第四章 進んでいく時の中で
朝日が昇り小鳥がさえずる暖かく気持ちのいい朝。そんな朝だが空太にとっては日の光が目を強制的に開けさせてくる地獄のような朝だ。
また電話で起こされるのは勘弁だと思った空太はスマホにタイマーを設定し予定時間の三十分前に起床した。こんなに早起きをしたのはいつ以来だろう……。
「くそ……寝不足だ……」
頭を掻きながら洗面台へ向かう。顔を洗っていると足に知った毛並みの感触。餌をねだりに来ているのだ。
「ちょっと待っててくれ~」
言葉が分かるのか、尻尾を優雅に振りながらリビングに向かっていった。比較的、頭のいい猫で助かる。
身支度をし終わり、猫皿にいつもの餌を盛ると待ってましたと言わんばかりにがっつく猫の姿にやはり獣なのだと思った。
約束の時間まで五分ほどだったので家を出ることにした。靴の紐を結んでいるとさっきまで餌に夢中だった奴がすり寄ってくる。
「俺だって行きたくはないよ……じゃ、行ってきます」
こいつとの別れを惜しみながら玄関の扉を開く。扉の外にはほのかに残った春の香りがひろがっていた。
鍵を閉め、三軒隣の家へ向かう。白木屋の暖簾をくぐりながら、
「おはようございま~す」
「少年、おはよう」
そこには源之助の姿だけがあった。
「ちょっと待ってくれ、葵を呼んでくる」
そう言いながら奥に消えていった。ショーケースの中の握り飯を見る。中身は朝に売れたのかあまり残っていなかった。
「ちょっと待ってて~」
葵の声だ。急いでいそうな声だった。
「急がないでいいからな~」
これで怪我をされては早起きをした意味がない。
「おまたせ~」
葵の表情からは初日の学校の時の緊張感は感じられない、むしろワクワク感のほうが強そうだった。
葵が前からそうしていたように空太の肘にくっつく。
「葵、くっつきすぎじゃないか?」
「そ? いつも通りでしょ?」
源之助の目が痛いのは考えるまでもない。
「行ってらっしゃい」
ふと聞こえた三葉の声に驚く。
「どうしたの空太」
「いや、久しぶりに聞いたから」
『行ってらっしゃい』など聞いた記憶がほとんどない。聞きなれない言葉に驚いてしまったのだ。
「おい、くっつきすぎだ」
源之助によって葵を悩ませる空気が壊される。
「二人とも、行ってらっしゃい。あ、葵に手を出したら殺すからな」
やはりこの家には慣れない。照れくさくなる空太だった。
「「行ってきます」」
そんな挨拶が言える家庭。笑顔があふれる家に少しづつ憧れを持つようになっていた。
いつも通りと言えるほどに空太の中で葵と行動することが増えていった。いつも通り葵に起こされ、いつも通り葵と登校し、いつも通り葵とともに部活をする。そんな日々が過ぎ去っていく。過ぎ去っていく中で葵との時間は思い出に変わっていった。
今日は葵と前に約束していた買い物に行くことになった。葵と出会って一か月程経っている。決して忘れていたとかではない。葵から言われなかったら行っていなかったかもとかは……ない。
「今日は何を買いに行くんだ?」
「ん~、特には考えてないけど……服とか、見てもいい?」
「ああ、葵に対する詫びだから気にせず見に行こう」
「その詫びを寝て過ごそうとしたのはどこの誰だい?」
「俺です。今日はお金があるので奢らせていただきます」
少し前に長期バイトを始めた。本格的に自立をするためだ。両親が残した金は一円も使っていない。今までは日雇いや近所のご厚意に甘えて何とか生活をしてきたがさすがにこのままではいけないと思い始めてみた。場所は例のコロッケ屋。相談してみたらうちに来いと誘ってくれた。
電車で隣町まで行き駅の改札を過ぎると目の前には大型ショッピングモール。ここが今日の目的地だ。中には、食品から小物類まで……ここに来れば何から何までそろう魔法の建物だ。天宮町では考えられない活気づいた町。
「人の声がいっぱいするね~」
「うちの町の三倍はいるらしいからな」
「え、そんなに……」
軽く引き気味の葵を連れモールの中に入ると、休日のせいか人が波のようにうごめいていた。
「もう、見てるだけで人酔いしそう」
「熱気が、すごいね」
