第六章 真実の空に煌めいて
葵と凪と光莉が花火ではしゃいでいる声を聞きながら空太は夜空を眺めていた。凪が本物の思い出を作りたいと言ったからだ。学校の校庭へ無断で侵入したのが恵にばれたらと思うと空太は生きた心地がしないのだが。
「すごいな、みんな」
ふと頭に浮かんだことを口に出す。この空がそうさせたのか楽しそうなみんながさせたのは分からないが声に出してしまっていた。
「星華は空太もようやったと思うぞ?」
近くに誰も居ないと思っていたら星華がいたらしい。小言が聞かれていた。それに何を思うこともないのだが。
「おれは凪のことを分かったようで分かってはいなかった」
「他人のことを完璧に分かるなんて神様であっても理解などできないぞ」
横に腰掛け同じ様に夜空を眺め始めた。
「星が綺麗だな……」
星華が呟くように言った空は星々が煌めいていて綺麗だった。
「この星たちは命一つ一つだと星華は思う」
「どういうことだ?」
「星の光は散った命の灯。灯は置いていった者たちにここにいると叫んでいる。そう見えないか?」
何かの比喩表現だと空太は思った。星華はそのまま夜空を見上げている。誰かを探すような……そう感じさせる顔に見えた。
「命の灯。そんな見方もあるんだな。おれはそんなに星を見たことがないから考えすらしなかった」
「なぜこんなにも綺麗なものを見ないのか星華が分からんわいっ! アメリカから帰ってきた理由の一つは星だ。あっちは明るすぎて星が輝くのを見ることができないからな」
「あっちはネオンとかの光が強そうだからな」
「それに『約束』だから」
「約束?」
星華は確かにそう言った。
「そうだ。星華は……お姉ちゃんと約束したのだ」
「姉貴がいたのか」
「とても怖くて、強くて、頭がよくて、優しい人だ。義理だがな」
星華は懐かしむように言った。思い出している顔には微笑みがこぼれていた。
「凄く可愛がられていたんじゃないか?」
いつものように小馬鹿にするように空太は言った。
「ああ」
子供らしい駄々をこねると思った空太だったが、星華は否定すらしなかった。それは星華にとって大切な思い出なのだということが空太にも伝わってくる。星華は星々を見つめながら懐かしむような瞳をしていた。
「先輩たちも花火をしましょうよ~」
凪がこちらへ小走りでやってきた。今は星華より凪のほうが子供のように見えた。
「よし、星華もやってやろうじゃないか」
「本当はずっとやりたかったんじゃないか?」
「うっさいっ!」
葵たちに混ざり花火を楽しむ。凪は今まで楽しめなかったことを心から楽しむように遊んだ。凪だけじゃなくここにいる全員が心から楽しんだ。星々が輝く夜空の下、花火という小さな光で空にある煌めきに答えるように。
大きな建物は犯罪に狙われる。学校も然り。そんなところには警備員がいるわけで。
身に染みるほどに恵は語ってる。空太の家でお猪口を片手に。
「お前らにはあれほど迷惑をかけないでくれって言っておいたよな。わたしが面倒くさいのもあるけどお前らのことも一応は考えて言ってるんだぞ?」
呆れるように溜息を吐く恵。恵の前に立たされている天体観測部。相対する二つの空気はなぜか和やかだった。それは空太の家だったからなのか、恵が酔っ払っているからか。なぜか和やかだった。
「めぐちゃん、飲んで飲んで」
煽るように凪が飲ませる。机の上には何本も置かれた日本酒瓶の数々。教育をしに来たのか酒を飲みに来たのか分からない有様だった。
「あの教師は大丈夫なのか?」
「これは……だめかもしれない」
恵が日本語ではない言語を使いだしたのでさすがに葵が止めにかかる。星華と光莉は完全に引いていた。初めて見る変貌ぶりに驚きを通り越して落胆しているようだった。
「めぐちゃんはまだいけるよっ!」
「凪ちゃん、ほんとに止めないと先生が人でなくなっちゃうよ」
葵の指摘は的を射ている。空太は内心大いに賛同した。家の中で内容物を吐しゃされては堪ったもんではないからだ。この人を本当に人として見れなくなってしまうかもしれない。そんな気持ちが頭を駆け巡る。
だが恵のことよりも凪がみんなと本当に心から笑っていることが離れて見ている空太にとっては嬉しくて今にでも叫びたい。そんな気持ちだった。そんなところに葵が空太の側へ寄ってくる。
「空太も混ざりなよ」
「葵こそ混ざってきなよ」
「空太は隠せてないから一緒にいてあげる」
空太の顔は熱く今にもないかが弾けそうだった。
「……ごめん、ごめんな」
葵には空太が何を言いたいのか何故か分かった。
「空太が謝るのは間違ってる。こうして凪ちゃんが笑っている事実があるのは空太のおかげでもあって──」
空太が悩んで、悩んで。結果は今出ている。それは空太の功績だと。
「そもそも空太一人で解決できるようなら凪ちゃんも一人で解決できたと思う。でも、空太を頼った。それは何でだと思う?」
「……」
「凪ちゃんにとっての空太はかけがえのない存在になっていたから。知って欲しかったんだよ。そういう女の子の存在を」
葵は子供に言い聞かせるように言った。
「凪がそう思っていたとしてもおれは……何も分かってはいなかった。苦しみの中にいたことを勝手に立ち直ったと勘違いして」
空太もまた苦しみの中にいた。それはとても暗い海の底。息苦しくてもがいても這い上がることすらできない。
「凪ちゃんは立ち直っていたと思う」
不意に呟いた。葵に目をやると優しい顔をしていた。
「空太といる時、空太と話している時は確実に立ち直っていたと思うよ。その時の顔は輝いていたから。今回は驚いて離れちゃっただけ。空太がいたから戻ってこれたんだよ。元の楽しい場所に」
楽しい場所、信用できる場所になれたのだろうか。そう思えないことを人はしてしまった。人は敵で、悪で。それが凪にとっての当たり前。それを少しでも変えることはできたのだろうか。明日を見れるようにしてやれたのだろうか。空太にとってそれが役目みたいなものだと思っていた。幸助たちにしてもらったときみたいに。
「凪ちゃんの明日はきっと輝いてるよ」
葵の言葉には何度救われるのだろうか。何故か葵には見透かされているような、そんな気がしていた。空太にとっての葵は一緒にいるのは当たり前で、寄り添い助け合う、そんな存在になっていた。
「そっか、そうだよな。悪い方に考えるのは悪い癖だ」
「それだけ心配してるっていうことは人のことを大事に真剣に思えるってことだよ」
笑顔で答える葵に空太は目を惹かれる。
夜が更けていく。騒がしさはやがて静まる。それでもそこにあった楽しさは皆の心に残っていた。
蝉時雨が降り注ぐ今年の夏は平年以上に暑い。エアコンが不調気味になるほどに暑いのである。
涼を求めて扇風機の前に居座る空太は自堕落な夏休みを送っていた。永遠と思われた夏休みも折り返し地点へ突入していた。
「暑すぎるだろー」
エアコンを入れても全然冷えない部屋に猫と人間。猫は床をゴロゴロして熱を逃がしているようだ。そんな姿を見ていると自分もやってみようかとも思った。そんな気を消しさるようにスマホの着信音が鳴る。
「もしもしー」
暑さにだれながら電話に出ると相手は意外な人物だった。
「あ~出た出た。空太、ちょっといいか」
「星華か、なんでおれの番号を」
「今ちょっと葵と会っていてな。お前もちょっと来い」
星華の急な呼び出しに準備をする羽目になった。この暑い中、外に出るのはなかなかに厳しいものなのだが。
玄関から出ると暑苦しい日差しが空太の体をじわじわと焼いていく。今からこの中を歩くとなると……行きたくない。
またも着信音が鳴り画面を見ると先程の番号。
「空太~? 早く来てくれないとアイス溶けちゃうんだけど~」
「今から行くから待っとけよ。急な呼び出しに反応しただけでも感謝しとけ」
「いいから早く来てよっ」
相変わらず決定権はない。助けあっている存在というのは間違ってるのかもしれないと心の中で下方修正する。
部室に呼び出された空太を待っていたのは星華と葵の二人だけ。てっきり部員招集かと思っていた。机の上には何かの雑誌が置かれていた。
「遅いよ~」
葵がアイスを食べながら空太のほうを睨む。やっぱり見えているのではなかろうか。呆れる空太だったが今は呼び出された理由が気になっていた。
「他の奴らはいないのか?」
「皆、忙しいらしい」
「そうなんだよ~。誘う人誘う人ダメでダメで……まいっちゃうね~」
ハニカミながら笑う葵は暗闇の中で白く咲き誇る白い花。その花は昔から見ていた。白くて、透明で、輝いている。そんな花だ。見惚れてしまうほどに綺麗だった。
