしたら『オーイチゴーナナ』かもしれないから、救急車呼ぶわね」
「オーイチゴーナナっ?」
* * *
そのあと実際に救急車が来て、少々騒ぎが起こった。
テレビの取材が来たのだ。
帰宅した樹理と蔵人は、夕方のニュースを見た。
搬送される同じ学校の生徒の映像を見て、テレビの電源を消す。
蔵人は溜息。
樹理はぼそりと言う。
「今頃、お母さんのご機嫌、マックス悪いだろうね」
「そうだな・・・」
* * *
翌日。
樹理は昼休みに二年七組を訪ねた。
呼び出したのは、樋口葉介。
「なに?」
「あの・・・一緒にお昼ご飯食べませんか?」
「棗なら、いないよ」
「はい」
「満もいない」
「分かってます。昨日メールして、しばらくは学校来れないって言ってましたし・・・」
「じゃあ、雅?」
「マサ?って誰です?」
「俺を誘っているのか?」
「はい」
「何で?」
「凹んでるんじゃないかと思って・・・」
数秒の間。
「もしかして、棗達が何か言った?」
「多分凹んでも、ひとりで学校に行くだろうなって」
更に、数秒の間。
「で、頼まれたのか?」
「えっ?違いますっ。私にできること、なんだろうなって思ったからですっ」
「本当か?」
「はい」
「俺は、嬉しい」
樹理は口元を上げた。
「お昼ご飯、何食べるんですか?」
「ああ、朝の内にコンビニでパン買ってある」
「へ~・・・じゃあ、生徒会室へ」
「は?」
生徒会室。
そこには、生徒会員と樹理と、葉介がいる。
お弁当の包みを開ける樹理。
「あ、だし巻き卵入ってる♪」
「本当にだし巻きなんだろうな?砂糖入りの甘いやつじゃないだろうな?」
蔵人が言う。
樹理はつまみぐい。
「あ、不思議な味」
「お前にやる」
蔵人はわざと、樹理にいつも以上にかまっている。
葉介の方を見ないようにしている。
葉介も葉介で、蔵人を見ないようにカレーパンを食べている。
樹理が無邪気に葉介に聞く。
「カレーパンって、ジャガイモとかニンジンとか入ってるんですか?」
「食べたことないのか?」
「はい」
「なんで?」
「さぁ?」
生徒会員が言った。
「そう言えば、松崎さん来ませんねぇ」
「昨日のジャガイモクッキーのお礼に、新しいお茶っぱ持って来たのに~」
樹理が食いつく。
「え~、なんのお茶っぱですかぁ?」
「私が家でブレンドした特別のやつなの~」
「ベルガモット入ってます?」
「あ、そう言えば樹理ちゃん、茶道部だ」
「はい~」
「ファンジャンテンジャンファンって知ってる?」
「え~、中国のお茶っ?」
「当たり~。今度はそれで」
「どうやって手に入れるんです?」
「親戚にコネがあるの~」
「わぁ~」
「待ってくれ」
樹理と、樹理と話していた生徒会員、カミヤマ・カオルコは声のした方に振り向いた。
葉介は言う。
「ジャガイモクッキー?」
数秒の間。
「ああ、ええ。昨日、食べたんですよ?」
「まさか手作りの?」
「そうですが、何か?」
「そのジャガイモクッキー作ったのは誰だ?」
「え・・・」
神山薫子が困って、蔵人を見る。
蔵人がようやく葉介を見る。
「何だ?」
「あいつら、俺に送られてきたジャガイモクッキー食べて食あたりになったんだ」
「は?」
はっとする蔵人。
ぽかんとする生徒会員達。
「どういう意味です?」
「好意を持って送ってきたふりをしていたが、あのクッキーには悪意が満ちていた・・・」
蔵人は眉間を寄せる。
「何を言っている?」
樹理が言う。
「樋口先輩の家は、洋菓子店をしているんだよ。愛情こもってるかどうか、分かるって意味だよ」
「そうなのか?」
「ああ・・・」
生徒会室の扉が開いた。
そこに現れた、松崎美緑。
皆が息を飲んだりして、沈黙する。