都会というのはこんなところなのだろうか。もういっそのこと田舎にいればいいや、と思った。
「まず、昼飯にしようぜ」
もう昼過ぎをまわっていた。葵の了承を得るとレストラン街がある階へ上る。
「お昼時だからどこも混んでるね~」
「ああ、そうだな。すぐ入れそうなところは……」
比較的空いていた、パスタ屋に入ることにした。比較的空いてるといっても昼時のためか、やはり並んでいる。ちょうど並びの列の席が空いていたので腰を掛けることにした。
「まだ着いたばっかなのに疲れちゃったね~」
「こうも人が多いとさすがにな……」
「空太は人が多いところは苦手?」
「どちらかと言えば苦手だな。騒がしいところよりか静かなところのほうが落ち着くというか」
「そうなんだね~。わたしも耳がいいせいかうるさいのは苦手。でも学校の騒がしさは好きだよ」
葵は蒼北のことが気に入ってくれたらしい。確かに騒がしいクラスだが空太にとってもそれは不快ではなかった。
葵と話しながら待っていると順番はすぐに回ってきた。窓際の席に案内され景色が一望できるところでのランチだ。こんなところでするのはいつぶりだろうか。空太は葵にもこの景色を共有したいと思った。
「ここの景色、夜とか綺麗なのかもな」
「わたしも目が見えたらなー、空太と見たものを共有できるのに……」
どうやら葵も感じることは一緒らしい。そんな彼女にごく普通に誘いの言葉を言う。
「そのうち、見えるようになるさ。その時は夜景を見に行けばいいさ」
葵の目が治ることはないのかもしれない。だけど希望を捨てることは、その人の未来を捨てるということだ。
「葵の目は治るよ。希望は捨てちゃいけないと思うぞ」
「空太に言われるまでもないよ。わたしは諦めたりなんかしないからね」
葵も諦めたりするような質ではなかった。葵は本当に強く生きてきたのだと空太は実感した。
「お待たせしました~」
店員が料理を運んでくる。葵には白くクリーミーなソースとこしょうと熱く切ったベーコンが添えられたカルボナーラ、空太にはあらびき肉が特徴的なボロネーゼが運ばれてきた。どちらもいい香りを漂わせ二人の空腹中枢を刺激する。
「すごく美味しそうだね! 香りがやばい!」
「なかなかのご馳走だ! 味わって食べよう!」
子供がお子様セットではしゃぐように二人で盛り上がる。二人で息を合わせ一斉に食べ始める。
「「いただきま~す」」
二人のフォークがどんどんと進む。
「このボロネーゼめちゃくちゃ美味い! 肉のインパクトがすごい、それにトマトの酸味が合わさってくどくない仕上がりになってる」
「このカルボナーラも美味しいよ! 濃厚なクリームソースがパスタと絡みついてカルボナーラって感じがするよ」
「どんな感想だよ……」
「まあ、美味しければ何でもいいの!」
なんとも適当な感想だろう。それが白木葵なのだと思うと納得した。
食事を終え、ウィンドウショッピングをすることにした。
「いつも服、どーしてんだ?」
「空太、それセクハラだよ?」
「じゃ、帰るか……」
「ウソウソウソ。なんでそーやって意地悪ばっか言うの? ひどすぎない?」
「じゃあ普通に質問に答えろよ……」
「だって、空太欲しがりだから、入れといた方がいいかな、と」
何を言っているのかが分からなかったので無言で見つめとく。
「じーーー」
「前にも同じ目をしてたよね。その目、ほんとにくるから」
「感動するのか?」
「ちげーよ‼ 傷つくんだよ‼」
「女の子がはしたないぞ?」
葵のローキックが空太のすねへクリーンヒットする。空太は悶えながらも葵をチラチラ見るが、謝る気配はなかった。これも、白木葵なのだろう。
しょうがなく、葵への詫びも兼ねて服を選んでやることにした。いつも三葉に葵が注文をだし、服を選んでもらっているという。ほんとに仲がいい家族だ。
今日のコーディネートは白を基調としたワンピースに大きな麦わら帽。ワンピースのスカートの丈はロングで清楚な感じが可愛らしい。本人はそんなことはないのに……。
「ここのセレクトショップなんか、今日着てきた服みたいなの置いてあって可愛らしいぞ」
「今日の服、可愛いって思ってくれたんだ……よかった~」
「ん?」
「へ? 何でもないよ——そこで選んでよ、服」