「空太はなぜそんなに葵のことを見る。好きなのか?」
「「なっ」」
星華の急すぎる発言に二人で驚いてしまう。星華が純粋に子供らしく尋ねているのがなんとも責めにくい。
「そらた~」
「そ、そういう目で見るなっ」
「空太はわたしのこと、嫌い?」
「別に嫌いとは——」
「~~~~~っ!」
顔を隠しながら悶えている葵はただただ可愛かった。ただ自分で聞いておいてその反応をされるとこちらも考えるものがあった。
「そろそろ話しに入っていいか?」
待ちくたびれたと言いたいかのような星華に二人は頷くことしかできなかった。
「空太、この部を再開させてどれくらい経つのだ?」
「ん~~、どんくらいだっけ……」
「半年くらいじゃない?」
「もうそんな経つのか~」
「そんな経つのか~じゃないっ! お前たちはその間、何か活動をしたのか?」
「星についての勉強とか?」
「時には人助けとか?」
「勉強もいい。人助けも大いに結構だが……。星華たちは天体を何する部活か分かってるのか? いつから人助け勉強会になったんだ……」
言われてみれば……。
「一回も観測してないな」
「みんなで行きたいよね~」
「行きます」
「へ?」
「合宿行きます」
星華による独断弾丸合宿の発表の翌日。恵が運転する車で目的地に向かっていた。「みんなの予定がたまたま空いててよかったよ……」
「空いてなかったら無理やりにでも空けるまでだ」
星華の笑顔はとても……怖かった。
「楽しみだね~」
「まあ近くの山でのキャンプっすけどね」
「紀里谷先輩、ほんとにいいんですか? 何も持ってこなくて」
「ああ、すべて用意させた。ログハウスに全て揃ってるから安心しろ」
若干引き気味な光莉をよそに凪が星華を煽てていた。この幼女は費用から何から全て自分で用意したという。金は使うものだとさらっと言う幼女はやはり恐ろしかった。
「先生はどう説得したんだ? あの人意地でもこういう面倒なことやらないだろ」
「理事長を通した。驚くほど喜んで了承してたぞ?」
空太が恵の方へ眼をやると何やら独り言をぼそぼそと言っていた。
「ボーナスボーナス~」
「金で釣られたんか」
林の生い茂る荒れた山峡の道が開けていく。閃光が眼を一瞬焼く。光の中から緑の開けた土地が現れ、空太たちを歓迎した。
「こんなとこが天宮にあったとはな~」
「空太はこの町の生まれでしょ~? 何で知らないのさ~」
「先輩は町のことより女の子が好きだからぁ~」
「そうだったのか。空太は女好き。覚えておく」
「お前らはほんと捏造ネタで盛り上がるよな」
呆れかえる程にくだらない話を聞かされ空太は悲痛な瞳で彼女らを見る。
「藤堂よ、お前は幸せ者なのだ。だからそんな目であいつらを見るな……殺したくなる」
「なぜか殺人予告された……」
殺人予告に不釣り合いな情景が空太の前に広がっている。新緑の茂みが妙に切り揃えてあってそこに建ててある大きなログハウスは癒されるような気持ちにさせた。自然は素晴らしいと思う空太だった。
「しかし、星華ちゃんがすごすぎて言葉が出ないっすわ」
「星華はすごいと何度も言っているっ」
「中に入りたいっ!」
葵が急かすように空太の裾を引っ張る。
木でできた扉を開けると中にはここで生活できるほどの家具や電化製品、食料までもが用意されていた。リビングと呼ぶには広い空間が星華の財力の多さを物語っていた。
「一つ気になったんだが、ここって電気はどうしてるんだ? 電線とか発電機とかは見当たらないけど」
車にいた時から青空と木々しか見当たらなく、自然しかないこの土地で人工物はこの家しか見当たらなかった。
「この家のライフラインは地下にある発電機と再生可能エネルギー……太陽光だな、水は川の水をろ過する装置を直結させてある。ガス関連は通してはない、すべて電気の力だ。発電機は川の水で水力発電をいつもさせているから停電時や長雨の時はそちらを使う。理論上はこれでこの家のライフラインは保たれることになる」
「なんだよ、それ。どこの未来型家庭だよ」
「すべては星の為、自然の為だ」
頭上に電線が通っていたらせっかくの星々が色褪せてしまう。だからって星華は……いや、星華だからここまでやるのだろう。それだけ星を大切に思っているのだと。
「この家はいくらかかったんすか?」
……凪が踏み込んではいけない質問をして皆顔が青ざめた。
「おま、馬鹿——」
「遊園地ぐらいは——」
「もう黙っとけ」
空太が星華を止める。これ以上聞いてしまうと何かが壊れてしまう気がしたから。それに恵がもう立っていられそうになかった。
ムスッとする星華を尻目に空太は葵を部屋に案内する。
葵は目が見えない、だから階段のある二階よりか一階の部屋のほうがいいと皆で考えた。部屋自体は広いので葵と凪と光莉と星華の四人部屋。律儀にも四つのベットが携えてあり星華は元からこの部屋を使うつもりだったのだろう。
所々に葵に対しての気配りがあり星華の優しさが垣間見えていた。
空太と恵は二階の個室を一つずつ貰い各自、荷を下ろしリビングで集まっていた。
「兄さん、明日来るそうです」
「坂神君も来るんだ~。空太のハーレムもこれまでだね」
「正直助かる。幸助がいなかったら心労で……」
「先輩はそんなこと言っても楽しんでるじゃないすか~」
「やはり空太は女好きか」
「もうやめてくれ」
幸助はこの合宿の参加は乗り気ではなかったが、空太が必死に頼んで参加してくれることになった。
初日は予備校の日程があり参加できなかったが明日から参加することになっている。三泊四日の旅費、食費、交通費一切なしの空太にとってとても嬉しい条件の合宿だった。主な目的は天体観測部らしく星を見ること、それに限る。道具などは部室から持ってきて準備は万端だ。あとは夜を待つだけだった。
「そらた~おなか~すいた~」
「何だよその韻踏みましたみたいな言い方は……」
「せんぱ~い——」
「ああ、腹減ったな」
「ひどくないすか?」
「そろそろ昼飯でも食うか」
星華がおもむろに立ち上がり食材を準備する。手際良く調理器具も並べていた。
「お前、料理できるのか……」
「当たり前だろ、あっちで一人暮らしもしていたのだから。料理くらいできる」
「星華ちゃんは何でもできるんだね」
「何でもはできん。できることをただやってるだけ」
少し照れ臭く言う星華に葵は微笑みを送る。
「わたしも手伝いますよ」
「手伝うならわたしも~」
「みんながやるならわたしもやりたい~」
「では手伝ってもらうか。光莉と凪で野菜の下ごしらえ。葵は食器を並べてくれ……空太とな」
「味見役だったのにな。ま、葵がやるなら仕方ないか」
これまで誰もいなかったこの家に声が響き渡る。活気あふれる合宿になる、そんな気がした。
「美味しそーな匂いだね。この匂いはカレーかな」
「オーソドックスにカレーときたか」
「手伝ってくれて感謝するぞ」
「何から何まで用意してもらっては申し訳ないです」
「みんなの合宿なんだから」
凪がすっとそんな言葉を言った。以前の凪からは想像できない言葉。みんなという言葉がこんなにもいい言葉だとは。星華も照れくさいのか顔を伏せてしまっていた。
「凪は結局、味見しかしてないけどね」
「なっ……」
「そういえば前から気になってたんだけど」
葵が思い出したかのように。
「凪ちゃんと光莉ちゃんはいつから名前で呼び合ってるの?」
いまする質問ではないと空太は高揚していた気持ちが落ちていくのを感じた。白木葵という人間はいつも唐突だ。
「それは——」
「光莉ちゃん、わたしも名前で呼んでよ~」
そんなことだと薄々感づいてはいたが空太は葵をいつもするように冷ややかな目で見てしまう。
「空太その目をやめてって何回言えば気が済むの? まったく~」
「そんな話するか? 大体お前は——」
「葵さん……」
「……」
一瞬思考停止した葵。
「聞いた、空太……」
「ああ、よかったな」
「光莉ちゃ~~~ん」
子供が全力で喜んだらこうなるのだろうか。鼻水を垂らしながら喜んでいた。若干引く光莉もそこにいた。葵の空太の裾を掴む手を感じ空太は微笑ましくなった。強く強く掴まれていたから。
「美味しかったな~」
「これだけできれば店出せるんじゃないか?」
「…………」
おかしい。こんなにも酒が進みそうな料理を口にして酒を一滴も飲まず喋らない恵の様子が明らかにおかしかった。
「めぐちゃん、どうしたの?」
自称、世界一恵愛好家の凪が声をかけた。
「こんなガキが……」
は?
