第五章 呪縛という未来
蒼藤学園北分校天体観測部部室。そこには、星座に関する本、星の早見表など星に関する教材が揃っている。目玉となるものが一際大きい天体望遠鏡。これは蒼藤ならではの備品である。だが、今の部員は一回も使えていない。
「なんで、部員が来ないのよ~」
部員勧誘作業によって星を見る時間がないからである。天体観測部、正確にはサークル、同好会と言った方がいいだろう。何故、こんなにも部員を欲しているのかというと学年主任に難癖をつけられたからである。
空太や凪の学校屈指の厄介者が集まる部活などろくに活動などできないから許可できないという。活動する条件として、正式な部とするためにあと二人を集めてくることそんな条件を出された。
「ポスターも貼ったんですけどね~」
「出来は最高なんだけどな~」
期限まで一週間を切っていた。葵のためにも何としてでも部員を確保しなければならない。活動開始してから一か月程経つが、幸助のことやバイトでなんだかんだ活動ができていなかった。
空太、葵、凪の三人。それに二人を勧誘し五人にしなければならなかった。交友関係のない凪には無理難題だった。あれから毎日一番に来る凪を見ているとなんだか悲しくなる空太がいた。
それより、マジで部員を集めないとまずい。
「これは、声掛けするしかないな」
「まず身近なところから声かけていこ」
葵の意見を取り入れ、空太たちのクラスメイトに声をかけることにする。
「幸助、お前部活とか入んないのか?」
「今のところは入る気はないな。親父の後継ごうと思って今は勉強に充てたいし」
幸助はあの出来事から勉強に勤しむ姿が多くなった。まずは真悟と同じ大学に入り父親が通って来た道を通りたいそうだ。教員たちも幸助の事情は承知しているので今まで通り午後の活動はしなくてもいいことになっている。その代わり多くの課題が出るようだがひたすら真面目にやっているようだ。
「そっか、今うちの部活ピンチだから勧誘をしようと思ってな……暇な奴いないかな」
「ちと待ってくれ……あ、光莉は暇なんじゃないか? おれと同じ条件だしな」
「あ、そうだな聞いてみるよ。ありがとう」
「こっちこそ悪いな、手助けできなくて。良ければ名前だけでも貸すぞ?」
「うれしい提案なんだけど、あのおっさんが許すとも思えないから気持ちだけ受け取っておくよ」
今まで遅刻の常習犯だった空太はあの学年主任の性質をよく知っている。ねちっこくて、スキがあれば容赦なく攻めてくる。いわゆる暇人だ。
幸助の提案通り、光莉のいる一年B組の教室に向かう。教室の前に着き戸を開けようとした。
「先輩、あっしお手洗いに行ってきますんで勧誘進めといてくだせい。ついて来ちゃダメっすよ?」
「お、おう」
少し焦り気味な口調でトイレの方向へ向かう。今まで静かにしていたのはそのせいだろうか。
「言ってくれればトイレ休憩くらいとったのにな……」
「空太、そこは察するの……それに、何か違うような……」
何故か怒られてしまった。何か違う? 葵には思うところがあるのだろうか……。ただのトイレだと思うのだが。
「あ、空太君と白木さん。どうしたんですか?」
後ろには光莉の姿があった。落ち込んでいる様子はない。むしろ何か吹っ切れているようだ。
「光莉をさが——」
「ひっかりちゃ~んっ!」
空太の腕から離れ光莉へ飛びつく。相変わらずの反応の速さ。光莉が現れてから飛びつくまで記録を取れば世界は狙えると思う。
「もう白木さんはしょうがないんだから」
いつもと反応が違う光莉に若干、驚いてしまう。葵に至っては言葉の表現できないような顔をしていた。
「ひ、光莉ちゃんがデレた……」
「デレてません!」
「今の空太、録画してない? 録画してればデータ後で頂戴ね」
「撮ってねーよっ」
日に日に葵が光莉に対しての変態度が増している気がする。いや、確実に。
「空太なら絶対撮ってると思ったのに……」
「お前と一緒にすんなよ、変態……」
「その、ジト目をしとけばこいつは黙るっていう理論やめよ?」
「マジで黙るから、結構使える」
「あははは!」
光莉が笑った。俯きがちになってしまった時など忘れてしまうような笑顔をした。
「ほんとに仲がいいですよね。わたしより出会ったの後なのにもうこんなに仲良く……。空太君は幸せだね?」
昔に比べれば確実に楽しい。幸せってことなのかもしれない。
「わたし達、仲いいもんね~」
えへへと言いながら言う葵は相変わらず照れもなく言う。葵は何事に対しても真っ直ぐだ。そこが葵の一番の長所なのかもしれない。
「葵には振り回されてばかりだけど、葵が来てからすごく充実している気がする」
「空太も、デレた……」
「別にデレてない!」
葵には調子を崩されてばかりだ。
「で、何しに来たの?」
葵のせいで本題を忘れていた。全て、葵のせいだとため息を吐く。
「光莉ちゃんは部活には入る気はない?」
「ちょっとうちの部活、ピンチなんだ」
「え? 空太君、部活入ってたの?」
「光莉にそう言われるとなんか傷つくんだけど……葵だけじゃなく、光莉にまで馬鹿にされるようになったか……」
「嘘だよ。で、どうしたの?」
光莉に事情を説明する。事情を聞いた光莉はしばらく悩んでいた。
「わたしは、空太君と白木さんに父さんと兄さんの件で迷惑をかけてそのお返しをしたいなって」
申し訳なさそうに言う光莉。いつもこうやって人のために動くのは優しさ故なのかもしれないが。
「いやそれは違うよ。おれは幸助と光莉に助けてもらった。その恩返しをしただけだ。迷惑だなんて思ってない。親友が困ってたら助けるのは当たり前だ」
「わたしも同じ気持ちだよ。光莉ちゃんが困ってたらいつでもどこでも助ける、それが友達ってもんでしょ?」
こんなもんで迷惑をかけたなんて思ってほしくない。空太のほうがたくさんの迷惑をかけたのだから。その恩は返し続ける、そう決めたのだ。
「本当にありがとうございます。この恩は——」
「恩とかじゃないんだ。当たり前のことをしただけ」
葵と空太は光莉に笑顔を向ける。光莉は少し涙を浮かべ深々とお辞儀をした。
「わたしが役に立てるなら……入部させてください! 兄さんのご飯を作るために早めに帰らねばなりませんがそれでよければ力になりたいです」
「……ほんとに? やった~~~!」
「それでもかまわないぞ、全然。家族を優先してやってくれ。幸助が寂しがる」
これで部員は一人確保した。あと一人確保できればミッションコンプリートだ。
光莉には明日から部室に来てもらうことにして教室を後にする。
光莉が教室へ戻ろうとするとバタバタと駆ける音。その方向に視線を送る。
「あれは……飯島さん?」
空太たちのほうへ全力で駆けていった。
「どーーーんっ!」
「痛ったっ」
「お前は普通に登場できなのかよ……」
「びっくりした~」
「ほら、葵も驚いてるだろ?」
遠くで空太たちとはしゃぐのが見えた。
「あんなふうに笑う子なんだ……」
凪の猪突猛進な頭突きを頂き空太は背中の違和感が消えないでいた。
「まだ痛いんだけど……」
「すんませんね!」
「謝る気ないだろっ!」
「ばれちった」
「少しは隠せよっ!」
本当に遠慮がない後輩である。遠慮がなさ過ぎて体の節々が痛みまくっていた。登場登場で頭突きをかましてくる凪は空太にとって天敵だった。なんといってもタチが悪い。時間や場所何もかも考えずに頭突きをしてくる。休む暇がないのだ。
それでも一部員である凪に光莉が入ることは報告しなくてはいけない。
「凪、一人新入部員が決まったぞ」
「マジっすか。空太先輩のことだからまた女の子なんだろうな~」
「何だよ、それ……。まあ女子だけど」
「ほら~言った~。空太先輩は女の子好きっすもんね。ハーレム王国作るんすもんね」
「は? てか、お前何組だっけ?」
「……なんでそんなこと聞くんすか? 凪のことは空太先輩が一番知ってるじゃないすか」
凪は自分のことはあまり詳しく話そうとしない。いつもはぐらかす。自分を隠すみたいに。だからクラスなどの情報は空太も知らなかった。
「坂神光莉ちゃんだよ? うちの新入部員」
「え?」
凪の声色が陰ったような気がした。
「それってクラス委員じゃないすか。なんでそんな人がうちに?」
「光莉とは昔から付き合いがあんだよ。兄貴とは同じクラスだしな」
「へ、へー。空太先輩にもお友達がいたんすね」
「その言い方、まるでおれには友達いないみたいに思ってたのかよ」
「……」
「黙るなって。おれにも友達くらいいるわ!」
「そーっすよね……」
どこか歯切れが悪い凪。
「もしかして、嫌だった?」