何か小声で言った気がしたがこの買い物客の量ではうまく聞き取れなかった。葵が何でもないというなら何でもないのだろう。
買い物客をかき分け葵の言われるがままに店に入る。そこにはカジュアルなものが多く、若者かつ女性向けな品揃えだった。
「気まずい……」
「ヘーキヘーキ、普通の服屋さんなんだから友達の男の子と来ても変じゃないよ」
「そー言われてもな……」
「がたがた言ってないでわたしをコーディネートしてよ!」
背中をバシバシと叩きながら言う葵に対し空太は緊張しかなかった。店員の目が痛い。何かこそこそ話している。怖い、都会怖い。
「あの二人、付き合ってるのかな」
「初々しい感じだよね~」
何話しているのかわからない空太は変態扱いされてないか不安になっていた……。
不安の気持ちを抑え、葵の服選びに集中する。
「葵の着たい服ってなんだ?」
まずはこの質問からヒントを探ってみる。
「空太が選ぶ服なら何でもいいよ~」
一気に難易度が跳ね上がった。女性に服を選ぶなんて経験、空太にはない。むしろ、自分の服ですらウニシロで揃えてしまうくらいだ。
「そ、そうか。ん~…………」
どうしようか。難しい。この間の最中にも頭をフル回転させ思考する。そこに救世主が登場した。
「この青のワンピなんてどうでしょう」
店員によるナイスパス。
「空太に選んでもらってるのでだいじょーぶです」
葵によってカットされてしまった。店員も渋々……と思ったらニヤつき顔でこちらを見ながら去っていった。変な店員だ。
「でも、薦めてくれたのいい感じだぞ?」
「ん~、ほんと?」
「あ、ああ」
「じゃあ試着してくる」
店員に説明し、試着室に入る葵。外で待つ空太の耳には葵と中で試着を手伝う店員の声が聞こえてくる。
「外のお客様とはどういうご関係で? 付き合ってらっしゃるのですか?」
「え、何聞いてんの?」
外での空太は動揺を隠せなかった。カーテンが大きく揺れた。葵も動揺している様だった。葵がどう返すのか、空太としては気になるところだった。
「付き合ってませんよ! まだ……」
店員の甲高い声が空太の耳に刺さる。だが、それよりも葵が言ったことに頭が混乱してしまっていた。
「まだって……」
ざわつくカーテンの音が空太に妙な緊張感を突き立てる。葵の顔をどう見たらいいのか分からなかった。
「空太、どう?」
その声に反射的に反応し、視線を葵に向ける。そこには群青のドレスに包まれた女の子の姿。葵の目と同じ青。葵の周りに散らばる光の粒子が葵を輝かせていた。照明のライトのはずなのに、それは単なる機械的な光には見えなかった。
「ああ、すごく綺麗だ……」
そんなことを言ってしまうほどに葵に見とれてしまった。言ってしまった事実に気づく頃には葵の顔は赤く染まっていた。
「空太は場所を考えなさすぎだよ……」
店員に温かい目で見られながら会計を済ませる。値段は学生の空太にはとても温かいとは言えなかったが詫びの値段としては相応だろう。しかし、葵の言ったことが気になって仕方がない。
葵と無言の帰り道。沈黙の壁が高く空太と葵は越えられずにいた。声をかけられたのは葵の家の前だった。
「……今日は、ありがとね」
「いや、悪かったな」
「何で謝るのさ」
「今日は詫びの買い物だろ?」
「きっかけはそうだけど……空太は楽しくなかったの?」
「葵の目では見えないのかもしれないけれど、俺の顔は充実した顔してると思う」
「わたしが見えていたら空太にき~も~い~とか言ってたかもしれないよ?」
こいつの一言の多さは治らないものだろうか。
葵が手を振りながら店のなかへ消えていく。二人の気まずさは葵の気楽さで解消された気がした。
買い物から数日経った学校の日。
「もう見慣れちまったな……」
「ね~、もう日常って感じだよね……」
そんな声がクラス内から聞こえてきた。クラスにも馴染んで……クラスメイトと空太をいじめるくらいには馴染めていた。
「あんま、くっつくなって」
「だって空太はわたしのお世話係でしょ?」
違うんだって。俺だって葵のことを手助けしてやりたい。ある問題がそれを邪魔する。
「空太、どしたの?」