「あの・・・昨日は・・・」
謝ろうとする発音の彼女。
しかし彼女の言葉が途中で途切れたのは、樋口葉介を見つけたからだ。
「なんでっ?なんでっ?」
皆がビクリと身体を硬直させ、美緑を見ている。
「松崎君、あのね・・・」
蔵人が切り出そうとしたが、美緑は更に声を上げた。
「ホモなんだっ。やっぱりホモなんだっ。美術室でセックスしてたっ」
「はぁっ?」
いきなり席を立とうとする葉介。
それを咄嗟に抱きついて止める樹理。
蔵人は葉介を見る。
目が合った。
そして、アイコンタクトを取った。
蔵人が自ら美緑の手を引き、生徒会長用の机に押し付けた。
美緑の顔はうっとりとしている。
ことを始めようとしていると思ったのか、蔵人の腰に手を回した。
蔵人は机の上に手を突く。
「彼にクッキーをあげた?」
「彼って呼ばないでっっ」
「ああ、ごめんね・・・『あいつ』にクッキーをあげた?」
「ええ、あげたわ」
「ジャガイモの?」
「そうっ。ジャガイモの芽が入ったクッキーをあげたのっ」
皆がはっとして、息を飲む。
「わざと、なんだね?」
「そう、わざと・・・あなたを誘惑したから、罰を下したの」
「わざと、なんだね?」
「そう、そう、そうなのっ。わざとなのっ。私って可愛いわっ」
蔵人はいきなり松崎美緑から離れた。
「警察呼んで」
一拍の間。
「は、はいっ・・・」
生徒会員のひとりが、携帯電話を取り出す。
「どういうことっ?」
叫ぶ美緑。
蔵人が冷静に言う。
「ここから、全員出て」
皆が作戦を察し、走るようにして貴重品を持って生徒会室から出る。
樹理も葉介に付き添い、廊下に出た。
蔵人が出ると、生徒会室に松崎美緑ひとりを残し、鍵をかけた。
「どういうことよっ?」
すぐに内側から鍵を開ける音がする。
皆がとっさに、扉を押さえた。
ドンドンドン、と扉を叩き殴る音が響いた。
「どういうことっ?ねぇっ?ねぇっ?」
樹理は背中で扉を押さえ、叩かれる度に起こる振動を背中で感じている。
生徒会員も含め、樋口葉介を気遣うようにちらちらと見た。
葉介は泣いていた。
「女だから、殴れねぇ・・・」
ドンドンドン、ドンドンドンッ。
「開けなさいよっ」
しばらくすると、警察が学校に来た。
生徒会室の扉が開く。
つんのめるように出てきた松崎美緑を、いきなり殴った者がいた。
樹理だ。
「樹理っ?」
「三浦っ?」
樹理はそのあと、四回、松崎美緑を殴った。
「最初のは、樋口先輩の分で、あとのはクッキー食べたひとたちの分ですっ」
樹理は泣いていた。
ハンカチを取り出す余裕もなく、袖口で涙を拭った。
事件は、模倣犯が出る可能性が高いと判断され、表には出ないらしい。
鼻血をふいた松崎美緑は、鼻にティッシュをつめている状態で警察に捕まった。
樹理にとがめは、誰も出さなかった。
* * *
「ねぇ、リンは本当にこの樹海の中にいるの?」
「ああ、いる。少しは黙れ」
数秒の沈黙。
自分が樹海の中を歩いていることに気づく。
そばにはビャッコ。
「ねぇ、砂漠の方ににあった顔のないあれ、なんで顔ないの?作ってる途中?」
「『あれ』って言うなっ」
反応したのは金髪の女。
「君、名前なんていうの?」
「ミネアナっ」
「あれ、って何で言ったらいけないの?」
「失礼だろうにっ、ローズ様にさぁっ」
「誰、それ?」
「『それ』とも言うなっ」
「誰?」
「我らがブルーローズの守護を司っているお方。とっても尊いのっ」
「今もいるの?」
「伝説だよ」
「意味が分からない・・・」
「ああっ、そうっ」
ミネアナはぷいっと向き直った。
どうやら『ローズ』という女性を信仰か崇拝しているらしい。
ある種の宗教だろうか?