暗い雰囲気を察したのか葵が凪を心配する。
「いやいや、嫌だなんて。そんなこと思うわけないじゃないすか。天体観測部に待望の大型新入部員ですよ? 嬉しいに決まってるじゃないすか!」
いつもの元気な凪。そう見えた。勘違いだったのだろうか、さっきのは。しかし、葵は少し心配そうな顔をしていた。
「よーっし! この調子でもう一人集めますよー」
「そ、そうだね! 凪ちゃんの言う通り頑張って集めないとわたしたちの居場所無くなっちゃうからね」
あと一人。そうだ、あと一人でいいんだ。
二手に分かれ暇そうな人を探すことにした。たまには凪が葵と行動したいということで凪と葵、空太の二手に分かれる。
空太は学校内の屋上へ向かう。屋上の理由としては経験ゆえである。暇な奴は屋上に上る、そんな押し付けな理由。
「あ……」
空太もそんなことはないと思っていた。
「端から見ると、こんなにもアホっぽく見えるのか……不謹慎だけど、葵が見えなくてよかったな」
屋上には大の字で寝転がる小さな女の子。制服を着ているということはうちの生徒なんだろうけど……あまりにも小さい。小学生と言ってもいいんじゃないか。
近くに寄って確認してみる。ぐっすりと寝ていた。幼げな顔だが顔は整っていて可愛いと言えば可愛い。葵が喜びそうな女児だ。
「この、リボンの色……先輩かよっ!」
この学園は学年ごとにリボンの色が違う。一学年は黄色、二学年は赤色、三学年は緑色だ。この女児は緑色のリボンを着けていた。それに制服はサイズが無いのかブカブカな物だ。
思わず大空に向かって大声が出てしまった。起きていないか恐る恐る女児に視線を送ってみる。
「……」
めちゃくちゃ見てきていた。空太がここにいることが不思議そうな視線。くりくりとしたエメラルドの瞳で子供が持つ瞳を空太に向けていた。青白い綺麗な髪がなびいてそこだけは少女らしからぬ優雅さがあった。
「こんなところで何をしているのかな?……ですか?」
容姿を見て勝手に子供に話しているようになってしまった。
「あわわわわわわ」
先程まで空太の顔を見ても何事もない表情だった少女はやっとこちらの世界に帰ってこられたのか、アタフタしだした。
「落ち着けって、何もしないから」
「不審者はみんなそう言うぞ……」
「出会ってすぐ不審者扱いはひどすぎないか?」
「大体の不審者は初対面なのだ」
「確かに……ってなんで勉強になったって思ってるんだよ」
「せいかは頭がいいのだ。ムッフン!」
「それを言うなら、エッヘンだろ?」
「ムッフンなのだ!」
どうでもいいや。名前はせいかって言うのか。
「せいかは三年なのか?」
「何故せいかの名前を……もしかしてせいかは有名人なのかも」
「自分で言ってんじゃん。はい、自己紹介してください」
「紀里谷星華、蒼藤学園北分校三年生。最近までアメリカに留学してました。よろしくお願いします」
幼稚園生が言うように丁寧な自己紹介だった。
「初めてあった人の言うことは何でもかんでも聞くもんじゃないぞ?」
「謀ったな……君も自己紹介をするのだ」
「おれは、そんなホイホイ名乗る安い名前はしてないんだ……」
空太は嘲笑の意を込めて星華に言うとムスッとしてしまった。子供に意地悪を言いすぎた。先輩なのだが……。
「悪かったよ……子供っぽいからつい」
「星華を子供って言うな! 星華は君より頭がいいんだぞ」
「はいはい」
「まだ馬鹿にしてるな~……ま、いいや。君の名前はなんて言うんだ? むかつく名前を覚えておいてあとで藁人形に五寸釘を打ち込んで……」
怖いお子さんだ。目が本気だ。ひと昔の考えがまた怖い。
「そんな危険なもの持っちゃダメじゃない。ポイしなさい!」
「いいから名乗れ、ぶっ殺す!」
「分かったよ。だからその手に持ってるペンで首を狙うの止めて?」
最近の子供はすぐこんな言葉を使うのだろうか……世も末だな。親はどんな教育をしてきたのだろうか。親がいない空太にはどう育ててきたなんて分かるはずもないが。
「おれは藤堂空太。蒼藤学園北分校二年生。よろしく」
「なんだ、後輩君なのではないか」
「一応な……ちょっと聞きづらいことを聞いてもいいか?」
空太にとって一番気になったこと。
「星華のお歳はおいくつなので?」
外見から見ると確実に中学生、いや、小学生かも。しかし、三年と答えた。空太にとって疑問の中の疑問。
「星華は……十八歳だ……」
「大人びて嘘を言ってもすぐ分かるぞ~。本当は?」
「星華は……十六です」
「なんだよ、その間は。なんで本当のことを言えないんだよ」
「絶対貴様は馬鹿にする。星華、分かるもん!」
「分かった約束する。馬鹿にしないからこのモヤモヤを解消させてくれ」
「本当か? 本当に星華のこと、馬鹿にしない?」
親が子を溺愛する理由の一端が分かった気がする。不覚にも可愛いと思ってしまった。
「星華の本当の年齢は……十五だ」
「またまた、嘘を……」
「嘘なんて言ってない。馬鹿にするなら馬鹿にするがいいさ……」
「え、マジ?」
「本当だと言っている。しつこいぞ」
十五なのか……にわかには信じがたいが本人の顔から察するに本当なのだろう。ていうか、十六でごまかす必要があったのか疑問だった。内心、もっと下だと思っていたことは黙っておいた方がいいと空太は必死に堪える。
「十五歳なのか……人間って不思議だ」
「頭を撫でながら言うなっ!」
手をはたかれてしまった。この少女はすぐ手が出るが空太にとっては子供の戯れに過ぎなかった。
「十五っておかしくないか? なんで俺より年齢が下なんだ?」
「だから言ってるじゃないか、星華は頭がいいと……」
「冗談かと思った……」
「冗談など星華は言わん! 星華は本当は大学院生なのだぞ?」
「……は?」
冗談には度が過ぎている。
「だからその馬鹿にしている顔をやめんか! 星華はアメリカで博士号を取得し、日本へ帰ってきた。星華はすごいのだ!」
「じゃあ、すごい星華さんは何故にこの高校の三年生をやっているのですか?」
留学から帰って、一定の成績を超えていたらそのまま進学ができるというシステムがあるのだが……。
「……ひされたから」
「え? なんて言った?」
「……拒否されたから」
「何に拒否されたんだ?」
「だからっ、警備員とやらに編入試験の時に入れてもらえなかったからっ!」
……。
「それって、こう言われなかったか?」
空太が警備員の役を演じながら、
「お嬢ちゃん、ここはお嬢ちゃんが来るところではないよ? 迷子? だったらおじさんが一緒に——」
笑いを耐えながら星華に演じて見せた。
「うがーーー!」
星華は空太の向かい鋭利な鋭利な歯を突き立てようと飛びかかる。しかし、空太も馬鹿ではない。いつも葵には暴力を食らって鍛えられている。星華の描く放物線から一歩横にずれた。
「ぐぬぬぬぬ」
「この学校には暴力女しかいないからな。日頃からの鍛え方が違うわ!」
空太は星華を見下していた。こちらに来ていた足音にも気づかずに。
「誰が、暴力女ですって~?」
後ろから並々ならぬ殺気を感じる。空太は後ろを振り向く間もなく後頭部に隕石並みの打撃を食らった。
「もう、空太はほんとに子供なんだから…… こんな小さな子に意地悪するなんて。優しくしなきゃダメじゃん」
「小さい子だってよ?」
「星華は小さくないわっ!」
空太は懲りずに星華に口撃する。
「星華ちゃんって言うんだね~。可愛い声だね~」
「またしても星華の名が……おい、引っ付くな! もう、離れてくれ」
「こうなった葵を離すのは根気がいるぞ、頑張れよ星華」
星華に無駄な応援を送る。すると凪に裾を引っ張られた。
「なんすか、この子は」
「ああ、屋上行ったらこいつが寝てた。それで絡まれた」
「絡んできたのは空太のほうだろうがっ! くそ、離れろ~」
葵が寂しそうな顔をしてようやく離れた。星華の方はというと、着衣が乱れ、息が激しく乱れている様子だった。
「ボロボロだな」
「君の知り合いは変な奴しかいないのか……」
ジト目で睨んでくる幼女は何ともシュールな光景だった。
「ごめんね~。で、なんで星華ちゃんは高校にいるのかな? ここって小学校の近くだっけ?」
確かに葵は視覚の情報がないのだから仕方がないと言えばないのだが……。
「ぶっははははは」
「なんで笑うのよ、空太は。どこかおかしいとこあった?」
「いや、なにもおかしいとこはないよ。おれから見てもそう見えるし……ぶっ!」
「笑いすぎだぞ、空太!」
星華が泣きそうな顔で叱咤してきたので笑いをこらえようとする。
「星華は、高校生だ! しかも君たちの先輩だ!」
「え? だって触った感じ、すべすべもっちもちの赤ちゃん肌、成長しきれていない骨格、身長も……」