そう、それ。あの休日から葵は余計にくっつくようになっていた。下から覗き込むように、しかし体はぴったりと。空太だって男だ。ちらりと見える白い肌、ふわりと香る女の子特有の甘い香り、そして空太の腕に伝わる柔らかい胸の感触。そんな一個一個の魅力が空太を悩ませるのだった。
「なんでもないから離れてくれ……」
「んむ~」
何か不満げな顔をしている。周りの目も突き刺さるようだ。特に男子の。
葵が少し離れ、男子の視線は少しだけ和らいだ。
「空太に嫌われたんだけど……」
「空太は照れてるだけだから」
幸助が訳の分からないことを言う。
「こんな奴ほっといてそろそろ部活に行くぞ」
「部活っ!」
葵が待ってましたと言わんばかりの勢いで言ってきた。
「天体観測部頑張ってんの?」
「頑張って勉強してるよ!」
一番頑張っているのは葵だった。あの景色を見たいという願望がそう動かせるのだろう。
「空太も手伝ってやれよ~?」
「おれも、おれなりに頑張ってる……」
空太はというと、星のことを少しづつ覚えてきているのだが葵には及ばない。
「おれも行ってやりたいけど用事があるからな……」
幸助の雰囲気が少し暗く落ちたような気がした。たまに幸助にはあることだった。空太は踏み込まないようにしている。
すると、クラスの後ろのドアから幸助を呼ぶいつもの声が聞こえてきた。
「光莉ちょっと待ってろ、今行くから」
最近は幸助たちの『用事』は毎日になっていた。どんな理由なのか気になるがプライバシーな問題なのでずっと聞けないでいる。
幸助が申し訳なさそうな顔をしていたので心配するなと言おうとすると、葵に全力で引っ張られた。
「ちょっとーー」
葵の力は強かった。空太を引きずる程に。葵は声を頼りにその方向へ足を進める。
「光莉ちゃ~ん!」
「わわわっ!」
光莉は葵に襲われていた。光莉が助けを求めるが今の空太にはなす術がない。なぜなら、葵にがっちりと腕を掴まれている。しかも痛い。
「イタイイタイイタイ!」
「かわいいよ~」
空太の悲痛な叫びは葵には届かなかった。
葵が落ち着くと光莉の頭の上に顎を乗せご満悦の表情をしていた。
「マジで痛いんだけど……」
「葵ちゃんは光莉には貪欲というか」
幸助に少しだけ暖かい感じが戻ったような気がした。
空太はというと葵の人並外れた力によって腕が悲鳴を上げていた。くっきりと手形付きで。
光莉ももう諦めているような顔をしている。一番の被害者が諦めているので諦めるしかないようだ。
「兄さん、行くよ! 白木さんも離れてください」
葵が悲しみを浮かべる顔をした。別れを惜しむように離れる。
「ごめんな葵ちゃん」
「また今度……」
光莉の一言で葵に日の光が差した。
「何だよその顔は……」
「光莉ちゃんが、また、会ってくれるって……」
「よ、よかったな……」
光莉に関することに変態的に向かう姿勢に若干引きつつ、部室に向かう。部室には凪の姿がありソファーでだらける姿があった。
「先輩たち、遅すぎて帰ろうと思いましたよ~」
「ごめんね? ちょっと話してたら遅くなっちゃった」
てへっ、と言いながらかわいらしく言う姿に凪も許すしかなかった。
「葵先輩はしょうがないですね。そこの人は知りません」
「葵とセットなんだからしょうがないだろ……」
「は?」
それが先輩に対する態度なのだろうか。怖い子だ。
「ま、いいや。先輩、宿題はもってきましたか?」
空太には宿題があった。部員の勧誘をしなければならないという生意気な後輩からの宿題だ。この部活はこのままいくと廃部になってしまうらしい。学年主任が難癖をつけてきたと恵が言っていた。空太と凪の問題児が二人いる部活など正常に動作しないということらしい。恵も言い返せなかったという。そこはかばってほしいものだが。条件として、部員をあと二人増やして部の規定要員に満たすことらしい。
「宿題って言ってもちょっとした勧誘ポスターを作っただけだ」
「見せてください」
空太はカバンから紙を取り出し凪へ渡す。
「は? なんすかこのモノクロの文字だけの紙きれは……」
「それはひどいよ、空太……」
目が見えない葵にまでもひかれてしまう出来なのは自分でも理解していた。