できるなら、夢ですらその手の話は避けたいところだ。
俺は今、疲れてるんだ。
警察に事情聴取を受けて、そのあとミウラ・タカコの毒舌を聞いたのだ。
神がどうのこうの、今は考えたくないんだよ。
久也のとこ行け、久也のとこ。
あいつは神学だっけ?
そんなのかじってるから。
早く終わって、深い眠りにつかせろよ。
あ~・・・
眠い。
自分が夢を見ていることを自覚してしまった夢は、そうでないより目覚めが疲れる。
俺は明日も学校なんだ。
しばらく忙しくなりそうなんだよ。
言いたいことがあるなら、本題に入ってくれ。
「ミネアナ」
「何?」
「お前、可愛いね」
「はぁっ?」
ミネアナとその兄が振り向く。
茶髪の男にき、っと睨まれた。
「『お前』って言うな」
ふたりの向こう側に、人影が見える。
ミネアナとその兄の間を割って、俺は駆け出す。
「リンっ」
向こう側から嬉しそうに駆けてくるのは、青い髪の少女。
日に透けた部分が銀色に光っている。
俺はリンを抱きしめた。
「リンッ、白夜だよっ、覚えてるっ?」
覚えてるっ。
「ひさしぶり~っ」
ヘルメイスは細身だが、非力ではないらしい。
持ち上げた彼女をそのままに、ぐるぐると回った。
樹理の小さい頃みたいな笑い方だな・・・
高得点だ、リンとやら。
彼女を地面に降ろすと、彼女は自分から俺に抱きついた。
そして一緒に近付いて来た黒髪の男に振り向く。
「ヒルヨル、だな」
「僕はヘルメイスだよっ。昼夜って、って気安く呼ぶなっ」
黒髪の男の肩には、鷲なのか鷹なのかは分からないが、茶色の鳥がいる。
その鳥は羽ばたき、ミネアナの兄、茶髪の男の肩に停まった。
「やっぱりそっちになついてるんだな・・・」
ふふん、と茶髪の男は口元で笑った。
「ゼイン様に拾われた身ですゆえ、一生のご奉公をお誓いし、そのかわりお側に、と」
「分かっている」
黒髪の男がそう反応してはじめて、茶色の鳥がのどの奥で喋ったのが分かった。
「この鳥、口で喋るんだね。僕、鳥語もできるんだ。リンもだよね?」
リンが微笑を浮かべてうなずく。
茶色の鳥ののど元を指先で撫でる黒髪の男。
その男の緑色の目が、こちらに向いた。
「歓迎する。新入り。俺はここ、ブルーローズの里を仕切る者、ルシファー。そちらの茶髪が右腕のゼイン、金髪がその妹のミネアナ、そしてこの青い銀髪が、俺の妻のリンだ」
数秒の間。
は・・・?