不意に星華は何かに気づき、それまでリスのように膨らませていた顔を正した。
「君は……ああ、そういうことか。君は目が見えないから星華の制服も見えないのか」
星華は白杖の存在に気づくと何もかも察したように言い放った。
「そうなんだよね~、わたし目が見えないんだよね~」
「すぐ気づかずに悪かった。先程は突飛ばそうともした。本当にすまないと思ってる」
今さっきまで子供の表情をしていた星華がすごく真面目になった。言動も大人が謝罪するそれだった。あまりの変化にこの場が凍りつく。
「そ、そんな謝り方しないでよ~。星華ちゃんらしくないよ。それにわたしが仕掛けたことだし」
葵がハニカミながら言った。
「星華は……そうか、時間とは儚く無情に過ぎていく。こんな形でな……」
小声で言い残し星華は立ち去ってしまった。星華の残した言葉は葵の中に引っかかる。
「星華ちゃん、どうしたんだろう」
「まあ気にすんな。星華には星華の考えがあるそんなとこじゃないか? あいつ、ああ見えて頭は冴えるみたいだから俺たちには考えられないことを考えてるのかも」
何故、星華があんなことを言ったのかは分からない。だが、なぜか葵に関係しているような感じがして空太の中にも引っかかっていた。
結局、今日の内にもう一人の新入部員は確保できなかった。しかし、光莉が入ってくれることになったのは天体観測部にとって大きな一歩だ。このことを報告するため空太は一人で恵のもとへ向かった。葵は凪と一緒にいさせた。恵に星華のことを聞くためだ。腐っても教師だ、何か情報を持っているかもしれないと思った。
「光莉がうちの部員になりました」
「おー、坂神の妹か~、そりゃあ嬉しい報告だ。なんて言っても真面目な奴だから手がかからないいい子だ」
「それより聞きたいことがあるんだけど……」
「……なんだ?」
恵は空太がこれから話す話題が普段の話とは違うと察したのか凛とした教師のような表情になる。
「紀里谷星華ってどんな奴なんだ?」
「紀里谷を知ってるのか……紀里谷は頭がとてもいい。一教師のわたしなんか比べ物にならない程にな」
いくら頭がいいと言っても限度がある。しかし恵が誇張して言っているとも思えなかった。
「紀里谷は最近までアメリカに留学という形で行っていた」
形? 引っかかる言い方だった。
「形っていうことは他の目的があって行ってたのか……」
「その通りだ。留学は建前、その時に取った博士号も成り行きで取ってしまったらしい。そのまま、日本の大学に行く予定だったのだがな、トラブルがあって。渡米した本当の理由は……日本の生活に飽きたからそうだ」
「は?」
思いもしない理由に唖然とする。
「だよな、それが普通の反応だよな? だが、ここの教師陣は紀里谷は仕方がない、紀里谷にはこの高校の誇りだから留学という形で日本以外の環境に送り出してやろうだの、紀里谷に対してとても甘いから何も言わないんだ」
恵は何故わたしに甘くならないのかとぶつぶつと言っていた。不満が溜まりすぎた人間はこうも壊れてしまうのかと思った。
「だが、わたしは声を大きくして言いたい!」
教員の机を強く叩き立ち上がる。
「びっくりした~」
「日本の何を知っているというのか。残業続きの疲れ切った体に吟醸香と米の甘みが染み渡る幸せをお前は知っているのかと!」
呆れてしまうほどに恵はダメだった。
「たぶん、おれたち未成年には理解できないだろうし、日本酒の飲み方してない人が言うことじゃない」
この人は、一升瓶を抱えて寝るような人だ。飲み方も人じゃない何かが飲むような飲み方をしている。何故知っているのかというと、よく愚痴を聞かせるために空太の家へ一升瓶を何本も抱え訪問してくるからだ。その時の恵は人ではない何か、そういう類だとしか表現できない。
話を戻すべく空太は落ち着きながら質問をする。
「じゃあなんで星華は飽きた日本へ戻ってきたんだ?」
「なんかあっちでベビーフェイスってバカにされたからだってさ」
「理由ショボくね?」
「それでもあっちで評価されたのも事実だ。世界中の企業、研究所から数えきれないほどのオファーが来たそうだ。だが紀里谷は興味がないと一蹴したそうだ。どこに行っても巨万の富を得られたというのにな」
世界中が欲する才能。それが紀里谷星華。確かに頭がいいという才能は素晴らしい。世界も変えるような発明をするかもしれない。そんな少女が言った言葉。意味がないとは到底思えなかった。
恵のもとを後にし、星華を探す。星華の子供の足ではそう遠くには行っていないはず。
「あ、いた……」
「空太ではないか……ん?」
星華は何事もなかったかのように子供のような微笑みを送る。この場所は生物研究部の飼育小屋。見た目にそっくりなほどに子供だ。ウサギと戯れじゃれていた。
「こんなとこで何してんだ」
「ここは星華のお気に入りの場所だ」
「さすがはお……」
「何だ?」
不思議そうに星華はこちらの顔を下から覗く。また星華のペースに乗せられるところだった。そんな子供話をしたいわけじゃない。
「空太こそ何をしに来たのだ」
「葵に言ったこと……どういう意味だ」
「……葵とは誰だ?」
そういえば自己紹介も済ませてはいなかったな。
彼女に一瞬の間ができるが空太はそれに気づかなかった。
「さっきの目の見えない俺の友達のことだよ」
「あ~、盲目の少女か。星華は何か言ったか?」
星華は先程同じ、不思議そうにしていた。子供の素直で純粋な瞳で。
「星華は、ちゃんと謝ったではないか。何か間違ったことを言ったか? もしや、長く外国の言葉を使っておったから変な日本語になっていたか?」
「謝った、その後のことだ。葵の何かを知っている。おれにはそう聞こえた。それを聞きに来たんだ……」
星華は深く考え込む。なにかあるのは間違いなかった。
「……そうか。星華はあの盲目の少女を知っておるよ。君が出会う前からね。白々しく誤魔化してみたが君は葵の友達みたいだから」
「仮に星華が葵のことを知ってたからってあんなことを言う理由が分からない。もっとほかに何か——」
星華は空太の言葉を遮り、
「星華はあの少女の枷であり、罪であり、暗闇だからだ。今話せるのはこれだけだ」
空太には意味が分からなかった。うつろ気に語る少女はどこか儚げで……。
これ以上、空太には事情を聞くことはできなかった。聞いてしまえば、今までの葵との関係が崩れてしまいそうで恐ろしかった。夕闇に染まりそのまま消えてしまいそうな気がして。
「そういえば、空太はその、葵とはどんな関係なのか聞いてもよいか?」
話題を切り替える星華。星華自身も話したくはないのだろう。わざわざ話したくもないことを聞き出すほど空太は馬鹿ではない。いずれ聞くことになるだろうと……。
「葵は……そうだな、クラスメイトで、同じ部員で、友達だ」
空太は空太の過去があり、葵にも葵の過去があるそれだけだ。だから今は、葵が話すまでは見守るだけ。
「部員とな? 何の部活だ?」
「天体観測部だよ、まあ部員がいなくて存続の危機ってやつだけどな」
「天体観測部……」
この流れは、入ってくれるかもしれない。そう空太は思った。
「星華が入ってくれるとちょうど規定人数なんだけど、どうかな」
そう星華が入ってくれれば、存続はできる。ここは何としてでも。
「どうかなって言われても……そこ星華のとこ」
「星華のとこって……ん?」
「だからっ、天体観測部は星華の場所なのだっ!」
「……っていうことは、元からいた三年の先輩は」
「星華だっ!」
頭の中で整理する。星華は蒼藤の三年。おれたちの先輩にあたる。で、今までこんなに目立つ幼女を見なかったのはアメリカに人生の娯楽を求め留学。しかし娯楽は得られず、博士号をついでに取得し帰国。そんな天才幼女の先輩が天体観測部の幽霊部員で所属。っていうことは、星華は最初から空太と関係があったということになる。そのことを多分、恵は知っていたのだろう。どうせ聞いてこなかったからとか言うんだろうな、と嘆息する。
「じゃあなんで今まで部室に来なかったんだ? 帰ってきてから一回も来てないだろ」
「ん? 部室って何だ?」
「……授業の一環ってことでも一応は部活って言ってるんだから部室、おれたちが過ごす場所は用意してあるだろ」
「そういうものなのか……」
顎に手を当て頭に刻み込むようにうなずく星華。