「悪い、センスないのは分かってる」
「やる気ないでしょ」
「あるって! フォントの大きさとかは違うでしょ? あとは……色付きのペンがなかったんだ」
「それくらい買いに行け!」
「今月は厳しいんだよ」
そんなものを買ってしまったらバイトの給料日まで雑草を食うしかない。ただでさえ余りものコロッケ生活だ。
葵が気を使ったのか、一声かける。
「わたしたちも一緒にやろ? わたしたちの部活でもあるし」
「そうですね、この人に任せていたらとんでもないものになりそうだし」
こうして三人で勧誘ポスターを作ることになった。女子二人の和気藹々とした声が部室に響き渡っていた。
「俺、いらなくないか?」
「わたしの世話係!」
空太は何をやってもダメだった。なので葵のサポートに回ることになった。あれを取れだの、これを取れだの、いわゆる雑用である。
雑用をやる中で葵の才能に気づくことになる。葵が鉛筆でスラスラと何かを書き始め、それはどんどん形になっていった。
「よく描けるな」
「長年の弱視者の勘と想像力を舐めるなよ?」
葵の知らなかった感性の良さに感動した。絵がとてつもなくうまい。線画だけでなく色合いまでもが芸術家のそれに空太には見えていた。目が見えないのは嘘のように感じる。漆黒の夜空に突如と現れる光の波、それが今にも動き出しそうな躍動感と迫力。迫力の中にも柔らかい光の色を表現していた。葵にはいつも驚かせられてばかりだ。
この才能のおかげでポスター作りは無事完了した。
買い出しに行っていた凪が部室の扉を開く。
「おつかれした〜」
「わー、お菓子係が帰ってきた!」
「たくさん買ってきやした!」
菓子を食べる葵の姿を見ると、先程までの常軌を逸した才能など感じさせない無邪気な笑顔をしていた。
「ポスターも出来たし、今日は解散だな」
「そうですね! 明日から勧誘スタートって事で──」
いつも通りに帰宅。そのはずだった。
「一番光ってる星、ない?」
「んー、あった! あれがアンタレスか」
「そうそう、その周りの星でサソリが——」
「やめてよ、兄さん‼︎」
閑静な住宅街を葵と二人で歩いていると何か争う声が聞こえてくる。
「この声は、光莉ちゃんの声だよ……」
空太たちは声のする方へ急ぐ。声からしてただ事でないのは確かだった。
声がした曲がり角に差し掛かるとスーツ姿の四十代後半ぐらいの男が飛んでくる。飛んできた方向には涙を流す光莉と目を血走らせている幸助の姿があった。幸助の拳は赤く腫れていた。
「……どうしたんだ、幸助」
「な、なんで……いや、お前には関係ねーよ」
葵が光莉の声のするもとへ駆け出して行く。泣きじゃくる光莉に何も言わずに優しく抱擁した。
「何があったんだ⁉ おい、幸助‼」
「俺たち、帰るから……」
幸助は光莉を連れ路地の奥へ消えていった。二人の背中はとても小さく嘆いていた。
葵も不安そうな顔をしている。何があったのか状況が理解できない。
「すまない……心配をかけて……」
先ほどまで伸びていたサラリーマンが起き上がった。頬は赤く腫れあがっている。
「何があったんですか?」
問いに対しての返答は場所を移してから聞くこととなり近場のファミレスの席に座り落ち着いて話を聞くことにした。
「君たちは、幸助君たちの友達かい?」
「そうですけど、あなたは?」
男はジャケットの内ポケットから名刺を出し、受け渡す。そこには、『坂神研究所技術開発局主任 海藤晋作』と書いてあった。
「坂神って……」
「そう、幸助君たちのお父さんの、研究所で働く海藤という者です……」
昔、幸助から聞いたことがある。何かは分からないが大きな研究をしていると。
「俺は、藤堂空太」
「白木葵です」
「で、その研究所の人がなんで幸助に殴られてたんですか……」
葵が驚いた顔をしていた。なんとなく状況は分かっているようだったが、さすがに殴られていることは分からなかったようだ。
「詳しいことは言えないんだけど、幸助君に父親がいないのは知っているかな」
研究の過程で事故に巻き込まれて亡くなってしまったらしい。当時、全国ニュースで取り上げられていた。
「確か、筋肉の活動を助けてくれるかもしれない細菌……その可能性の研究中にある研究員のヒューマンエラーによって亡くなった……」