「こんなガキがわたしと天と地の差があるなんて間違ってるっ!」
「張り合ってるあんたが間違ってるよっ!」
思わず空太が突っ込んでしまう。
「なんで、なんでなのよ~」
「先輩、めぐちゃんお酒が入ってます。隠し持ってやした」
凪の手には一升瓶が抱えられていた。
「どこにそんなの隠してたんだよ……」
「めぐちゃん、部屋に行こ?」
凪が諭すとうんと言いながら二階の部屋へ潜っていった。ダメなのかもしれないあの大人は……。
「凪と先生っていつからあんな感じなの?」
食事を食べ進めながら光莉がそんな質問をする。
「おれがあの人に怒られてた時にあの二人は出会ったんだ」
今でも鮮明に思い出せる。あの楽しい時間を。
「そろそろ学校に普通に登校してくれないか? そろそろわたしの首が怪しい」
「おれは頑張ってこようとはしてるんです。けど、朝日がそれを邪魔するんだ」
「何もかっこよくはないからな。まず先生の心配をしような」
二人の耳にここよりも大きい怒声が聞こえてくる。
「お前は何度言ったら分かるっ⁉︎ 何度も何度も同じことを──」
「わたしのことはほっとけばいいでしょう」
凪と男性教諭との対立だった。恵が不意に立ち凪の方へ向かう。
「先生、その子わたしに任せてくれませんか?」
「あ、ああ」
真っ直ぐに見る恵の目に気圧されたのかそのまま任せどこかに去ってしまう。
「飯島と言ったか、お前結構先生界隈だと有名だぞ?」
「そんなのは先生には関係ないです」
「それが関係なくないんだなー。うちの藤堂と仲良くしてくれているらしいじゃないか」
「先輩、知ってるんすか?」
「当たり前だ、うちのクラスの生徒でお前と同じ問題児扱いだからな」
恵は生徒と同じ目線で話す。決して高圧的な態度は取らず、生徒のことだけを考えている。空太自身の問題も何度も相談に乗ってくれた。文句を言いながらも優しく。
「飯島はこの学校は好きか?」
「先輩は好きです。学校は嫌な場所です」
「嫌な場所かー、それはわたしも一緒だ」
「え?」
「学年主任はうるさいし、生徒は言うこと聞かない奴がいてストレスの宝庫だからな」
言っていることとは裏腹に恵の顔は優しく微笑んでいた。
「だけどわたしは好きだぞ? この場所がなかったらそんな人たちと会えなかったからな。今の自分がいないからな。だから好きなんだ」
「意味が分かりません」
「今は分からなくていい。てか分からないだろうな。これから知っていけばいい。こんな人たちがいるからわたしが存在しているのだと。好きにならなくてもいいんだ。ただそれも自分の糧にする。それが学ぶということだ」
「先生……、わたし先生の生徒になりたい」
「そんなのは簡単だ。いつでも会いに来い。教えてやる」
恵は拒んだりはしない。受け入れる。どんな意見でも罵倒でもまず自分の中に受け入れる。そんな彼女に惹かれたのか凪も空太も金崎恵という先生に憧れを持つようになった。
「先生は優しいんだね」
「こういう先生がいなかったらおれたち問題児はすぐ退学だ」
優しい時間の話を思い出して空太は感慨深くなっていた。それは本当に優しい時間。
後片づけを終え夜まで時間ができてしまった空太たちは自分たちの時間を過ごす。今は夏休み。時間がたくさんある夏休み。時間がたくさんあるということは学校からの宿題もあるということで。
「え、空太はもう終わっちゃったの?」
「あんな面倒なこと先に終わらせたほうがいいからな」
「わたしはあとちょっとで終わりそうだから手伝って」
「点字でできてんのか。へ~」
「内容は一緒だから、そんな露骨に嫌そうな顔しないでよ~」
「じゃあ分からないところがあったら聞いてくれ」
空太と葵はいつも通り持ちつ持たれつやっていた。
「光莉は終わってるの?」
「わたしもあとちょっとかな」
「わたし、課題があることすら忘れてたよ」
「よくクラス委員の前で言えたね……」
凪と光莉も仲良くやっていた。
だが星華だけは。
「おい、この教師だいじょぶなのかっ」
星華だけはハードな仕事を押し付けられていた。
「じゃんけんで負けたんだから仕方ないだろ~」
「これはあんまりだろっ」
星華は恵の介抱役だ。今は恵の泣き上戸タイム。空太も何度も体験したがもうやりたくないと思うほどに面倒くさい。
「星華がそうさせてしまったんだから我慢して介護してやれよ」
「確かに先程から星華の悪口ばかり泣きながら言ってるな。星華が何をしたのだというのだ」
「う~紀里谷は世の中を甘く見すぎだっ」
下の階までに響き渡る程の声で恵が叫んでいた。耳がいい葵にとっては厳しい音量だ。先程からあまり手が進まない。
「ん~、集中できないよ~」
「葵にとって……いや、この場にいるみんながきついな」
光莉と凪も手がついてない様子だった。
「空太、そこの階段を下りれば防音室がある。よかったら使ってくれ~」
「お~、分かった~」
そんなものまで作る必要があったのかと心でツッコミを抑えつつ、空太たちは星華が言った防音室で課題を消化した。
課題がひと段落ついた時には夜の七時を超えていた。
「もう凪が全然集中してくれないからこんな時間になっちゃったじゃん」
「えへへ、ごめんよ~」
「わたしが教えてもすぐ他のことをしてるんだから」
凪と光莉のグループはなかなかに賑やかだった。光莉は静かな方だったはずだが。凪の暴挙が光莉を変えてしまったのだろうか。
「葵さんもこのダメ子に言ってやって下さいよ」
「葵さんだってよ、空太っ」
「お前は黙ってろ」
「む~」
優しく葵をあしらい星華の元へ向かう。
「遅いっ、遅すぎるっ!」
「課題に熱が入っちゃってな」
「それは嘘、空太結局全然手伝ってくれなかった」
「それはどうでもいい。いいから飯を食べろ、冷めてしまうじゃないか」
星華は怒りつつも湯気が立つ料理を用意してくれていた。夜の献立はサバの味噌煮を中心とした和食な献立だった。
「おいしそ~」
「魚だよ~。葵先輩、魚っすよ~」
「何でもできるんだね星華ちゃんは」
「ムッフンだ」
星華の機嫌を取るのは簡単なのかもしれない。恵の恨みつらみを永遠と言っていたのに葵が褒めるとすぐ機嫌を取り戻した。少し不安になる空太だった。けれど料理はとても美味しく口に合った。
「これから星を見るわけだが……見方は分かるのか?」
「ある程度はっていうか勉強する時間がたくさんあったからな」
「でも道具を使ってはないかな~」
道具も揃ってる環境で外に見に行けなかったのは葵の為だ。
葵は目が見えないから安全面として保証できる環境が整えられなかった。今回の合宿も源之助たちにもしっかり下見をしてもらって了解は得ていて、先程の夕食も白木屋の差し入れとして握り飯が並んでいた。三葉と源之助はそこまで心配をしなくてもいいということだったが空太としては心配をすることだった。
「今回が初めてだから経験者である星華に教えてもらってもいいか」
「それは構わないが……凪の暴挙はどうにかならないだろうか」
空太は凪を探すと準備した天体望遠鏡のそばで花火をしていた。
「……止めてきます」
空太は全速力で走って凪の頭に平手打ちをかます。花火の火を消してから凪と空太は星華の元へ戻る。
「星華さん、ごめんなさい」
「いい子だな凪は」
「言わないと先輩ぶつじゃん」
頭をさすりながら言う凪にまた叩くと脅す空太が星華には少しまぶしく見えた。
「まあこれから気を付けてくればいい。さあ始めよう」
一通りの説明を受け空太たちは星を眼に焼き付けるように見る。今日の夜は条件がいいらしい。空気が透きとおっていて雲一つない好条件だと星華は言っていた。
「綺麗だね~」
「星が輝いていてわたしたちを照らしてくれてるみたいっす」
「こんなにも星が綺麗に見えるのはそうそうないんじゃないか」
「だからこそのこの場所なのだ」
白鳥座、琴座、鷲座の星で作られる夏の大三角を中心に空太の知らない星々で夜の空を埋め尽くしていた。一つ一つの光が作る絵画のように。
「わたしの目の前には様々な星が光り輝いてるんだね」
葵が言葉が零れてしまったかのように言った。
「やっぱり見えないや。こんなに準備してくれたのに……ごめんね」
空太に向けて言われた言葉は空太に小さな棘が刺さったみたいに痛い言葉だった。表情は黒い髪で隠れて見えなかったがそれでも声をかける。
「葵がなんで謝るんだよ。こんな簡単に見れたら葵も苦労してないだろ」
「それでも——」
「そう言ってやるな。空太は空太で必死に考えて下準備もして万全の体制でこの環境を用意したんだ。それは全て葵のためにやったことなんだ。それを折るようなことを言ってやるな」
当初の目的は葵を学校に送り届けること。話していくうちに葵の夢の話を聞いて空太は葵に星空を見せてあげたいと心から思った。こんなにも遅れてしまっていたけど夜空を見せれるところまできた。
けれど葵は本当の意味で見ることはできなかった。それは空太が一番分かっていた。一緒に過ごしてきた空太だから分かることで、それだから悔しいことで。
「……」
「空太……」
それでも、葵との約束だから。
「……やっとスタートラインには立てたんだ。スタートラインに立てたということはゴールもあるということだ。ゆっくりでも確実におれたちは進んでるよ。だから止まらないでくれ、おれたちの道を」
ただうんと葵は答えた。葵にとってその返答は願い事のようだった。
今日はそのまま休むことにした。葵は落ち着いたが何かが空太の中で引っかかる。それは何か大切なことのような。考えを頭の中でぐるぐると回しながら横になっていると空太は気づかぬうちに眠りについていた。
「空太、星綺麗だね」
空太の隣には葵がいる。その周りには蒼い花が咲き誇って二人を取り囲む。そこは懐かしくて、美しくて、儚い。今にも消えてしまいそうなその情景は記憶の隅にあるような。
「空太君はこの場所は好きかい?」
「え?」
葵の顔はいつもの子供が笑うような顔ではなくそれは……そう、姉が見せるような微笑み。それに呼び方も。この人は本当に葵なのだろうか。姿形は葵だが何かが引っかかる。
「ねね、空太君がここに来れるのはなんでかな」
「なんでってこれは夢なんじゃないのか」