この子はおれたちの当たり前が通じないのかもしれない。ずっとこの才能を、星華の頭だけを他人のために、言われるがままに使ってきたのだろう。確かにすごい才能なのは分かる。この年齢で博士号なんて取れるものではないのは空太でも分かることだ。その才能がゆえにおれたちが過ごしてきた普通の生活というものを星華は送ってこられなかった。いや、送ってこられなかったんじゃない、星華にとって聞かれたことをただやることが日常だったんだ。
「そういうもんだ。おれたちは同じ天体観測部の部員だ、同士だ、仲間だ。だから、星華は一緒に俺たちの部室で部活動をするんだ」
「そうか、星華も一緒に星を見てもいいのか?」
「いいんだ、星華もおれたちの仲間だったんだから今まで一緒にやってこれなかった分、これから埋め合わせしよう」
星華は目を輝かせる。子供のように、これからの未来を渇望するように。
「そうだな! これからは星華がお前たちの上に立つから覚悟しておけよ」
これで正式に部員は集まった。これから大変になることは目に見えて分かるのだが。
「これが天体観測部の部員、五名の名簿です」
学年主任に部員の名簿を手渡す。
「新入部員は……坂神の妹と休部中だった紀里谷……紀里谷か」
ため息をつきながらしばし黙りこむ。
「規定人数は揃いました。これで——」
文句はないはずですと言う前に学年主任が口を開く。
「受領した。これで正式に部として認めよう。問題など素行の悪いことを起こさぬよう部全体で勉学に励みなさい」
「……え?」
「用が済んだなら早く活動を始めなさい」
正直、何か吹っ掛けられると思っていた。空太や凪が一緒に活動することが気に入らない、何か問題を起こすのは確実だと決めつけていた奴が急に態度を改めた。理由として思い当たるのはやはり星華の存在だろうか。星華は教師にとって唯一、手綱を握れない相手。空太たちと違い才能という力で守られているからだ。だから、奴は言いよどんだ。星華というピースは天体観測部にとって結果的に全てを解決してくれたのかもしれない。
空太はこのことを報告するため、部員全員を部室へ集めた。
「っていうことで、天体観測部は存続できることになったからこれからもよろしく。入ってくれた二人……一人は元々居たらしいけどありがとな」
「坂神光莉です。よろしくお願いします」
「光莉は凪と同じ学年だ。よかったな友達ができるじゃないか」
「……うん、そうですね」
歯切れが悪い凪。体調でも悪いのだろうか。いつもだったら鋭いツッコミが入るのだが……。
「紀里谷星華だ! まあ、この星華が帰ってきたからにはバンバン星を見に行くぞ!」
星華が勝手に自己紹介を始める。本当に自由な奴。
「この子供は見た目に反してこの中で一番頭がいい。歳は十五だが学年は三年だ。敬ってあげるように……」
「なんだ、その言い方はっ!」
空太の頭に鋭い痛みが走った。歯を突き立てられている。そう理解するまでには空太の皮膚は待ってくれなかった。
「空太君、血が出てるよっ!」
「あれは空太がいけないよ」
「そうっすね、先輩がいけませんね」
どうやら空太の味方は光莉だけらしい。優しい子に育ってよかった。幸助や親父さんに感謝だな。
ただでさえ騒がしかった部室。二人の加入によってまた一層に騒がしくなっていたような気がした。
「で、先輩。あと一時間くらいしかないですけど、今日はどうするんすか?」
「ん~そうだな~」
今日は歩き回っていたから星の勉強くらいしかやることがない。それに二人が加入したことが一番の今日の成果になったから帰っても罰は当たらないだろう、疲れたし。
「かえ——」
「わたし、みんなでファミレス行きたい!」
葵が空太の声を遮りながら興奮気味で体を机に乗り出し言った。空太の声は無情にも皆に届くことはなく。
「おれは——」
「空太も行くよね?」
……拒否権はないようだった。
「はい」
空太の姿は獰猛な獣に狙われる小動物のようだった。
「それで、みんなはどうかな……」
少し不安げに言う葵。葵にとって皆を誘うのは緊張することのようだ。
「ファミレスってあの旗が刺さったやつが出るところか? 星華はあれ食べたいっ」
星華がよだれを垂らしながら言う。年齢は十五なのにお子様セットを注文するって。
「わたしもみんなで行きたいな」
光莉も賛成のようだ。控えめに賛同した光莉の視線は凪の方へ向いていた。
その視線を受ける凪は俯きその視線から逃れるようだった。
「凪ちゃんはどうする?」
葵がただ純粋に問いかけた。
「……すみません先輩方、わたしは今回遠慮させてくださいな」
「何か予定でもあったのか?」
「そうなんすよ~。いや~、残念だな~……」
少し俯く凪。何かから逃れるように見えた。
「だったらしょうがないね。また今度一緒に行こうよっ」
「その時にまた誘ってくださいね」
いそいそと凪は自分の荷物を指定のスクールバックに詰め込み逃げるように部室を飛び出した。追いかけなければいけないような気がした。しかし、何かに縋るような背中はどこまでも遠くへ行ってしまう。空太には追いかけることができなかった。
「やっぱりわたしがいるからかな……」
凪に申し訳ないと思ったが、星華の強い要望でファミレスに移動した空太たちは光莉がこぼした言葉の意味を聞く。
「それってどういう意味だ?」
「飯島さんは、わたしと同じクラスなんだ」
空太が聞いてもいつもはぐらかす。何か凪は隠している、そんな気はしていた。だが凪の元気な笑顔を見ているとそんなことなど無いと、『克服』してきているのだと思っていた。
「わたしのことを空太君と白木さんが誘いに来た時に飯島さんが空太君たちと楽しそうに話す姿を見て驚いちゃった」
「クラスでの凪ちゃんも元気なんじゃないの?」
「クラスで飯島さんの笑顔は見たことないな。いつも窓の外を見てるか教室にいないかのどっちか。クラスの子の誰とも話してないんです」
「それって、はぶられてるんじゃないのか?」
お子様セットをむしゃぶりつきながらみんなが思っていたことを星華はためらいもなく言った。
「そう思いますよね。わたしもクラス委員をしてるからある程度はクラスのみんなとは交流はあるのですが……飯島さんは自ら避けているみたいなんです。わたしも他の子も何回か飯島さんに話しかけたんですけど生返事でこちらの話は聞かないというか」
「凪はあれだけ笑える様になっただろ……」
「だから驚いてるの。クールなイメージだったから。人が嫌いなのかと思ってた」
心の中にあった不安を空太は口からこぼしてしまう。
「……凪はまだ乗り越えられてないのかもしれない」
空太も凪と出会って一年くらいになる。凪についてはある程度知っているが為にこの話を持ち出すことは空太にとってはしたくはないことだった。でも、凪にとってそれは甘えてるだけなのではないか、空太だけを頼っていてもなにも凪のためにはならないと。凪のために話した方がいいと空太は思った。
「おれが凪と出会ったのは一年前の凪が受験の時だ」
「その話長いのか? 長いならパフェを頼むぞ」
子供には……天才様には退屈な話のようだ。まあ楽しい話でもないと空太は構わず話す。
「おれは呼び出しを食らって、生徒登校禁止期間の学校にいた。金崎先生が飯がないから届けろっていう理不尽な命令をしてきたからだ」
「さすがだね」
空太もそう思ったが思うことそのまま言葉にするときりがないので話を進める。
「で、届け終わって帰ろうとした時だ。もう少しで午後の試験が開始する時刻だった。その時に凪に会ったんだ」
その時の光景を空太は頭に描く。
その時の空太は早く帰ろうと足早に廊下を歩いていた。
「あのっ」
後ろから女性の声がした。振り返ると見慣れない制服姿の女子が立っていた。それが凪だった。凪はかたくなに目を合わせようとしない。手を組んで自分のつま先を見ている、そんな子だった。
「何だ?」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「いいけど……君受験生か? 早く行かないと始まっちまうぞ」
「分かってます……けどわたし……ここは……楽しいですか?」
俯いたまま黙り込んでしまった。その時の凪は物静かな雰囲気のおさげの可愛らしい少女で空太はきっといいとこのお嬢様なのだと、そう思っていた。それほど物静かだった。
「何だか分かんないけど……俺は楽しいよ。いろんな奴がいて、面白い。よくサボるけど。おれは楽しいところだと思ってる。でも君には違うかもしれない。また違った考えを持つかもしれない。だから君は自分の目で見て確かめたらいいと思うよ。他人が言ったからここは楽しいとか、他人に言われたから入ったとか他人の言うことの言いなりになってる様だったら楽しめないかもな。自分で見て、聞いて、体感するそれが一番だと思う。それでも面白くなかったら俺と一緒にサボればいい。そうしたら面白いこと教えてやる」