その時の幸助は小学五年だった。ニュースで坂神と大きく報道され、マスコミにも学校でも質問攻めされていた幸助を空太は知っていた。その時から幸助はどこか無理をした笑顔をするようになっていた。空太が心配しても、平気だからの一点張り。そんな状態だった。
「その細菌自体は攻撃性が強くて人間に入り込むと血管を破っていくんだ。でも、その刺激を緩和出来れば半永久的に筋肉に刺激を与え続けて筋肉の弱体化を防ぐこと、そして体内のタンパク質の異常を正常に治せる細胞を体内で生成できる画期的で可能性に満ちた研究だった。だが、その実験途中で針が指先に刺さる事故が起こってしまって……その時に一緒にいたのがわたしなんだ。」
筋肉刺激によってだんだん全身の筋肉が弱り、やがて死に至る筋ジストロフィーという難病の完治に期待できる。そんな研究だった。
「でも、その時の研究員は解雇したんじゃ……」
「針を落とした研究員は解雇されたよ。研究チームは一組四人で行っていたから。もう一人も、自責の念で退職していった……」
「なんでそんな人が幸助のもとに……」
「あるものを預かっていてね……それを渡しにきたんだけど」
「幸助が受け取らない……」
「そういうこと……多分幸助君はこう思ってるんじゃないかな。父親を見捨てた屑野郎」
幸助にとっては忘れられない過去。それは月日が経っても頭の中にこびりついて離れない。辛すぎる過去にもう一度向き合うのは辛いことだと。
「これは、わたしがしなくてはいけない。これは真悟さんに託されたものだから……」
「……」
「藤堂君といったかな……これを幸助君に渡してくれるかな」
手渡されたのは古びた懐中時計。
「これは?」
「真悟さんのものだ。仕事の時には必ず持ってきていてね。最近になってやっと安全だということになってね。これは藤堂君から渡してもらえないだろうか、君なら幸助君と仲がいいみたいだし」
最近になってということはバイオハザード後の後処理が最近まで行われていたということだ。
「幸助の用事って海藤さんとの約束だったんですね」
「昔からずっと連絡は取るようにしていたんだ。で、伝言を伝える時が来たからこの話を持ち出したら殴られてしまったよ」
俯く海藤。何を伝えるというのだろうか。殴られてでも伝えること。それは大切な。
海藤と別れると葵の表情は嫌悪の顔をしていた。こんな表情を見るのは初めてだったので意外だった。
「何なの、あの人! 結局、空太に頼ってんじゃん! 坂神君も坂神君でなんで自分の親と向き合おうとしないの⁉」
二人になった途端、不満を垂れ流していた。
「俺に頼らないと幸助には伝えられないんだろ、たぶん。おれも幸助がまだ過去にとらわれてる、あの頃からずっと進めていないってことは気づけたと思うのに……」
「でも、二人といない父親なんだよ? それなのに……わたしには何かできないのかな。ん~~、何かあるはずなんだ」
それに関しては同感だ。何が幼馴染だ。なにも幸助のことを分かってないじゃないか。そんな自分のなかでの葛藤が心を埋め尽くしていた。
心残りを残しながら今日という一日を終え、葛藤の答えが出ずに夜が更けていく。
翌日、いつも通り葵と教室に入ると幸助がいるはずの席に幸助の姿はなかった。幸助の気持ちを考えると、空太と葵に会いたくないのは明白だった。
そのまま時間は過ぎ。
「幸助、来なかったな……」
結局、幸助は一般授業には顔を出さなかった。空太を拒絶するように……。
「ん~、やっぱり会いに行こうよ。今日の活動は凪ちゃんに説明すればどうにかなるし……空太も心配なんでしょ?」
「確かに心配だ。だけどあいつ今は放っておいてほしいんじゃないか? 俺たちにできることって何なんだ? 俺のなかではまだ答えが出ないんだ……幸助の問題に勝手に突っ込んでいいのかどうか」
朝になっても空太の中にあるモヤモヤは消えずにいた。モヤモヤとともに幸助の悲しむ顔が浮かんでくる。今までだって幸助は俺と馬鹿をやりながらも悲しみを内に秘めていたと思うと俺にはあいつと会う資格がないのではないか、幸助にとって藤堂空太という存在は父親のことをあざ笑っているように見えていたと思うと心がズキズキと痛む。