「夢……そう儚い夢。でもこれは誰でも見れる夢ではないんだよ。だからなんでかなーって。それにこの子の頭に浮かんだのがまず君だったのも気になるかな」
「この子?」
「わたしはこの子に体を借りてるだけ」
「そうだったのか」
ありえないことなのにその時はああ、そうなんだって自然と受け入れられた。
「あー、もうそろそろ時間かもね」
視界がどんどん光で浸食されていく。この世界が空太の存在を拒むようだった。
「空太君次会うときは……」
「つんつん」
空太が寝そべる部屋にもう一人いる。空太は相変わらず朝が弱い。それは合宿中も一緒なことで。
「つんつんつん」
やっぱり起きない。声を大きめにして突いてみても起きない。
「……」
優しく起こそうとはした。それは事実だと思うことにした。
「ふんぬっ!」
空太が起きたころにはいたるところにあざができていた。
「遅い起床だな、空太」
準備を終え空太が下に降りるとそこにはあざを付けた張本人の姿があった。初対面の星華と幸助だったが仲良くしているみたいだ。
「少しひどすぎはしないか、幸助」
「あれだけしないと空太は起きてくれないじゃないか。最初は優しく起こそうとしてたんだぜ?」
空太は夢を見ていた。心地のいい夢を。そんな夢をいつまでも見ていたかったんだと思う。
「空太はお寝坊さんだね」
葵の笑顔は元の子供の笑顔をしていた。空太はなぜか心の中で安心する。
「あ、明日は気をつけるよ」
「なに〜空太悪い夢でも見たの?」
「悪いってわけじゃないんだけど、なんか……」
つっかえて離れないような感覚が空太を不安にさせる。それを察したかのように葵も心配そうに視線を送っていた。声をかけようとするが星華の声でかき消される。
「昨日で大体の流れは分かったと思う。しかし、本番は今日なのだ」
「本番って、おれが来たからなのか?」
「なにを言っている。今夜は流星群だ」
「それは神秘的っすねー」
「楽しみです」
「今夜の流星群はペルセウス座流星群。星々が流れ落ちる様を是非皆で見学したい」
「いいねー、燃えるねー」
「何を燃やす気だよ」
個人個人で今夜のイベントを期待する。
一人はただ単に星を見たい為、一人は家族との思い出づくりの為、一人は友人との友情を深める為、一人は今まで見えなかったものを探す為。
それぞれの目的は違うけれど一緒に星を見たいということは同じだった。夜に向けてそれぞれの時間が進んでいく。
皆で星を見るための準備をする。みんなで寝そべって見たいと葵がはしゃぎながら言ったのを皮切りにレジャーシートを重ね重ねに置いていっていた。
「せーんぱーい、そこズレてますよーー」
「今直してるだろ。てかお前、何一人だけ菓子食いながらやってるんだよ」
「一人じゃないっすよ。光莉と葵先輩も食べてますもん」
「なんだよ、ますもんって」
「もんもん」
「葵までそんなもんもん言わないでくれ」
少し可愛いと思ってしまった。
「黙々とやる光莉を見習え。お前らだけ手より口が動いちゃってるぞ」
「光莉ちゃん、結構お菓子食べてるよ。今隠してるだけで……」
「……」
そっと空太は光莉の方へ視線を向けてみる。
「……そんなに見ないでよ」
「光莉、食べカス付いてんぞ?」
「え、うそ」
必死に隠す光莉の姿にここにいる全員で和みながら作業を進めた。
準備もひと段落し空太たちは星が流れるまで寝そべり待つ。頭上には星が瞬き星華もそれに歓喜する。星華が興奮気味に星の説明してくれているためか自然と星座などが見えてきた。葵は頭の中で想像を膨らませてるのだろう。珍しく目を閉じ自然と微笑んでいた。
「空太」
葵に視線を向けていた空太は声に慌てて視線を逸らす。
「ど、どうした葵」
慌ていた空太とは正対に落ち着いているような泣いてるような静かな葵。その声は空太にしか聞こえないようなか細い声だった。
「やっぱりわたしはみんなと一緒に……見たいんだ」
葵は振り絞るように声にしていた。空太にしか聞こえない声、空太にしか届かない言葉。重石のように圧し掛かる言葉だった。
「おい、降り始めたぞ。夜空に輝く光が」
星華が言ったのを皮切りに星が何個も降っている。雨のように何個も。幻想的で綺麗で光が消えていくのがなぜか悲しい。
「これが星降る夜ってやつか、綺麗だな」
葵に語り掛けるように言った言葉は葵には届かなかった。いつも見せてくれる笑顔は空太には見せてくれなかった。葵は静かに眠って。星とともに消えていく。
葵が眠ってしまってから三日。
源之助たちは心配いらないとは言っているが空太たちにとって一番あってはいけないことが起きてしまった事実に何も言葉は出なかった。このまま葵は消えてしまうような気がして恐怖を覚える。
あれから毎日のように空太は見舞いに白木家へ通っていた。
「空太君いつもありがとうございます」
「おれの監督不行き届きです」
「そんなことはないです。葵はいつも楽しそうに笑ってましたから」
「ちょっと疲れただけだから、そんな心配すんな」
二人にまで気を使わせてしまっていることに余計自責の念が浮かぶ。
「ちょっと寝坊が過ぎるよな。医者が言うにただ単に眠っているだけらしい」
源之助が笑って言う。親が一番不安なはずなのに。
「また来ます」
空太は少し世間話をして白木家を出る。少し暗い雰囲気が漂う白木家。必死に笑顔でいようとする二人を見ていることは痛々しく、申し訳なくなった。
次の日、学校に出ると空太の席の周りに人だかりができていた。何が何だかわからず席に向かうと聞きなれたような声が聞こえてきた。
「おはよう、空太君」
葵の声が聞こえて人の波が開けていく。空太の前には確かに葵の姿があった。
「ん? 挨拶はどうしたのかな」
「お、おはよう。今日は一人で来たのか……」
「そうだよ」
笑顔は見慣れてるはずなのに、葵の笑顔ではないような気がした。
「元気になったんなら言ってくれよ」
「ごめんね、今朝起きたらお母さん達が泣きながら抱き着いてきてそれどころじゃなかったんだよ」
「ずっと起きなかったから不安だったんだ。おれや……みんなだって」
「心配かけたね、空太君」
先程から感じる違和感。
「よくなったんならよかったよ。で、その空太君ってのをやめろよ。いつからそんな呼び方になったんだよ」
「空太君は空太君だよ。前からそうでしょ?」
「おいおい冗談止めてくれよ、なんか気持ち悪いぞ?」
「気持ち悪いってひどいよ」
嘘を言っているようには見えない葵に不信感を覚える。すると葵の机の端にあった消しゴムが落ちてしまった。黙って空太が拾おうとするとそれより先に葵が拾った。夢のような光景に空太は言葉を失う。まるで目が見えてるような。
「葵……お前目が……」
「目? お母さん達にも言われたんだけどわたしって目がどうしたの?」
青い目が不思議そうに呟く。あれほど星が見たいと切望していた少女が。
「ちょっと来い」
葵を教室から連れ出す。これから授業だろうが関係なかった。今起こってることに整理を付けたかった。この教室の騒がしさから早く離れたかった。
「こんな中庭に呼び出して何? 空太君ちょっと怖いよ」
「葵、お前は目が見えてるのか?」
「何言ってるの、この通り。この青い空、空太君の顔までばっちり見えてるよ」
葵の目には光が灯っているように見えた。これは葵なのだろうかと疑問が頭を駆け巡る。
「君は本当に葵なのか?」
これが一番聞きたいことだった。葵が葵であってほしいと小さな小さな希望を。
「……それは葵ちゃんに失礼だよ」
「答えになってない。ちゃんと答えてくれ」
「久しぶりだね空太君。気づいてくれないのね」
「本当に覚えがないんだけど」
「星ちゃんのほうが覚えているかもね」
「星ちゃんって……」
「紀里谷星華ちゃんだよ」
何でここに星華が出てくるんだと声に出そうとしたが頭の中で星華の言っていたことが浮かんでくる。枷であり、罪であり、暗闇。何かに関係していることは確かだった。
「ここにいたのか。葵が目覚めたのは確かだったか」
星華が前触れもなくやってきた。空太と葵を探していたようだが。
「久しぶり、星ちゃん」
「その呼び方……何故知ってる」
「わたしだよ、分からないの? あんなに仲良くしてたのに」
葵とはまた違った笑顔で星華に語り掛ける。
「そんなわけはない。葵、悪ふざけはよしてくれ」
「星華落ち着け」
落ち着けと言っても空太自身が一番状況を受け止められてはいなかった。星華の顔は目の前でありえないことが起きていることを物語っている。その顔を見て渦中の少女は少し申し訳なさそうにしていた。
「星ちゃんは頭がいいから分かるよね? 今、目の前で起こってることは本当なんだよ」
「じゃあ本当に薫なのか……」
「そうだよ白木薫だよ~」
薫と名乗った少女は儚く笑った。葵の顔で、葵の声で。笑顔だけは別人だった。
空太たちはこのまま学校を出ることにした。空太にとって学校をサボることは久しぶりのことだった。こんな形でサボることになるとも思ってはいなかったが。
「こんなことが起きたのはわたしには分からないんだけど……」
これから神妙な話をするのだと思っていた。その話は神秘的なものだと。
「星ちゃん可愛いね~」
薫は星華を抱きながら話を進めようとしていた。
「薫……さんは葵の親族なのか?」
「いいよいいよ、昔みたいに薫って呼んでよ。もしくはおねーちゃんでもいいよ」
こういうノリは葵と似ていた。いや、そのものなのかもしれない。星華は薫にロックされていてさっきから動き一つしていなかった。
「空太君は何も覚えてないんだね、お姉さん悲しい。わたし、白木薫は葵ちゃんのお姉さんです。そして、五年前に死んでいます」
すらすらと笑顔で薫は自分のことを話す。薫は自分が死んでいるということを理解している。そうとは見えない程に楽しそうに話す。
「ちょっとした事故で死んじゃったんだよ。だから葵ちゃんの体を借りてる、わたしの体はもうないから。葵ちゃんはまだ眠ってるんだ。何故だか分からないけどわたしが出てきちゃったって訳」
少し星華が反応した。それを薫が感じ取ると星華の頭を撫で始めた。
「やめろ、星華ももう大人なのだ」
「星ちゃんはいつまでも子供だよ」
「むふ~」
薫が星華をなだめる姿は姉のような包容力があった。本当に葵とは別人なのだと言われているようだった。