人に言われてやってる様じゃ頼ってばかりの人間になってしまう。空太は一人でやってきていたからそれが身に染みて一番分かっていた。頼りすぎは良くないけれど本当に困っているときは頼るべきだ。それも幸助たちに教わった身に染みていることだった。
「あ、ありがとうございましたっ。わたしなんかに時間を割いてくれて」
「それ、わたしなんかなんて言葉は使うなよ。君の為に動いてくれる人は必ずどこかにいるよ。おれもその一人だ」
その時の凪は昔の空太を見ている様だった。だから背中を押してやりたくなったんだ。自分にも助けられると思って。
「先輩、わたしがここに来れたら……友達になってくれますか?」
今までで一番張った声で空太に願った。小鳥が巣立つように。
「ああ、当たり前だ」
「これが凪に初めて会ったときのことだ。ここの制服を着た凪の姿を見たときは心臓飛び出ると思ったくらいには驚いた。だっていきなり泣きながら抱き着いてくるんだからな」
「ん? それで凪ちゃんがなんで人嫌いになるの?」
葵が不思議な顔をしながら言う。
「それは……凪にとっての他人は敵だからだ」
ここまでの話を聞く限りただの人見知りの少女に聞こえたかもしれない。けど本質はまた別にあった。
「これは後から聞いたんだけど……」
葵と光莉がこの話を聞いて凪と今まで通りやっていけるのだろうか。この話は凪にとって一番知られたくない過去、そして凪という少女の本質。それを知って彼女たちは普段通り接してやれるのだろうか。空太は恐れていた。
「空太?」
葵の心配する声。空太の心を読み取ったようだった。
「これから話すことは凪にとって一番聞かれたくないことだ。それを聞いても凪と今まで通りに接してやること、それを約束してくれないか? 決してお前らを信用してないわけじゃないんだ。むしろ信頼してる。けど、凪が傷つくところは見たくないんだ」
少し考えこむ二人。これから話す事の重大さを察してくれたのだろう。星華はどでかいパフェを食べ我関せずの状態だ。マイペースなのは助かった。
「……空太君」
先に口を開いたのは光莉だった。
「わたしは……その話を聞いても飯島さんと話せる自信はない。飯島さんが拒絶すると思うから……」
光莉は不安なんだと思った。凪が拒絶しているのを、他人を嫌っているのを知っているから。凪のなかでは光莉は他人で、敵なんだ。空太はどう答えればいいか分からなかった。
「でもね」
光莉が空太の迷いを払拭するように言葉を強く言う。
「でもね、わたしはそれでも、飯島さんと仲良くなれるなら、飯島さんの……空太君のように支えられるような存在になれるなら、友達になりたいから……聴くよ」
光莉は心に決めた瞳で空太を見つめる。あとは葵だが……。
「空太、わたしを馬鹿にしすぎ。話を聞いたからって凪ちゃんが変わるわけないじゃん。凪ちゃんは凪ちゃんだよ」
聞くまでもなかったようだ。葵にとっては凪は凪、他の誰かが何か言ったくらいでは揺らがない、そういう信念を持っていた。
「そう……だよな。ありがとう」
「星華のことを忘れているようだが……凪とやらにとって星華は敵ということになっているのか」
「聞いてたのかよ」
パフェに夢中で聞いてないと思っていた……。
「じゃあ、凪に星華が上だと教えないといけないな。しつけだしつけ」
星華は星華なりに考えてくれたのだと思う。それだけでも嬉しい。凪の周りにはこんなにもいい奴がいることが。
「凪はな……」
やはり言葉に詰まる。言葉にすると心がはち切れそうになる。そんなことだから。
「凪は人の優しさに触れずに悪意にだけ触れて生きてきた。そう、言っていたよ」
凪は空太と一緒にサボるようになった時だ。空太の行動を真似るみたいにどこに行っても付いてきた。例の屋上で一緒に寝転がってきた時だ。その言葉を聞いたのは。
凪の言うことはとても一緒の言語を使っているように思えないほどに重く、暗く澱んでいた。
「わたしは、人というものはどれだけ醜いかを知っているよ。だから、わたしには、飯島凪には空太先輩しかいらないんだ」
凪の言うことは……冷徹だった。空太は言う言葉が見つからない。
「先輩は人を信用できるのかな?」
「おれは……すべての人間にどこか少しでもいいところがある、そんなことを思えるほど善人じゃない。むしろ、人の中には……醜さしかない人間もいると思う」
凪はただ黙って聞いていた。しかし空太の言葉は凪にとって軽く浮かんでいるような、そんな言葉だった。
「それも人間だから。だけど、友達や信頼する人は例え醜さしかなくても信用しようと努力する。それも人間なんだと思う」
醜さや悪意は必ずどんな人間にだってあるものだ。それが暴走して他人に迷惑をかける。それが人間だ。でもそれだけじゃない、空太は朋美や幸助にそう教えられた。
それでも彼女には……、
「先輩、それでも……信頼していても、どんなに仲良く心がつながってる親友みたいな人でも、人は、裏切るんだよ。自分の身が結局一番かわいいから。自分が傷つきたくないから。それは、家族でも変わらないんだよ。血を分けても根本は人間っていう種族だからね」
凪には世界が醜悪におぞましく作られているのだと、空太はその数十秒の言葉で感じ取った。一文字一文字がとても冷たかった。凪の世界の色は黒より暗い、深淵の色をしているのかもしれない。そんな言葉だった。だから聞きたくなった。空太もその色を知っているから。
「凪は……この世界をどう思ってるんだ?」
「…………」
凪は深く考え込む。世界の深淵の答えを探すようにして。
「わたしの世界は……きついっすよ。醜くて醜くてきついっす。今まで何度も消えてしまおうと、何度も何度も……。こんな青空はわたしには眩しすぎてきついっす。だから見なくていいようにしたかった」
そう言いながら凪はパーカーで隠れた細い右腕を差し出し、その隠れた姿を空太の見せた。
「っく!」
「そうっすよ。それが当たり前の反応なんすよ。でもわたしはこれを見てもなんとも思えない」
その細い右手首には大量のリストカットの痕。一部は肉がえぐれ過ぎて傷跡とは思えないほどの生々しい傷。何度も何度も切り刻んだ、その痕。その痕をいつものへらへらした顔で見せてきた。
「お前っ、今は——」
「やってないっすよ。だって神様にとってわたしは死ぬ価値すらない人間みたいっすからね~」
「ちげーよっ‼ 神様はまだ生きろって生きてくれって思ってるからっ‼」
「……生きてくれ、ね~」
クスクスと笑い出した。空太はその光景に寒気を覚えた。
「じゃあ先輩、神様はこの醜い世界で……地獄に居続けろって、そう言ってるんだ。なんとも鬼畜な神様だね……鬼畜過ぎてこれ以上はもう……」
「…………」
二人に沈黙が続く。それは十分だったのか数秒だったのかは分からない。空太にはとても重く辛い時間。何も言葉を言ってやれない自分にただただ腹が立った。
でも、これだけは空太には言えた。
「……確かに、鬼畜な神様だなそりゃ。でもその神様は一つミスしてるよ」
「これ以上ない完璧な仕事だと思うよ」
「おれだ。藤堂空太という人間を飯島凪に引き合わせちまったことだ。おれは絶対凪を傷つけない。凪がそれを信じなくても、おれが決めてるんだから関係ない。おれは凪には笑ってて欲しいから、生きてて欲しいから」
どんなに信用がなくても人の意思は変えられない。意思を変えられるのは自分だけだ。凪を傷つけない、そんなことだが大切なこと。大切な空太の意思。
「わたしは、空太先輩のことだけは信用してるんですよ。神様よりも誰よりも。それは誰に言われても揺らぎません。空太先輩だけは……」
凪は心から叫ぶように空太に向かい伝えた。空太にとって嬉しいことだった。
「おれはそんな善人みたいな奴じゃないけど凪がきついならきついって吐き出せるそんな存在に、凪の支えになれるならなりたい」
凪の支えになりたい、本心だった。それが凪に伝わるよう全てを込めて伝える。
「先輩、それ告白みたいっすね」
「おいおいっ、笑うなって」
「でも、うれしいっす」
ニッコリと笑う凪の姿は黒い影など隠してる様には見えない。今までだってそんな素振りは一度も見せてこなかった凪が今まで笑顔を貫けたことが驚きしかなかった。
「先輩はわたしに何があったかは聞かないんすね」
笑顔のままで空太に問いかけた。これは信用している笑顔、そんな気がした。
「凪は、話したいのか?」
「楽しくなる話じゃないっすね……でも、空太先輩が知りたいのなら」
「……おれが聞いて助けになるんだったら……お前が楽になるんだったら聴くよ」