「何それ」
しかし、幸助の問題から逃げようとしているのを葵は許さなかった。
「空太は坂神君と親友じゃないの? そんな放っておいてほしいんならあんな今にも泣きそうな声を出すわけないじゃん! わたしにも見えたよ、助けてくれっていう表情が……」
確かに幸助は放っておいてほしいのかもしれない。でも、おれが大変だった時もあいつはしつこく家まで来て居座っていた。そんな奴だった。なら今度はおれの番なのではないか、そんな気がした。葵の言葉はそんな逃げ腰だった空太の心を動かすほどのまっすぐな言葉だった。
「おれさ、家には俺一人で住んでるんだ……小学一年から。おれの本当の親は実のところ、誰か分からない。捨て子なんだ、おれは」
こんなことを話すのは何故だろう。幸助や朋美以外に話せたのは初めてだった。葵の瞳が話させたのか、そんな気がした。ただ一つ、確実に言えることはこいつにだったら話してもいいということだ。
「今、戸籍的に親ってなってるのはいるけど、そいつらは家と金だけ遣して海外行っちまって……その出来事が小学一年の時。その時に、存在を全否定されたみたいでさ、この世に俺の居場所はないのかなとかこのまま消えてなくなりたいとか思ってたわけさ。今はそんなこと微塵も思ってないけどな」
葵の瞳はまっすぐに空太に向いていて、真剣に一言一句聞き漏らさないように聞いていた。突然の話なのに真剣に。
「その時、闇の中からひきづり出してくれたのが幸助と朋美さん。朋美さんは良く食事を作りに来てくれたんだけど、それがまたあの人コロッケ以外はからっきしでくそまずくて……なんかいつも勝手に家の中に入ってきて、勝手に食事を作って、勝手に泊っていくんだ。それがいつから始まったのかはあんまり覚えてないんだけど、いつしかなんでこんなに良くしてくれるのか聞いてみたんだ。あの人は人助け、ましてや子供に優しくするのになんでもへったくれもないってぶん殴ってきた。初めておれを叱ってくれたんだ。教えてくれたんだ。勝手におれの心に入り込んできたんだ」
「勝手になんだね」
「そうなんだよ、あの人は勝手におれの心を救っていったんだ」
「……」
葵は無言で空太の目を見ながら優しく微笑んだ。
「幸助は……えっと……なにしたんだっけ、な……」
なぜか空太の頬には一粒の涙が流れ落ちていた。話さねば、話さなくちゃいけないのに言葉が出ない。幸助の根っこの部分のことを話さねば。
「大丈夫?」
「あ、ああ……悪い」
葵がハンカチを貸してくれた。ハンカチからは優しさの香りがした。嗅いだことのある香りだった。朋美や、幸助のような優しい。それとも遥か昔に。
「幸助とは幼稚園からの知り合いだけど幼稚園ではそこまで仲良くはなかったんだ。周りには誰も寄ってこなかった。おれは誰とも関わろうとしなかったし態度もくそ悪かった。でも小学生の時に周りからはぶられていたおれを遊びに誘ってくれたらしい。その時の俺なんて言ったと思う?」
「ん~……放っといてくれ、とか?」
「そんな生易しいもんじゃない。小学生が『近寄ってくんな、お前らの世界におれを連れ込むな、鬱陶しい』そんな厨二臭いことを言ったんだぜ。でも当時の小学生は反感を買う対象だわな。でも幸助だけはそれからずっと付きまとってきた。家に帰ろうとしても付いてきたし、学校でも机で寝てるとたたき起こされるし。勝手に家の風呂に入ってたこともあったな……あいつ嫌がらせしかしてない気がする」
葵が笑いながら聞いてくれていた。幸助もこんな無邪気な笑顔をしていたなと思い浮かべる。
「でも、人との関わり方が分からなかった当時のおれに対して根気よくまっすぐ付き合ってくれたのはあいつだけだ。おれが周りにボコられてた時も幸助は一緒におれのそばに居てくれた。幸助は仲良くなりたかっただけって言うけどおれにとってはおれなんかに付き合ってくれることは救いだったんだと思う。その時のおれはいじけていたんだと思う。いじけてたおれを幸助は一緒にいることで引きずり出した」
そう、いじけていた。おれは周りの人間とは違う、そんな相違に対するいじけだった。