「おれは君を知らない。だが薫はおれを知ってる。なんでだ」
「それは子供の時に会ってるからだよ。星ちゃんと会う前。ある日、君は公園で一人でいた。名を聞くと空太と答えわたしたちは一緒に遊んだ」
空太には昔よくしてくれたお姉さんがいた。この記憶は空太の中で勝手に膨らんだ妄想。空太には良くしてくれる人はいないと決めつけていたから、その幻想なのだと。
「君はなんて名前なのかな?」
「空太」
「空太君かー。お姉さんは薫って言うんだー」
「何もないなら放っておいて」
「ねね、一緒に遊ぼ?」
唐突な問いに空太は答えられない。
「……」
「いいから、ねっ?」
強引に手を引っ張られ光の中にひきづりこまれる。そこはとても暖かくて心地いい。その中では楽しく笑っていられた。彼女と遊ぶのは楽しいから。
次の日も待っている。少年は待っている。待てども待てども彼女は来なくて。
「次の日には来てくれなかった」
「何だ、覚えてるじゃん。わたしは引っ越してしまったからね。あの時はごめんね」
「引っ越した先に星ちゃんがいた」
「最悪の出会いだ」
「わたしは幸せな出会いだった」
空太たちは小さな繋がりがあった。今はいない薫という少女に。これはひと時の幻なのかもしれない。
「葵は起きるのか?」
「葵ちゃんが寝てしまった理由はわたしにも分からないんだ。わたしが起きた時に感じたのは寂しい、そういう感情」
「星華が追い詰めてしまったのかもしれない」
強引に合宿をしてしまったことに負い目を感じている星華。
「葵もすごく楽しそうだった。葵も星華のせいだとは思ってないはずだ。葵も少し疲れただけ」
少し安心たような顔を見せる星華だったが内心は相当不安だと思う。空太も不安だった。薫の存在を否定したいわけではないがやはり葵に出てきてほしい。それが本心だ。
「わたしも葵ちゃんが出てきてほしいとは思うよ。葵ちゃんは出てくるべきだと思う」
「何か理由があるのか」
「葵ちゃんはみんなと星を見たかったんだよ」
「それでも葵は見えなかった。そう言いたいのか」
「葵ちゃんが見えなくなってしまったのはわたしのせい。だからわたしの時は目が見えてるんだと思う。わたしが奪っちゃったから。返してあげたい」
「それは星華も一緒だ。星華にも贖罪の機会が来たのだ」
「葵が見えなくなったのは理由があるみたいだな」
二人の顔は曇る。だが話さなければいけないと二人は決意を固めて話してくれた。
「わたしの死因は交通事故。ベタだけどトラックに轢かれちゃった」
ただ淡々と話す。
「その時は星ちゃんと葵ちゃんとわたしの三人で話しながら歩いていてわたしと星ちゃんがちょっとした言い合いになっちゃったんだ」
「ちょっと待て、星華と葵は昔からの知り合いだったのか」
「葵は覚えていないようだったがな。それだけのショックを与えてしまっていたんだと思った」
「星ちゃんは頭がよかったから葵ちゃんが知らない話をして……その時の葵ちゃんの喜んでる顔を見ると葵ちゃんを取られたと思って喧嘩しちゃった」
「星華は葵の喜んでいる顔が嬉しくて。子供らしい喧嘩をしてしまった」
「わたしも大人になれなくて。喧嘩別れみたいになっちゃってね」
「まあそれが原因なわけじゃないんだけどな」
仲がいいのが良く分かった。大事な話だと思って空太は真面目に聞いていたのだが思わず突っ込みたくなる落ちだった。
「なんともない話をしていたわたしたちに一台のトラックがこちらに向かい走ってきたの」
「居眠り運転だったらしい。星華たちは薫に助けられたんだ。薫は運動神経がいいから星華たちがいなかったら避けられていたかもしれない。薫が押してくれなかったら星華たちも死んでいた」
「葵ちゃんと星ちゃんには迷惑かけたけどね。わたしはずっと見守ってたから、星ちゃんがずっと謝ってたのも知ってる」
葵から姉がいる話は全くといって聞かされてはいない。葵のことは知っているようで知らなかったのかもしれない。悩みを抱えていたのかもしれない。だから眠ってしまった。そんな悪循環な考えが回る。
「薫が出てきた理由は一種のフラッシュバックによるものだと思う。あの流星群が鍵になったのかもしれない」
「その時は葵ちゃん目が見えてたからね。トラックのライトがその星の光と重なってしまったのかもね」
「ということはあの時葵は……星が見えていたのかもしれないってことか」
その時の葵は幸せだったのだろうか。今まで見えなかったものがいきなり見えて驚いてしまったのだろうか。それは葵自身に聞いてみないと分からない。
「薫が寂しさの感情を感じたっていうのが引っかかる。見えていたとしたらみんなで星を見れたことになってるじゃないか。それがどうして寂しくなる」
「葵の心の中で薫という存在がずっとあったのだろう。心の傷になる光景だったからな」
その時の出来事を鮮明に描くように語った。
「大型トラックに跳ねられた薫は飛ばされて葵の目の前で倒れた。血が道路を埋め尽くすように流れていて星華は救急車を呼んでいた」
目の前の少女が自分のこと、死んだ状況を聞いて平然としている。異様な光景で空太は何か寒気を感じた。
「葵は血だらけの無残に変わり果てた薫の体を揺さぶり起こそうとしていた。『こんなとこで寝ちゃダメだよ。早くお家に帰ろう』と、何度も何度も薫の亡骸に語りかけていた」
今まで何気なく話していた普通の会話が一気に重くのしかかるような話になる。空太は淡々と聞いていく。この不思議な出来事の発端を。
「このままだと葵が葵で無くなる。そう思った星華は葵を薫から離そうとした。力の入らない薫の顔がこちら向いたんだ。目と目があった葵はそのまま気を失ってしまった。まだ小学生の奴には恐怖だったのだろう」
実の姉が目の前で死に、その亡骸とどう接するかなんて小学生には分かるはずもない。薫が睨んでいるように見えたのかもしれない。
「葵が病院で目を覚ますと目が見えなくなっていた。葵の記憶も元から見えなかった、星華のこと薫のことを覚えていない。自分を守るように記憶が上書きされていたんだ。葵のご両親はさぞ苦労を重ねたのだろうな。あんなに笑えるようになった葵を見れて星華は満足だ。でも、葵の心に傷をつけてしまったのは星華だ。あの時、葵と薫を二人きりにしておけばこんなことにはならなかったのかもしれないから。だから葵には戻ってもらいたい。葵の為に力を尽くすのは星華の役目なんだ」
星華自身が葵の罪だと言ったことはこの経緯があったからこその発言だ。こんなこと誰それと話せることではない。葵は殻に閉じこもっている。それは放っておいた方がいいのかもしれない。辛いことからは逃げるのは間違いばかりではないのだから。
「わたしも帰りたいとは思ってるよ。でも葵ちゃんが起きないの。何かが引っかかっていて」
「わ、悪い。薫のことを星華は何も考えてやれなかった」
「星ちゃんは昔から葵ちゃんに甘いから」
「それで薫は三葉さんたちにどう説明するつもりだ? このままってわけにもいかないだろう」
「そこは葵ちゃんのお姉ちゃんがなんとかします」
少々の不安を抱えながら解散。葵にとっての薫はどんな存在だったのだろうか。それは後々葵に聞いてみなければ分からない。まずは葵が起きる手立てを探さなければならなかった。そんな手立てなどないのかもしれないが。
夢を見る。夢というには鮮明で。記憶を辿るような。そんな旅。長くて遠い。そんな旅。わたしにとっての旅は真っ暗で、ずっとずっと独りきり。決められた道をただ真っ直ぐに歩く。光に向かって真っ直ぐ歩く。常闇の中を……歩く。
朝日が差し込む。その光はやけに眩しくて、目の中が焼けてしまうような。そんな光でも葵には届かない。朝日を浴びる空太は葵のことを考えていた。葵に出会ってから自然と早く起きるようになってしまっていることが居心地が良くて薫が出てきてからも早く起きてしまっている。学校に早めに到着し校内に響き渡る部活動の声を屋上から聞くのが日課になった。葵が眠ってしまってから……一か月が経った。
「薫はうまくやっているか?」
「ああ、クラスのみんな葵と喋ってるみたいだ」
放課後に空太に会いにきた星華が薫のことを心配していた。心配するまでもなく薫は葵そのもののようだった。まるで葵という存在が薫に塗りつぶされたような。それが空太を葛藤させる。
「薫はなんでこちらに来てしまったんだろうな」
「薫じゃない、葵が薫のことを忘れられないのだろう」
「葵は記憶がないんじゃないのか」
「表面上はな。深い深い記憶の海馬の中に刻み込まれてしまってるんだと思う、それで薫という疑似人格が生まれてしまった」
疑似人格。葵が生んだ人格なのだと。薫という存在は昔に無くなり過去の住人として葵の中で居続けていくはずだった。夢話のような話だがこれは現実に起きていること、それを受け入れることは空太たちにとって難しかった。天体観測部のみんなも一緒でどう接すればいいのか分からない状態だった。
「空太はこのままの葵を受け入れることができるか?」
唐突な質問に空太はたじろぐ。その考えは空太の中で何度も思考されてきたものだった。いつ消えてもおかしくない葵の存在を、もう消えてしまったかもしれない葵という人格を、それでも葵として受け入れられるのか。空太の中でぐるぐると回っているだけで決して言葉にすることなどしなかった。できないと決めつけていたから。
「それは……多分無理だと思う。おれ、葵は葵じゃないと見れない。薫もいい奴だとは思うよ。人当たりも良くて、葵のことを何よりも思っている。それは否定すべきことじゃないっていうのは分かってるんだ」
薫に消えてほしいわけじゃない。でも葵が帰ってくるということは薫が消えてしまうということ。葵に帰ってきてほしいと願うほど薫に負担をかけていることは空太自身良く分かっていた。空太の顔を薫が見るたびに寂しそうな顔をするから、申し訳なさそうに笑うから。
「だからおれは二人とも救う方法があればいいと思うんだ。二人が笑えるような方法が。どちらか片方なんておれには選べない。そんな些細な願いが神様に届かないことなんて分かってる。それでも願うくらいはいいよな」
「二人とも救う。そんな甘ったれたことができると、そう思うのか」