凪は一つ溜息を吐いた。それはまるで区切りをつけるように。
桜色をした瞳が一瞬、光ったような。そんな気がした。その光は何の光なのかは分からなかったが決意に満ちた瞳、いや、深淵を覗く瞳かもしれない。
「分かった。先輩に全部吐き出します……」
空太は黙ってうなずく。凪の手は震えていた。そんな姿の凪を先輩として、友人として見守る。辛いばかりが人生でないと分かってほしいから。
「先輩もなんとなく分かってるでしょ? 原因はいじめだって……」
「まあな、そんな気はしてたよ」
凪の見捨てられたという言葉でなんとなく察してはいた。しかし、ストレートに言われると心に刃が刺さるようだった。
「わたしがいじめられてたのは、中学の頃かな、確か。その頃は友達もいたし先輩に接するような元気な可愛い子だったんだ」
確かに、凪の容姿は整っている。男子から見ても可愛いとは思う。自分で言うのは凪らしく恐怖を隠す。空太を思ってのことだ。
「そんな可愛い子はなんでいじめられたんだ?」
「そんなのは簡単だよ。目立っていたから……ただそれだけのことだよ」
苦笑するように笑いながら話を進める。
「最初の理由はそんなもんだとは思う。あるクラスの子が好きだった男子がわたしと仲良くしてるのが気に食わなかったんでしょ。出る杭は打たないと気が済まないから。まず始まったのは無視から。その子に話しかけると存在がないように、いないかのように無視してきた。」
「その子の嫉妬から始まったのか。よくある話だ」
「それだけなら別によかったんだけど。そこからだんだんエスカレートしていった。まず、物の紛失。隠されてたり、ボロボロにされたり、トイレに捨てられてたり。本当にそんなことする奴がいるんだなと思ったよ」
聞いてるだけでも胸糞悪い話だった。表情に出てしまっていたのかもしれない。凪に手を握られてしまった。
「先輩がきつそうだね」
「お前が一番きつかっただろ。おれはただキレてるだけだから」
「それから、それまでの友達はみんな無視する状況になった。その子はクラスの中心だったから、どんどん増えていった。その状況ではわたしが友達だと思ってた男子や女子関係なくいじめに加担するようになった。よくある話だけど花とか置かれてたよ。ありとあらゆる噂を広げられて結局学校全体でのいじめ。あいつはヤリまくってるビッチだとか、腐ったような臭いがするから近づいちゃいけないとかいろいろとわたしに聞こえるように言ってたよ」
「教師は、把握してなかったのか?」
それだけ学校中に広まっていたらいくら無能な教師でもわかっているはずだ。
「分かってた、そう思いますよ。でもわたしを助けてはくれなかった。教師の目の前でやられても見て見ぬふり。そんな学校だった。迷惑をかけないようにとかそんな言葉を残していつも去っていく」
ここまで腐っている学校はあるだろうか。生徒よりも自分の保身。そんな学校は学校とは言えない。ただの良きものを出荷する、養豚場か何かだと思っているのだろう。
「でも一回、わたしが親に相談して保護者面談をしたことがあったんすよ。いじめを受けているそうなのですけど、学校ではどうなのですかって」
過去の自分がした行いをまるで嘲笑するように言っていた。
「その時の担任がなんて言ったか……いたって優秀な生徒さんで、周りのお子さんとも仲良くやっておりますと。そんな心配はありません。平然と言ってました。知ってるくせに自分の身が可愛いから嘘を平然とつく。それからです。人間は平気で平然と裏切るって。わたしは一人でだれも信用せずに生きるって決めたのは」
「親御さんもそれを信じちまったってことか……」
「たぶんわたしの戯言だって、そう思ったんじゃないすか。何かの間違いなんじゃないかって思いました。それから親には足蹴にされるようになりました。いつまでそんな嘘をつくんだ、いい加減にしろと」
凪の手は固く握りしめられていて、
「何回か叩かれたりもしました。それからの飯島家は殺伐として両親が離婚。わたしはアパートで親と離れ一人で暮らすようになりました」
空太とはまた違った過去。人それぞれには過去がある。楽しい過去があれば思い出したくもないクソみたいな過去もある。それを乗り越えることはとてもじゃないが簡単じゃない。それは空太も理解していた。凪にとっての乗り越えるための踏み台は何だったのだろか。そんな疑問が空太の中に浮かぶ。
「それがいけなかったのかもしれません。一人で行動するようになって、わたしは壊れてしまった。穢されたんです。神様はそれだけでは足りないと、そういうわけです。神様はわたしにもっと傷ついてほしい。そう思ったのかもしれない」
そんなことはないと空太は言おうとするが凪の声は途切れない。
「わたしはいつも通り人通りの多い通りを避けて、人の行き来が少ない路地を通り家に帰ってました。路地に曲がるときに人とぶつかってしまったんです」
それからの凪は淡々と平然と冷徹に一つ一つの出来事を噛み締めるように語った。
「ぶつかってすぐに謝って逃げるようにそこを立ち去った。そのつもりだった。後ろからわたしは襲われました。男性でした。男の声が、汚い息が、ベタベタと体にまとわりつく。そんな感覚。相手が何を言ってるのかは分かりませんでした。わたしの見えていた、聞こえていた世界が全てのものがシャットアウトしてしまったんだと思います。黒く染まったその世界には感覚だけは残っていてこれからわたしは穢されてしまうんだと、そう理解しました」
本当に凪にあったことなのに俯瞰して見ていたように淡々と言う。
「目を覚ましたのは病院でした。真っ白い天井。薬品の匂い。だけど、すぐにわたしの鼻がおかしいことに気が付きます。生臭い臭い。それがこびりついて取れない。それからすぐに刑事さんが来て事情を聞きました。わたしは犯されて放置されていたのだと。そこに野次馬がたくさんいてネットで拡散されてしまったと。その時のわたしは、ああ、そうですかとしか答えることができなかった」
なんと声をかければいいのか、凪に起こったことは想像をはるかに超えるようなことだった。声を発すること、考えることすらできない。
「それが一番怖かった。本当に壊れてしまったんだと、涙一つでないこの冷え切った心に恐怖しました」
「……」
「引いちゃいますよね。自分のことはどうでもいいと思っちゃうんだから。こんな体から一刻も早く解放されたくて何度も何度も自分の手首を肉がえぐれるように切りつけました。でも、神様は解放させてくれませんでした。酷い話です」
酷い話は凪に起こったことのはずなのに自分が死ねないことが酷い話だと。当たり前のように言う凪は人間の目はしていなかった。
「だから、この学校では自分という存在を殺して生きていこうと、誰からも認識されないように生きようと、そう思って遠くの学校で、噂の届いていなさそうな場所で過ごそうと。それでわたしは一人で引っ越しをしてきました。でも……」
今まで光が灯っていなかった目が優しく光りだす。
「わたしは自分を捨てきれなかったのかもしれませんね。まだ希望を持ってたのかもしれません。先輩に会って質問してしまいました。この学校は楽しいかと。そしたら先輩は楽しいと言ってくれた。一緒にいてくれるとも言ってくれた。先輩には普通の質問に聞こえたかもしれない。でもわたしにはこの質問の答えで、先輩の笑顔で救われた。この先輩とだったら生きていきたいと、この体でもいいと思えたんです」
まるで凪が希望など持ってはならないと、空太はそう言ってるような気がした。
「おれは、凪にとってそんな奴じゃない。お前の過去を聞いて……何も声をかけられない。そんな奴だ。何も言う言葉が出ない。あるのは、驚きと憎しみと悲しみだ。それだけのことしか思ってやれないんだ」
そのまま空太は爪が手のひらの皮膚に突き刺さるほど拳を握りこみながら話し続ける。
「なんでおれをそんな目で見れるんだ? なんでそんな笑顔でいられるんだ? おれにはできないよ」
空太に虚ろな表情が浮かぶ。凪はそんな姿の空太を優しく包み込んだ。血が滴り流れる空太の手を凪はさすりながら言葉を連ねる。
「わたしは空太先輩には笑ってほしいから、笑顔でいてほしいから笑うんだよ」
凪はそれでも笑っていた。全ては空太が笑っていてほしい、そんなささやかの願いの為に彼女は笑う。桜色の瞳には優しさの光が灯っていた。
「空太先輩、いつもみたいに、友達みたいに接してくださいよ。そうじゃないとわたしは笑顔を作れない。先輩の前では笑顔でいたいんすよ。それに先輩はこんなにもわたしのことを考えてくれるじゃないすか。それだけでうれしいんすよ」