蔵人はうっすらと目を開けた。
気づいたらベッドから落ちて、床にいた。
ダルいのでそのまま枕の横に手を伸ばし、メガネと携帯電話を取る。
メールを打つ。
宛て先人は、久也。
【ルシファーに妻っているか?】
しばらく待っていたが返事が来ない。
携帯電話の時計機能を見たら、まだ六時十四分。
起きているのかも微妙だし、起きていても学校の準備に忙しい時間だ。
床から起き上がり、パジャマの上着のボタンをふたつほど外した頃。
携帯電話が鳴る。
【おはよ~。ルシファーに妻がいたかどうかは、よく分からない。どったのよ?】
【リン、って名前に心当たりは?】
【神話の中で?】
【当たり前だ】
【オーディンの妻、フリッグの侍女・・・どったのよ?前に樹理ちゃんにも同じような質問されたんだけど?なんかのゲーム?】
「樹理も・・・?」
樹理が同じような質問をしたというのはどういうことだろう、と蔵人は思い返信。
【ヘルメイス、は?】
【多分、ヘルメス、だよ。商業、雄弁、伝達の神。もしくはエルメスとも言うね】
【ブランド?】
【あの世界的有名なブランドは、ヘルメスからあやかって付けられた名前なんだよ。つづりは『E』じゃなくて、『H』からだしね。エルメスって呼ばれだしたのは、歴史的近代なんだって】
【あいかわらず、妙に詳しいやつだな】
【お礼は?】
【今度家に来い。もてなしてやる】
【オーケー♪学校の準備あるから、ここらで】
それを見て、携帯電話を閉じる蔵人。
制服に着替え、樹理の部屋をノックする。
また返事が返ってくる前にドアを開けてしまった。
そこには、着替え中の樹理。
「ん?」
気配に気づいて、上着の袖に腕を通した状態で蔵人に振り向く樹理。
「ちょっといいか?」
「おはよ。どーしたの?」
「ん・・・ちょっと、夢見が悪くてな・・・」
「ああ・・・」
樹理の机と対になっているイスに座る蔵人。
着替えを続ける樹理。
「お前、何でオーディン調べてる?」
「何、それ?」
「フラッグの侍女」
「カエル?」
「ああ、フラッグじゃない、フリッグだ」
「なんのこと?」
「覚えてないのか?」
「んん~?なんだっけ?」
「じゃあ、『リン』って知ってるか?」
スカートのファスナーを上げていた樹理が、顔色を変えて蔵人を見た。
「なんでお兄ちゃんまで『リン』知ってるのっ?」
蔵人は意外そうな顔をした。
「テレビかなんかで昔見たのか・・・」
「久也君から聞いたのっ?」
「やっぱり久也がらみか・・・」
「ねぇっ」
「なんだ」
「お兄ちゃんって、夢の中では、誰っ?」
数秒の間。
「はっ?」
背中に寒気のようなものが走った。
しばらく目を見開いたまま、蔵人は動かなかった。
「どういう・・・意味だ?」
「お兄ちゃん、夢の中では誰なの?誰の目線で夢を見るのっ?」
ぽかんとしている蔵人。
その肩を揺さぶる樹理。
「ねぇっ、ねえっ、てばっ」
瞬く蔵人。
「あ・・・ああ、そろそろ朝食にしよう。この話はまた今度だ」
「朝食の時に話してくれるっ?」
「いや・・・近々、久也が家に来るから」
「分かった、その時ねっ」
蔵人は軽いめまいを感じた。
その瞬間、一面が薄桃色の花畑が見えた。
また瞬く。
樹理のイスから立ち上がる。
幻覚のようなものがいなくなる。
蔵人は樹理の部屋から出る前に言った。
「携帯電話、忘れるなよ」
「わーかってるよっ」
* * *
その日の昼食時間、樹理はまた、葉介を生徒会室へと誘った。
しかし、他の仲間と食べるから、と言われて断られた。
学年の幹部がいなくなって、皆がさびしがっているらしい。
そうか~、と思いながら樹理は兄のいる生徒会室へ向かう。
途中で、そう言えば広瀬棗も『リン』の夢を見ることを思い出す。
このことを兄に話そうかどうか悩んだ。
あの腹痛事件は『オーイチゴーナナ』かもしれないという噂がたち、どういう対処をするのか話し合われるらしい。
生徒会室にいたら、会議の邪魔になるかなぁ、と思う樹理。
そこに、女子トイレから出てきた人物が声をかける。
「樹理ちゃんっ」
「ん?」
声のした方を見ると、そこには茶道部で一緒の高梨輪と、一年四組のコグマ・ワカバが手を振っていた。
ハスキーボイスの小熊若葉が言った。
「一緒に昼食しない?」
「あ、するする~」
兄に【昼食はお友達とするから】とメールを送る。
樹理はすっかりあの不思議な夢の話を、ひととき忘れた。
――
―――――・・・
家に帰って、夜。
眠る前だった。
「あ・・・」
広瀬先輩にメールしようかな?
携帯電話を持ってみる樹理。
数秒の思考。
「空気、読まないと、ね・・・」
樹理は携帯電話を、枕元に戻した。
その日は、夢を、見なかった。