「思うんじゃないんだ。やるしかないんだ。今までうだうだと悩んでた。このまま葵が消えてしまうことに……怖くなってたんだ。怯えて何もできなくて」
誰にも相談せずに自分の中で完結させて……それじゃあ今までの自分と変わらないじゃないか。
葵と今まで過ごしていろいろな出来事があった。それを葵は何もせずに逃げてきただろうか。いやそんなことはなかった。ずっと真っ直ぐ見つめてきたじゃないか。逃げることなんてなかった。
「逃げてばかりのおれを葵が見たらあいつ、怒るからな。ぽかぽかと叩くからな。だから今度は逃げない。昔の何もできなかった自分とは違うところをあいつに見せるために」
「なら星華も同じ考えだな」
フッと笑みをこぼしながら星華は言った。
「薫には感謝してるんだ。助けてくれたこともあるが、薫が星華の初めての友達なんだ」
懐かしむように言う星華は嬉しそうだった。
「星華は髪色が違うだろ? 周りから浮いてしまって、それにこの性格だ。気づいたら周りには誰もいなくなってしまっていた」
「前から気になっていたんだけどその髪は地毛なのか?」
「カツラだと思うのか?」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっている。この髪は母からの贈り物だ。外国の出身でな、母方の家庭は代々この白髪を受け継いできたんだ」
大事そうに自分の髪を撫でながらもどこか決意しているような瞳をしていた。
「この血を受け継いだ子は不思議にも女子にだけこの白髪を生やしてきたらしい。こんな非科学的な家系だった。だから星華は研究者になることを決めたのだ。科学で分からないことはないと証明するために」
自信満々に星華は言う。
「おれは綺麗だと思うけどな、その髪」
沸騰したかのように顔が赤くなる星華だったが空太は不思議にしていた。自分が言ったことをあまり理解していなかったからだ。
「バカなことを言うでないっ! な、なにを——」
「思ったことを言っただけだけど」
「そ、それより続きだ続きっ!」
慌てたのを落ち着けるように呼吸を整えた星華は話を続ける。
「どこまで話したか——ああ、浮いていた話だ。周りに誰もいなかった星華は学校の中庭の木陰で本を読んでいた。そんな星華に薫は話しかけてきた。『君、ここで何をしてるの? よかったら抱き着いていい?』とな」
それからの星華は薫のことを嬉しそうに細かく話した。一つ一つの出来事を噛み締めるように。懐かしみに満ちた瞳で。
「薫にはずっとこの髪を撫でられて……だんだんとこの髪を好きになれた。浮いていた星華の支えになってくれた薫には感謝しているんだ。そんな薫が……なんで死なねばならないんだ」
懐かしみに満ちた瞳はだんだんと悲しみの瞳に変わっていった。星華の瞳からはポロリポロリと涙が零れる。
「星華はいい子にしなかったから、星華がワガママな子だから、薫は行っちゃったんだ。もっと星華は勉強していい子にならないと。だからアメリカにも行った。馬鹿にされても、どんなに浮いてしまっても歯を食いしばって博士号まで取って……」
星華の泣く姿は妖精のように輝いていた。記憶の中に、過去の中に囚われてしまった少女。そんな少女に救いはあるのだろうか。
「星華は、星華は、あとどれくらい頑張ればいい。薫の代わりに葵を守らないといけないんだ。だから——」
星華の背中にに前触れもなく暖かさと柔らかさが伝わる。それは優しさだった。
「星ちゃんは頑張ったよ。ごめんね、星ちゃんだけおいて行っちゃって」
星華の後ろには葵の姿をした……いや紛れもない薫がいた。包み込むように星華に抱き着いていた。
「星華は薫にお願いされたんだ。葵をよろしくって。それなのにこんなにも時間が経ってしまった。葵に会うのが怖かったんだ。星華は、星華はーーっ!」
そのまま泣き崩れてしまう星華。それを優しく抱擁する薫はまるで母親のように優しかった。
「星ちゃんは本当に優しいね。お姉ちゃん嬉しいよ。でももう一つ約束したよね、星ちゃん。わたしが死んじゃった日に」
「星華はっ、覚えてないぞっ」
星華はしゃくりあげながら言った。星華は強がってるわけではなく本当に分からないようだった。
「星ちゃんわたしがはねられた後、こっちに向いてたじゃん。で、わたしが言ったら頷いてたよ。それで安心したのに」
「それは、本当か? それどころでは、なかったから」
落ち着いたのか星華は普段の喋り方を取り戻しつつあった。子供らしい表情は残したままだったが。
「聞こえてたと思ったんだけどな~。あの時言ったのは、泣かないでねって言ったの。星ちゃんあれからずっと泣いてこなかったから聞こえてたんだと思った~」
「星華が泣かなかったのは薫に怒られると思ったから。星華が泣いてると葵が不安になる。再会したのはここ最近だがな」
「そか……そっか~。星ちゃん、ありがとう」
薫が星華に向かってただ一言、ありがとうと。他に言葉はいらない。この言葉を伝えることが大切なんだと言い張るように。それを聞いた星華はまた涙した。
「わたし考えたんだ、葵ちゃんが起きるにはどうしたらいいか」
薫が考えを空太と星華に話す。
「葵ちゃんの部屋にはね、わたしと二人で写る写真が飾ってあるんだ。わたしは薫だけど体は葵ちゃんなわけで体の反応……つまり蓄積されてきた感情が薫の人格にも出てきちゃう。そんな体だから分かるんだけど、その写真には強い思い入れがあるみたい」
前にも薫が起きた時は悲しい感情だったと言っていたのは葵本人の体がそう表現しているのだろう。それは葵の姉である薫だから顕著に出るのかもしれない。
「もしかしたら葵ちゃんはその写真は『見えてる』んじゃないかな」
「え?」
「かもしれないってだけだから確証はないよ。けどなんで目が見えない葵ちゃんが写真なんかに思い入れがあるのかな」
目が見えない葵にとって写真などただの置物。写っているものなど見えるはずもない。葵のことだけじゃない、薫としても話がしたかった。
「薫、お邪魔してもいいか?」
「何、急に。別に断り入れなくても平気だよ~。空太君にはうちの両親信頼してるみたいだから」
「そっか、帰りに寄らせてもらうよ」
信頼してくれている事実が空太を照れさせる。しかしそんな信頼は今の自分には不釣り合いだとも思ってしまっていた。
学校の授業は退屈で前のようにグダグダと時間が進んでいく。
隣の席には葵の姿をした薫の姿。目が見えた事実も学校で知れ渡りそれに順応していた。それは空太も一緒で。人はやがて慣れていくのだと。葵がいなくなってしまったことに。そう、言われているみたいだった。逃げるように空太は眠る。
「君は神様や天使はいると思う?」
空太に投げかけられた質問。周りには白い雲のような空間が広がっていた。その声の主に空太は投げ返す。
「そんなのは分からないよ」
「ふふっ」
笑われてしまった。少女の笑いだった。
「わたしは忘れてしまった。そんなものはいるのか分からなくなってしまった」
「なんでそんな質問を?」
前にもこんな質問をされた気がする。唐突な質問。それはいつだったのだろうか。思い出せない。
「そんなものがいればいいな~って。そんなものがいればいつだってどこでだって助けてくれるから。みんなが笑える世界になってると思うから」
少女がそう言うと視界がどんどん白くぼやけていく。
その最中少女の姿が見えたような気がした。笑みを浮かべるその少女は葵の面影があるような、しかし背中には白い大きな翼が生えていてそれは葵でないことを事実として印象を残す。その印象を残しながら空太はこの分からない世界から現実へと引き戻されていく。
空太が起きると今日の授業は終わっていた。お昼も関係なく眠っていたらしい。時間など忘れるほどの眠り……いや夢を見ていた。
「やっと起きた。空太起きるの遅いよ~」
「っ!」
声に驚く空太。目の前にいるのは紛れもなく葵だった。
「空太君?」
一瞬、確かに葵が出てきていた。あの無邪気な笑顔は葵のものだった。
「薫、今……」
「何~?」
薫は自分では気づいていないようだった。ただ姉妹だから似ている、そんな理由もあるかもしれないがあれは葵だと空太は思った。
「葵が出たような気がしたんだ」
「葵ちゃん? わたしのままなんだけどな」
「気のせいかもしれない。変な夢も見るし疲れてるのかもな」
「今日はやめとく?」
「いや、行こう」
葵が気のせいだとしても出てきたことに空太は内心舞い上がっていた。幻想にはしないための、葵のための行動だ。疲れていても行かないといけないと空太は思った。
「空太君は家には来てるんだよね」
「何回かはあるけど葵の部屋は入ったことがない」
「あの部屋には入れてくれないよ」
「どういうことだ?」
疑問に残るような答えが返ってきて空太は困惑する。それを見た薫は少しいじるように話すその姿はやはり姉妹ということを彷彿とさせた。
「面白いね空太君は」
「そうか? こんな冷めてるやつが面白いなんて変わってるな」
「面白くなかったら葵ちゃんがあんなに懐かないよ。でも面白くなくても葵ちゃんは空太君に懐いたかもね。空太君はこんなにも人のことを思えるのだから」
優しく笑いながら言う。それはとても優しく慈愛に満ちた笑顔だった。
「着いたよ」
「人に優しくできるのはさ……」
何故だか分からないが薫に言わないといけないと思った。
「人に優しくできるのは優しくされたから。人に優しくされたからだよ。優しいと思うならおれの周りのおかげなんだ。薫も周りに恵まれてる。それほどに優しいよ」
「空太君は優しすぎるよ」
薫は髪で顔を隠しながら白木家に入っていく。その後をついていく空太は薫の少しばかりの変化に気付きながらも声をかけられなかった。
中に入ると源之助と三葉が出迎える。
「見なかった顔がいるな」
「空太君ですよ」
嫌味たらしい源之助を無視しながら空太は足を進める。
「ご無沙汰しています、三葉さん」
「こんにちは~」
「……」
じっとこちらを見ている源之助の視線が痛い。
「三葉さん、最近の調子はどうですか?」
「絶好調です! 葵も目が見えるようになって……今までも楽しかった生活がもっともっと楽しくなりました」