凪の今にも泣いてしまいそうな顔。凪の笑顔は脆くて、模造品かもしれない。上辺を塗り固めた笑顔でも凪には笑っててほしいと空太は思った。いつものように内容のない会話をしたいと、いたずらな笑顔な凪と話したいと。
空太は笑った。涙が流れながらも笑った。
「凪は変わらなくていい。人が嫌いなままでいい。それだけのことを人間がしてしまったんだから。凪を傷つけてしまったんだから。でも……」
凪と空太は約束を交わした。それは未来に進むため。世界をほんの少しでも好きになれるように。
凪に起こったことを全て葵たちに話した。聞いたことを包み隠さず。凪が打ち明けた時はこんなにもきつかったのだろうか。いや、凪は当事者でその辛さは想像できないほどだと空太も感じた。自分の辱められた過去。そんな過去を知った者は普通に接することはできないと思う。事実、空太自身も聞いてすぐの頃は凪にどう接していいのか分からなかった。今でも凪に対して普通に笑えているのか分からなくなる。そんな凪の過去を聞いて葵たちは平気なのだろうか、空太は不安になる。凪の気持ちを考えると軽々と話していい話ではないことは分かっていたが、凪にも一歩進んでほしいから、葵たちなら平気だと思ったから。
「凪はあと一歩踏み出せないでいるんだと思うんだ。まだ人を敵だと思ってるんだと思うんだ。だから、同年代の光莉に友達に、仮初じゃなくて光莉が人間にも味方がいるんだと思ってもらえるような存在になってほしいんだ」
「……飯島さんの過去は分かったよ。正直、わたしにはどうしたらいいか分からないよ。空太君は寄り添うことで、言葉をかけることで飯島さんの味方になれた。でも、わたしは寄り添うことはできない。飯島さんが拒否するから……」
極論、凪が受け入れてくれないといけない。それは空太も分かっている。それでも凪は、人間が敵だと言っていても本当は人というものを欲している気がする。葵と出会ったとき、凪は憎しみの顔をしていない。星華の時だってそうだ。憎しみの顔よりかは寂しい、そんな顔をしていた。それは、光莉にとっても同じで。
「それでもわたしはクラス委員だから。飯島さんの気持ちを分かってあげないといけないから」
そう言うと光莉は立ち上がり走り出す。空太には駆け出す先が分かる。この場の全員が分かっていたかもしれない。それだけ真っ直ぐ走り出していた。
過去とはどうあっても離れられない。どこまで逃げても縋るように、ねちっこく憑いてくる。凪は人込みを避け歩く。それはあの出来事があっても変わることができなかった。変わりたいと変わらなければと思ったこともなかったけど。
本当に面白いと、そう思った。凪にとって世界は残酷で笑えないほどにクズ仕様な設定でできていて、そんな世界で生きていくのは面白いとそう思うようになっていた。
「……っ!」
そんな考え事をしていると人とぶつかってしまった。そういえばあの時もこんな。
あの時と同じように。そうしようと思った。
「……ごめんなさい」
あの時と同じように謝りこの場を駆け出す。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
何度も謝りながら走る。謝っていれば何とでもなるから。自分を捨てたことへの謝罪を連ねればいつか救いが来るから。そうして生きていけば、謝りながら生きていけば空太と一緒にいれるから。
凪の肩に伸びる手。それはまるであの時のようで。
「また神様はわたしを見捨てたんだね……」
神にとって飯島凪はおもちゃでしかない。神が楽しむための玩具。その役目を全うしよう。それが飯島凪の仕事だと自分に言い聞かせていた。人間であることを捨てようとした。捨てようと。
「待ってっ!」
掴まれた肩。その手はとても小さくて、震えていた。明らかに男のものではない。振り向いたその先には光莉が立っていた。息切れが激しい。今にも倒れてしまいそうだった。
「飯島さんっ」
その小さな体から発せられた声は信念を持っていた。凪にとっての光莉はただのクラス委員で何の関わりもない。
「……く、クラス委員がどうしたんすか? また呼び出しっすか……。手離してもらってもいいすか? わたしに触るとろくなことないっすよ」
凪にとってはクラス委員という皮をかぶった敵。だから早く手を離してほしかった。早く手を……。
「わたしは離さないよ」
光莉が向ける瞳は真っ直ぐに凪に向けられる。その真っ直ぐな意思から逃げるように凪は目をそらす。
「飯島さんはわたし……いいや、誰とも目を合わせないよね。それはなんで?」
「わたしは人見知りっすから——」
「なんで嘘つくの? 違うじゃん。逃げてるだけだよ、それは」
そのまま黙り込む凪を追い詰めるように言葉を吐く。
「わたしは飯島さんの生き方を否定しない。人それぞれ生き方はあるし尊重するべきだと思うから。でも、飯島さんのことを見てると……辛いよ」
「そ、そんなの、あんたには関係ないだろっ」
初めて光莉に対して凪が意思を示した。今まで生返事でこちらの存在など無いような態度だった。それが初めて光莉という存在に向かって言葉を投げかけたのだ。光莉は嬉しさの中、もっと凪と言葉を投げ合いたいと思った。
「関係なくはないんだよ。わたしたちは同じクラスで、同じ部活動で、人を好きになれる女の子なんだから……」
「わ、わたしは人を好きになんか……」
この子は何を言っているんだろうと、光莉はあきれ返る。
「まだそんなことを言うんだ。飯島さんにとって、人は悪ですか?」
「……」
凪はその答えを出せない。
「飯島さんにとってこの世界は悪ですか?」
「……」
またも答えが出ない。
「もう、答えは出たんじゃない?」
「っ!」
凪は凪なりの答えが出ていると、そう思った。その指摘は凪に動揺を与える。
「最後の質問。飯島さ……ううん、凪はわたしと、友達にはなってはくれないんですか?」
質問、そんな願望。それを伝えるために、凪には味方がいることを言いたくて。
「……わたしは、空太先輩がいればいいんです。それでいいんです。葵先輩もとってもいい人です。星華さんもいい子っぽいし」
敵なのに敵のはずなのに。
「わたしには天体観測部という場所ができて、毎日が楽しくて……」
先輩以外は必要じゃないと思っていたのに。
「本当に毎日がキラキラしていて……」
そんな凪の頬には雫が何個も伝っている。それでも凪は言葉を止めない。
「仕舞には、わたしなんかと友達になりたいなんて言われて……」
凪の顔は涙でグシャグシャにしながら言葉を続ける。
「そんな世界なんて……嫌いになんかなれるはずないじゃないすかっ!」
凪が固く閉じていた心を少しずつ開くように。
「でもやっぱりわたしは、世界は苦手できつくて怖い」
空太にしたように吐き出していた。光莉は黙って言葉一つ一つを噛み締めるように聴く。
「世界が、人が、怖いんですよ……」
凪の弱音。それは不意に出てしまったようだった。
「だから? どうしたというの?」
「だからって——」
「世界が怖いから、人が怖いから、だからってわたしと友達になれないわけじゃない。だって空太君とだって友達になれた。そうでしょ?」
「先輩はちが——」
「何が違うの? 空太君だって同じ人間なんだよ。空太君にだって悪いところがあるんだよ。だから他の人だっていいところもあるんだよ。いいところは好きになれるって、自分が努力しないと、それを空太君が教えてくれたんじゃないのっ?」
光莉が凪に怒りのようなものをぶつける。今までの空太の行動が否定されたような気がしたから。
「先輩はいい人だから、こんなわたしなんかにかまってくれるんです」
凪の気持ちは揺らいでいる。
「……わたしなんかなんて言うのやめようよ」
「え?」
空太に言われたことを思い出す。凪の頭には、何も成長していないんだと、結局自分を否定し続けているんだと改めて実感する。
「わたしなんかなんてことない。凪は凪、わたしの友達になる凪なんだ。凪がダメと言ってもわたしと凪は友達。友達だから、凪だからお節介を焼くんだよ」
光莉にとってってだけじゃない。全ての人間とは言わない。この学校全ての人とも言えない。でも、天体観測部にとって大切な人だから、存在してほしいから、これからもっと幸せになってほしいから。それを言葉にするにはもっと飯島凪という人間と接していかないといけない。凪が幸せになるための一歩を光莉は、空太は、歩ませたかった。
「……そんな、勝手に決められても、困るって」
「もう決めちゃったんだから、いいでしょ?」
「先輩も、坂神さんも勝手にわたしの心に入り込む」