三葉の喜びは本物のように見えた。それが薫にとってはどう感じるのだろうか。葵ではなく薫として存在している彼女の感情はどうなっているのだろうかと視線を送る。薫は……笑顔だった。しかし、歪んだ笑顔に空太は見えた。
「…………」
視線を薫に向けていると空太は後ろに気配を感じ振り返る。まじかにまで迫った源之助の顔があった。
「近いんだけど」
「……」
「だんだん近づいてるのは気のせいかな」
「…………」
「やめて~~~~」
近づいてくる源之助の圧力に勝てずに空太は悲鳴を上げた。
「で、今日はどうしたんだ?」
源之助が許してくれたのか話を切り出した。
「ちょっと遊びに来ただけだけど」
「ほうほう」
「遊ばさせてください」
「しょーがねーなー」
上機嫌になった源之助は空太の背中にバンバンと手のひらを叩きつける。空太に敬語を使わせたのが嬉しかったのだろう。感情の起伏が激しくて疲れないのだろうかと少し心配になる空太だった。
源之助を軽くあしらうと薫は空太を部屋に案内してくれた。家の中は思った以上に広く空太は驚く。目が見えない葵には少し酷なのではないかと考えた。
「この家はね———」
空太の考えをまるで見透かしたかのように薫が話し出す。長い渡り廊下を立ち止まり中にはを眺めながら空太に視線を向けずに。
「この家はいつも構造、木目に至るまで全てが一緒なんだよ。葵ちゃんが眼が見えていた頃からずっとね」
葵が引越しを繰り返していること、そのために源之助たちが努力をしていることを話してくれた。二人が優しさに溢れていることが空太に伝わる。それが何より嬉しかった。というより何となくそうなのではないかと空太とは違う家庭なのだと分かっていた気がしていた。
「そんな優しいこの家が、二人の愛情で生まれたこの家がわたしには刃として突き刺さりわたしをここにはいてはいけないと言っているようで、言われ続けているようで…………もう、お母さんとお父さんをだまし続けるのは嫌なの、もう嫌なのよ」
泣いていると思った。薫の顔は、葵の顔は笑っていた。悲しい笑顔、もともとに備わる人間の感情の中で一番悲しい感情かもしれない。その感情が出るときは感情が壊れかかっている時だから。
「薫、だいじょ——」
「お前ら部屋に入らないのか? 秋とはいえ少し肌寒くなってきたから早く入らないと風邪ひくぞ?」
外は秋の季節。しかも今年は大寒波が近づいてるということでいつもより寒さが早く到来していた。
「ごめんね、お父さん。ちょっと空太君と話してたんだ~」
「——そうか」
源之助が一瞬、葵の顔を見た。優しい笑顔を浮かべながらもう一度薫の顔を見た。
そのまま葵の部屋にお邪魔する。部屋の中は片付いていて女の子の匂いというものがした。
「はいそこ、じろじろ見ない」
「ご、ごめん。女子の部屋なんて入ったことなくて新鮮でさ」
「空太君はド変態だよ」
「ド変態は言い過ぎだ」
薫に変態呼ばわりをされ少し落ち込んだ。当の薫はさんざん空太に言って飲み物を取りに行った。その間に、薫に見つかる前に探索だ。
「~~」
鼻歌を歌いながら机周辺を探索していると額に入った写真が眼に入る。
「これが言ってた写真か」
そこには葵と薫と思われる少女が二人で写っていた。雪原の中笑顔でたたずむ少女たちは何とも仲良く見えていい写真だと思った。
「空太君は約束が守れないのかな~」
「悪い」
「問答無用っ!」
薫は思い切り空太の頭を叩いた。痛烈な一撃だったことは間違いない。
「はい、空太君」
「あ、ありがとう」
お茶をすする薫の笑顔はとても怖かった。葵の姉だということがとても良く分かる笑顔。薫もとても怖いということだった。でも話すことは離さないといけない。
「あの写真だよ、葵ちゃんの大事にしていた写真。葵ちゃんは何も覚えていないのに、何も覚えていないんだよ? なのに大事にしてくれていて」
「薫は大事なのか、あの写真」
「当たり前だよ、大事なのには変わりない」
「変わりない、か。そこに薫の気持ちは乗ってるのか」
「それは……何を言ってるのかな? わたしは薫そのものなんだから当たり前でしょ。わたしが言ったことなんだからわたしの気持ちは乗ってるよ」
薫は少し焦ったように言う。自分を隠さんとするばかりに言う彼女は痛く笑っていた。
「薫は今どんな顔していると思う?」
「急にどうしたの……」
「今のお前の顔を見てると……悲しくなる」
「なんでそんなことを言うの? わたしは笑ってるでしょ? 笑ってるんだよ」
彼女の顔は悲しいままで必死に笑顔で隠していた。空太の心は痛く悲鳴をあげていた。
「薫は何を隠してる」
これが本題だ。薫は何かを隠している。それが葵の為になるかは分からない。でもこの状況だ。少しでも葵の目覚めに必要になりそうなことは聞いておきたかった。
「薫、無理してるだろ。そんな顔までしてさ。おれは——」
「出ていって……」
小声で言ったその言葉は妙に重くて太い言葉に聞こえた。黙っていることしか空太にはできなかった。その後も黙ったままの薫の背中は小さい背中だった。
部屋を出ると源之助が壁に寄りかかって立っていた。
「愛想憑かれた奴が出てきたな。ざまあみやがれだ」
「まあおれが悪いわな」
「ちょっといいか」
源之助と茶の間で話すこととなった。源之助の顔がいつになく真面目で空太の顔も引き締まった。
「まず言っておくことがある」
これから何を話すのか気になっていた空太は真面目に源之助の話を聞く。
「葵は嫁にやらん」
「そんな話かよ」
「大切な話だ。葵はおれのものだからな」
くだらない話をしていると三葉がお茶を持ってくる。いつものことなのか三葉は意にも返さずニコニコとしながら源之助の隣に座る。三葉の視線を感じ源之助は本題に移る。
「葵は葵じゃないな、空太はそれを知っている」
直球で的を射た発言に空太は思考を停止してしまう。
「なんでそれを」
「おれは葵の親だぞ? それくらい分かる」
優しい笑顔を浮かべながら言う源之助に何も隠せないなと思った。
「葵は……姉の薫なんだ」
「やはりな」
「なんとなく分かっていました。そうなんじゃないかって。あの子、空太君のこと君呼びでなんて呼ばないもの」
「それに薫もおれたちの子だ」
二人は何もかも分かっていて何も言わずに子供の隠しごとに付き合ってくれていた。それが優しさなのかは分からない。それでも優しさを感じた。
「空太、薫と仲良くしてやってくれ。おれたちに薫がずっと隠してるということは話せない理由があいつの中であるってことだ。それを強引になんて聞きだそうなんて気はない。お前に頼んで聞き出すのもしない。ただ……薫を気に留めておいてやってくれ」
「薫も、葵もおれの心に居座り続けて何ならくつろいでる。騒ぎすぎて忘れようにも忘れられない」
「おれの娘たちだからな」
源之助が優しく笑う。葵の笑顔のように優しかった。薫にもこの笑顔をさせられるのか、あの悲しさに満ちた笑顔を優しさに包むことは自分にできるのかと自問自答を繰り返す。
「わたしたちの子ですよ、源之助さん。わたしたちが出逢い生まれた二つの命は幸せだったのでしょうか。少なくともわたしは幸せでした」
「おれもだ」
「薫は何かとお姉さんぶりますが本当は気の弱い子なんです。葵が生まれる前まではわたしの後ろに隠れるような子でした」
三葉は薫の話を懐かしむように語る。
「葵が生まれてからの薫は変わりました。何かと発言するときに声が細々としていた子が葵の前では大胆に発言するようになりました。虫がとことん苦手だった子が葵の前では葵の為に虫を集めてこれるようになりました。何かを壊してしまったときに黙って謝れなかった子が葵の為に謝れるようになりました」
優しさにをしていた満ちた色をしていた。
「これが成長なのだと、姉妹の愛情なのだと実感しました。あの子はおとなしい子から葵の為に、人の為に優しくなれる子に……」
三葉は目を閉じながらその光景を思い浮かべるように言う。それが空太にも伝わる。優しい子なのだと親として我が子に伝えるように言っていた。
「お母さん……」
空太が入ってきた場所から声がする。三人が視線を向けると薫が立っていた。どこから聞いていたのかは分からないが彼女の瞳は潤んでいた。
「二人は知っていたの?」
「当たり前だ」
「わたしたちの子供ですから」
「お母さんとお父さんはもっと葵を大事にして……わたしなんかより、いなくなってしまった者なんかより」
またも悲しく笑う彼女は悲しく澱む海のように暗く沈んでいた。
「親とは子を愛することで生まれる。子を愛することで親は成長する。では子を愛さなくなった親はどうなる? それは親じゃねー。そんな当たり前が分からねー奴がたくさんいるのも事実だ。亡くしちまったのは問題じゃねー、心から愛することが大切なんだ。心から愛してるおれたちの前でそんなこと言うな。おれらは離れていても家族なんだから」
「うん、うん……ごめんね。わたしも大好き」
子を亡くしてしまった親は辿ってきた道が分からなくなるほどに悲しくなる。道を外れてしまった親はどうやって戻れるのだろうか。戻ることをしようともしない親は親で在れるのか。空太の目の前にいる家族は新たな道として歩いていた。
その証拠に目前の家族は涙を流しながら優しさに満ちた抱擁をしていた。それを見ながら空太は自分でも分からない感情が浮かんだ。
この家族だけの空間を作ろうと空太は白木家を出ようとする。すると源之助が空太に向かって視線を向ける。
「薫を、葵を、頼む」
そう言われた気がした。実際は視線だけのはずだが風に乗って言葉が聞こえた。
「ああ」
空太は心で答え白木家を後にした。背中に家族の温かみを感じながら寂しさに満ちる家へ歩みを進める。
葵の家の石の塀の前を一台の黒いセダンが通り過ぎた。それを自然と目で追う空太。その中にいる乗員に思わず寒気を覚えた。
「なんてタイミングで……」
空太は家へ急ぐ。家の前に件の車が止まり中からスーツに身を包む中年の男が出てきていた。空太と目が合うがそのまま家へ入ろうとしていた。
「ちょっと待てよ」
「……なんだ」
「いまさら何しに帰ってきた」
「わたしの家だ。いつ帰ってこようがわたしの勝手だ」
「……」