入り込んで、入り込んでまんべんなく凪の心を染めていく。黒く寂しく染まっていた心を勝手にカラフルにしていく。虹色に、心に橋を架ける。
「勝手に呼び捨てにするし」
「それは凪もすればいいと思うよ。名前を勝手に呼んだって壊れたりしないから」
「なんで分かったように」
壊れる。人は簡単に壊れることを凪は身に染みて知っている。身に刻まれている。人は脆いのだ。だから、凪は人と関わらず生きてきた。自分が傷つかないために。他の人を傷つけないために。
「ほら、呼んでよ」
「……坂神さん」
「違うでしょ?」
「……わたし、坂神さんの下の名前知らない」
「えっ? それはさすがに傷つくな~」
「ご、ごめん」
凪にとって必要な情報でもなかった。まず、坂神という名前もうる覚え程度のものだった。
「ひかり、光莉って言うんだよ」
「光莉……さん」
「呼び捨てでいいよ。空太君にだってあんなに心開いてるんだから、わたしにも開いてくれたら嬉しいな」
光莉が笑顔を向けると凪はたじろいでしまった。本当に空太以外に慣れてはいないようだ。
「……光莉」
「はいっ」
凪は深呼吸をしてから、
「光莉っ、わたしと友達になってくださいっ」
自分の意思をぶつけた。
ここから彼女の幸せになるための色を探していく。光莉が空太からそのためのきっかけをもらったように、凪も光莉からきっかけをもらう。人はどんなに拒絶をしてもどこかで繋がる。暗闇の中に光が差すように、歪んでしまった繋がりには正そうとする繋がりがある。それに気づけるのは、正せるのは向き合おうとする自分がいるかどうかなのだと。
「わたしはもう踏み出せたのかな」
呟くように凪が言う。
「凪は少し遅れちゃっただけ。この学校で今までの遅れを取り戻せばいい。そのための一歩が今日なんだよ。凪なら友達はすぐできる。だって、こんなにも優しいんだから。他人のことを心配できる子なんだから」
少し遅れた子は寄り添って一緒に歩いてあげればやがて追いつく。寄り添ってくれる人は必ずいる。それは家族じゃないかもしれない。恋人でもないのかもしれない。でも、必ずいると信じたい。凪に空太たちがいるように。
その日、模造品のような冷えた笑顔は明るく太陽のような温かい笑顔になった。
光莉が出て行った。光莉がどこに行ったのかは考えなくとも分かった。凪の隣にいれるのは空太だけじゃないと叫ぶように走り出す。
「美味しかったーーー」
星華が腹を膨らませ、満足気に笑う。この銀髪は本当にお子ちゃまなのだと空太は思った。
「凪ちゃんにそんなことが……わたしといるの辛かったのかな。凪ちゃんにとってのわたしは——」
「それ以上言うな。凪が葵といて辛いなんてことない。おれ、凪と葵が初めて会ったとき、正直焦った。このタイミングで会うことになるとは思ってなかったから」
いつも突然現れる凪。葵という初対面の人。葵はこういう性格だから平気だが、凪は。凪にとってその出来事は、おそらく……恐怖という感情を抱く。空太は時機に、ゆっくりと打ち解けてほしいと、そう思っていた。
「凪は怖かったと思う。おれが知らない人を連れてくるとは思ってなかったと思うから。大抵、おれが一人でいるのをあいつは知ってる。だから人がいない放課後なんだ」
「でもあの時の凪ちゃんは……」
「そうなんだよ、あいつは逃げなかった。しっかりと自己紹介をしたんだ。何度かこういうことがあったけど、こんなことは一度もなかった。いつも走って逃げてしまうんだよ。でも逃げなかった。こうして打ち解けることができた。だから凪が辛いなんて思うはずがない」
葵の優しさ、境遇が凪の心に通じるものがあったのかもしれないと空太は考えた。凪がそう考えられるようになったのは、空太が寄り添ったから。一歩ずつ、凪が進む努力をしたから。他人から知り合い、そして友達になるまで。そんな当たり前をできなくなってしまった女の子。そんな女の子が一歩を踏み出せたことに空太は嬉しさを覚えた。
「凪ちゃんは今までずっと涙をこらえてきたんだ。だから笑ってて欲しい。もっと心から笑えるように」
「おれたちは凪より早く卒業する。だから凪の寄り添える場所を作ってやりたいと思ってた」
「光莉ちゃんがその場所になってくれればいいね」
「なれると思う、光莉なら」
先輩として、友人として凪に何か残せたらと。これからも笑っていてと願いを込めて。
空太たちの席に鳴る一つの電子音。音の元は空太のスマホだった。
「凪からだ」
凪からのメッセージを知らせる音だった。
メッセージには、空太に来て欲しいとそう打たれていた。部員も連れてきて欲しい。訳も打たずに打たれたその文章。不安と期待を交差させるように感じた。
指定された場所に行くと凪と光莉が並んで空太たちが着くのを待っていた。
今までの凪は空太以外の人間を隣に置くことはなかった。それは葵の時も同じで。葵といる時でも、空太の隣か葵の斜め後ろにしかいない。仲が良さように見えていても隣にだけはいなかった。
その凪が光莉の隣にいる。それだけの一歩を光莉が踏ませた。それは空太でもできなかったこと。
「みんな来てくれてありがとう。特に空太君には聞いて欲しいことがあるから」
光莉は凪を見ながら言った。空太に聞いて欲しいこと。凪から空太へ伝えること。
「わ、わたし……」
小声で小さく呟くように、捻り出すように声を出す。しかし空太の耳には届かない。
空太は黙ったまま聴く。凪が自ら進めるように。空太がいなくとも進んで欲しいから。
「っ!」
光莉が凪の手を握る。前へ進めと言わんばかりに。どんなに粘る泥沼でも一緒にいると。一緒に進むと。
光莉の優しさは凪の支えとなっている。そんな光景だった。この場にいる全員がそう思った。
「星華ちゃん」
凪が勇気を振り絞る。
「葵先輩」
一人一人の名前を呼ぶ。
「そして、空太先輩」
名前を噛みしめるように。
「わたしは、ここに、蒼北に、天体観測部に、友達の輪というものに居ますか?」
凪の問いに思わず笑みが零れる。
「当たり前だ、ここに居るじゃないか」
空太は笑顔で返す。
「居場所がちゃんとあるんでしょうか?」
「凪ちゃんの居場所はここでしょ?」
葵は優しく返す。
「味方なのでしょうか?」
「星華を敵に回すということになるな。それは宣戦布告なのか?」
星華はイタズラっぽく返す。
「わたしは……」
凪の目から雫が零れる。
「わたしは、進んでいいのかな」
「初めて会った時に言ったよな。自分で決められない奴はこの学校では楽しめないかもしれないって。凪はどうなんだ?」
人に言われるがまま。そんな生活は楽しくはない。人に怯えて生きている。そんなのと同じだ。凪の過去は悲惨だ。けれど人は前を向いて歩くものなのだと、人は自分で決断できる生き物なのだと凪に思って欲しかった。
「わたしは自分がオドオドしながら生きているのがただ、辛い。なのに、弱者でいることに甘んじて、受け入れて。そんな自分がただ、憎い。空太先輩に寄りかかってるだけの自分がただ、恥ずかしい」
「寄りかかるのはしょうが——」
「こうやって先輩に気を使われ続けるのがただ、きついっ」
「凪ちゃん……」
心の葛藤を全て言葉にしていく。
「だから、わたしは変わりたいっ!」
凪から初めて聴く変わりたいという本心からの言葉。それを口に出すことは彼女にとって重いこと。変わるということは昔のことを受け入れる、振り返る、そんなこと。凪の時がようやく進もうとしている。逃げてばかりの少女から変わるために。
「凪は変わったよ」
ふと、言葉が勝手に喉の奥底から出てきた。空太はこれをずっと言ってやりたかったのかもしれない。
「変われたよ。だってこんなにもいい友達が周りにいるじゃないか」
凪の周りには初夏の暖かい風が吹いた。祝福でもするように。
「……」
大粒の涙。静かにポロポロと伝う涙。その姿を見ることはないと、そう思っていた。凪はこのまま気持ちを抑えて生きていくのではないか。それを光莉が心を温めてくれた。照らしてくれた。
「わたしと居てくれて──」
凪から出た言葉は、言葉と言うにはあまりにも不恰好で、しかしその言葉心が温かくなる言の葉だった。
「ありがとうございますっ!」
とびきりの笑顔は涙に濡れていて、汚れを洗い落とすような表情をしていた。
葵が凪に近づく。
「はい、これ使って?」
花柄のハンカチを手渡していつもの笑顔を向ける。その笑顔は太陽のように凪を明るく照らす。明るく優しい光から差し伸ばされた手から、暗闇から這い上がるように小さな布切れを受け取った。とても優しい匂い。優しい温もりをを体に覚えさせるように涙を拭く。ありがとうと何度も言いながら。