無言の空気に空太は押しつぶされそうになっていた。
「おい、話がある。中に入りなさい」
「ああ」
男と玄関に入るといつものように猫が主人を向かいに来ていた。
「これはなんだ。こんなものがなぜ家に居る」
「関係ないだろ」
「こんなものを飼ってだれが責任を取る。他人に迷惑でも掛けたらどうする。こんな下賤な生き物を飼うことは認めた覚えがない」
「今さら帰ってきて説教かよ。いいご身分だな」
「わたしは一応君の保護者的な立場だ。君が悪評を立てるとわたしにくるのだ。そこのところを理解してもらいたい」
こいつはいつもこれだ。二人の距離は他人。それは二人も納得している。名前など忘れてしまった、というか覚える気もない。そのくらいの他人だ。
男はどうでもよくなったのかそのままリビングへ向かう。その後ろを空太もいやいやついていった。秘書が入れたお茶を机に並べる。
「急だがこの家はこれから家内と住むことにする。だから出ていってくれないか」
「急に——」
「金と場所は用意したからそっちに移ってくれ」
「……」
「聞いているのか」
いつもそう。突然やってきて突然生活を壊していく。こんな親の元生きていくなんて考えられない。そろそろ空太も限界だった。
「……ふざけんなよ。もうお前の言いなりに生きるのは嫌なんだよ。金も家もいらね。今まで寄こしてた金も全てお前に返す。おれたちさ、ほんとの他人になろうぜ。そうすればおれもお前も……幸せだ」
今まで募ってきた感情が空太の口から言葉として零れだす。静かな怒りが空太を埋め尽くしていた。怒鳴る程の怒りはこの男には必要がない。他人なのだから。
「……それが本音か。で、これからどうする気だ。高校生風情がこの世の中生きていけると思うのか。どんな確証がある。わたしはこれでも会社の重役だ。仮の子でも捨てたとなれば信用を失う。うちの会社はもちろん、先方の取引先にもだ。だから確証を——」
またこいつはダラダラと自分を保守する言葉を連ねている。そんな言葉は薄っぺらで何度も聞かされてきた言葉。空太には届かない言葉を何度も何度も。
誰かが入ってくる音がした。空太は男の話を聞き流していて聞こえてなどいなかった。家の中に低い男の声が淡々と響き渡っていた。それでもかまわず足を進める。
「仮の子でも捨てたとなれば信用を失う。うちの会社はもちろん、先方の取引先にもだ。だから確証を——」
「……」
すべての音が空太には届かない。暗い暗い海の底に沈んでいく。そこは居たはずの場所で引きずり出されたところ。真っ暗な暗闇の中でたった一人で……そこに居たはずなのに。だけどそこに小さな光が灯る。八つの灯。今の空太には縋りつくための細い糸。そこに手を伸ばすのには遠くて。それでも手を伸ばす。思ったより近いような気がした。
「空太、何落ち込んでんの?」
「え?」
そこには葵がいた。葵だけじゃない、薫や凪、光莉、星華、幸助。今まで空太と寄り添ってくれた人たちがいた。
「空太はそんなに弱くないよね。強い子だよ」
葵が優しく笑っていた。
「おれは強くなんかないよ」
「じゃあわたしが寄り添ってあげる。ずーっとずーっと寄り添ってあげる。弱い空太はわたしがいないとダメなんだから。少しいなくなっただけでわたしを探すんだから。だからずっと一緒にいてあげる」
周りには葵の花が一面に咲いていた。みんな空太に優しく微笑みかける。
「手を差し伸べないと自分で立てもしないんだから。だから今度はわたしの番。わたしが空太を助ける番。この手は空太と紡いできた糸で楽しいこと、不安なこと、悲しいこと、時には怒っちゃうこと、すべての感情で紡がれた糸。空太と一緒に紡いできた大切な糸。だから手を取ってもいいんだよ?」
優しく笑う彼女は聖女のように、天使のように、慈愛に満ちたそんな笑顔。空太に向かって一直線に向けられる笑顔。そんな光にあてられる。
「悲しさに満ちた部屋はもう出ないといけないよ。そこは人をダメにしてしまうから。悲しさは人を強くするというけれど、悲しさだけで生きてきた人は壊れてしまうから。誰かが優しさに満ちさせないと壊れてしまうから」
突然優しい風が吹き花びらが舞う。今までの記憶、感情。そんなものが一斉に舞う。
「だから空太はわたしの手を取って外の世界に出ないといけないんだよ」
「おれはみんなを救えたのかな」
「当たり前っす。先輩がわたしを引きずり出してくれてこんなに楽しい世界を教えてくれた」
「おれは救われてもいいのかな」
「当たり前だ。それだけお前は頑張ってきた」
「空太君のおかげでお父さんと向き合えた。優しさを教えてもらった」
「おれはこの手を取ってもいいのかな」
「空太は取りたくないのか、その手を。それは星華の薫のみんなの優しさなんだぞ」
「空太君は誰かのことを思える優しい子。昔からそうだった。どれだけ大変な時でも優しさだけは忘れなかった。お姉さん嬉しかったよ」
空太は立ち上がる。黒く澱んだ海の底から光に向かって。この光を知っている。優しい光。まるで葵の笑顔のような。手を目いっぱい伸ばしてその差しのばされた手を取った。光が空太を包み込み黒い澱みが晴れていく。優しい光が埋め尽くしていく。
「だからお姉さん、葵ちゃんに空太君を返さないと」
「薫?」
優しく笑う彼女の顔。以前のように悲しい笑顔ではなく自然と優しく笑う。
「わたしはこの世界に未練があったから。お母さんとお父さんにありがとうってさよならって言えてなかったから」
「言えたのか?」
「ありがとうって言えたよ。二人に言えたよ。そしたら……二人とも抱きしめてくれて、ありがとうって。生まれてくれて、この家族になってくれてありがとうって……言ってくれて……。ああ、これが言いたかったことで聞きたかったことなんだ。それがわたしにとっての幸せだったんだって思った」
少女は泣く。葵の姿ではなく薫本来の姿で泣く。
「……薫は、楽しかったか?」
空太は聞きたかった。少しの間の奇跡が楽しめていたのか、苦しくはなかったのかを。
「うんっ。だから葵ちゃんにもこの世界を見せてあげて。この美しくて優しい世界を見せてあげて。すごく綺麗なのだと教えてあげて」
そのまま消えていく。綺麗な世界が消えていく。だけどそれは悲しいことじゃない。みんな元の世界へ帰るんだ。楽しい世界に、美しい世界に。最後に少女はありがとうと言った。
「そんな確証もないのに無責任なことを言うな」
「無責任はどっちだ」
後ろから声がした。空太は振り返る。そこにはみんながいた。何故いるかは分からない。だけどそこにいた。
「空太君がこれまでどれだけ頑張ってきたか分かってる。空太君は本当に頑張ったんだよ」
「親として引き取ったんなら優しさを与えるのが仕事だろうが」
「確証? そんなものはないっすよ。これから何が起きるか分からない。それが人生っす。先輩が何をしでかそうとそれはあなたには関係ないはずなんすよ。この家には一人しかいなかったからいつ行っても一人しかいなかったから」
「そんなものは子供の戯言。大人の言うことだけ聞いていればいいんだ。責任も果たせない子供が何を言っても戯言だ」
凪が、幸助が、光莉が。言ったことは子供の戯言だと決めつけるように言う男。
「その戯言を叶えるのが大人の役目だ」
源之助と三葉が入ってきた。
「戯言だとしても子供の言うことはちゃんと聞かないとなりません」
恵や朋美までいた。ずっとそばにいたみたいに心強い。
「その確証、加藤朋美がなりましょう。そら坊の親になりましょう。最初からそうすればこんなに悲しい思いをさせることはなかった。あたし馬鹿だから分からなかったんだ。これからわたしと暮らそう、そら坊」
「藤堂の担任として言わせてもらうがあんた子供の成長をなめてるだろ。いつまでも大人の言うことをはいはいと聞いて生きていると思うな。言いたいことは言うし、嫌なことは嫌なんだ。それが成長なんだよ」
みんなが空太を守るように言葉を紡ぐ。こんなにも優しい人たちに囲まれていることに嬉しさと同時に気づかなかった自分が恥ずかしい。ずっとそばにいた人たち。人とはこんなにも頼りがいがあることを分からなかった自分に。
「こいつの処分に困っていたところだった。ちょうどいい。加藤さんといったか、近いうちに資料を渡す。わたしはこいつの親権を放棄させてもらうっ。所詮は弱い者同士、仲良くやるがいいさ」
投げやりに男は言い放つ。それを皆聞き流すようにしていた。急いで身支度をし出ていく。帰り際には早く出ていくように言う始末だった。そんな男のみじめな姿を見て空太は笑いが込み上げた。
「あははははっ」
「何笑ってるんすか?」
「いやおかしくて。あんなに焦ったあいつを見るの初めてで面白くて」
「変な奴」
「幸助にだけは言われたくないな」
「空太君わたしたちを頼ってくれなきゃダメじゃん」
「ごめんな光莉。あいつが急に来たんだ。言う暇もなかった」
「そら坊、さっき言った通りあたしと家族になろう。そうすればこの町にずっといられる」
「いいのか朋美さん。おれはわがままだ」
「そんなの関係ない。それにあたしとあんたの仲だろ。そんなの楽しいに決まってる」
「ありがとう」
ただ一言。伝えたいことをただ一言皆に向かって伝えた。
「で、なんでここにいるんだ? あいつも急に来たし伝える暇なんてなかったけど」
疑問。なんでここにいるのかそれだけが分からなかった。
「それは報告に来たんだ。星華たちが待っていた人が帰ってきたから」
みんな待ち望んでいたこと。
「空太っ」
少女は優しく笑う。それはとても優しく。
「おかえり、葵」
「ただいまっ」
少女は青い瞳を輝かせ空太に笑顔で言う。それはひと時の奇跡。いや当たり前を忘れてしまった物語なのかもしれない。汚れてしまった世界、不平等で見放されてしまった世界、そんな世界に神様はいるのだろうか。それは違う。こんなにも美しい世界に、輝かしい世界には人それぞれの思い、形を紡いでくれる神様が確かに存在する。それは時には悲しい思いなのかもしれない。それでも紡いでいく。それがこの世界の美しさなのだから。
少女は星を見る。綺麗だねとその青い目を輝かせ隣にいる少年に言う。そのきれいな空には満天の星空が瞳の中に拡がっていた。
—終—