「いじけていた……わたしはそうは思わないよ。空太は寂しかったんだ。そう思う」
確かに寂しいという感情だったのかもしれない。当時の空太は感情というものが欠落していたといってもいいと思う。なにに対しても冷めていた。でも、朋美と幸助によって冷たかった心がこんなにも暖かくなった。
「寂しい……か。確かにそうかもな。今考えてみると寂しさを二人が埋めてくれたのかもしれない。いつも一緒にいてくれる人が欲しかったのかもしれない。朋美さんと幸助はおれの心を救ってくれたんだと思う。今でも二人には感謝してもしたりない」
あの時では考えられない。涙を流せるようになっているとは空太には考えられないことだった。子供の時に泣きすぎて枯れてしまったものだと思っていた。幸助たちには感謝しかない。
「空太からそんな話聞かされるとは思わなかったよ。あ、違うからね、悪い意味じゃないから。空太の嫌な思い出、話したくないだろうに、わたしが坂神君のことをひどく言うから。わたしってサイテーだよね……ごめん……」
何故か葵が謝ってきた。
「なんでお前が謝るんだよ。謝るのはこっちのほうだ。悪いな、ダラダラと。逆におれは葵にお礼が言いたい。真剣に聞いてくれてありがとう」
確かに話したくない過去だ。今ではどうでもいいことだと線引きをしても過去を振り返るのは辛いものだ。聞く方も嫌な話だったと思う。情けない話だったと思う。そんな話を真剣に聞いてくれた。真剣な姿勢でいてくれたことに『ありがとう』という言葉を伝えたかった。
「それに自分を卑下するのは今までの自分の努力を否定することと同じだ。だから自分のことをサイテーなんて思ってはダメだ。そんなこと誰も思ってないし、葵はすごい奴だっておれは知ってる」
「うん、そうだね。何、弱気になってるんだか……わたしらしくないね」
葵には笑顔が一番似合う。弱気な葵は見たくはないと空太は笑う。
「おれを助けてくれた時にあれだけしつこく絡んできたんだ。おれもしつこく恩返しをしてやる! 葵に言われなきゃこのまま逃げてたのかもしれない、ありがとう」
「そんなお礼ばっかり言わないでよ。何にもしてないし、自分勝手な意見をぶつけただけだから」
「たとえ自分勝手な意見だったとしてもおれにとっては大事な親友を見捨てずにできた大切な言葉だ、だからこその『ありがとう』なんだよ」
伝えたいことを自分勝手に伝えた。葵がどう思おうと葵に聞いてほしいことを伝えた。そのことが今の空太に大切なことだと思った。
葵は黙ったまま頷く。
「まず凪に連絡してから行こう」
「うん!」
葵の今日一番の笑顔だった。
葵に帰る準備をしてもらっている間に急いで凪に事情を説明する。事情を説明すると快く了承してもらった。
葵と二人で幸助の家へ向かう。
「今度、凪にお礼を言わなくちゃな、あいつ何も聞かずに了承してくれたんだ」
「凪ちゃんも空太の大切なことだって分かったんだよ。お礼、言わなくちゃね?」
「俺は周りに助けられてばかりだな……」
「それは空太が優しいから、神様も見てくれていて手を貸してくれているんだと思うよ」
神か……空太は昔から神様という存在を信じていなかったが、葵が言うと存在するような気がする。まるで見てきたかのようにいう彼女の笑顔は眩しい。
学校から数分で幸助の家に着いた。来るのは何年ぶりだろう。いつ来たのかは覚えていなかった。いつも幸助が空太の家へ来ていたから。
表札を確かめてみると、『坂神』と書いてあってその下に真悟、幸助、光莉の名前が連なっていた。実の母親と不仲になり離婚してから親父さんが男手一つで幸助と光莉を育て上げた。そのことは仲良くなってから聞いた。そんな親父さんを亡くしたんだ。辛いと思うし、自分にその話を、過去を振り返してほしくないと思う。でも、幸助は聞かなくてはいけない。実の親からの遺言から、過去から、思い出から逃げちゃダメなんだと思った。
インターホンを鳴らすと光莉が出てくる。
「幸助は、どうしてる」
「二階にいるけど、今は誰とも会いたくないって、引きこもっちゃって。こんな兄さん見たことなくて……わたし、どうしたらいいのか分からなくて……」
光莉は玄関先で泣き出してしまった。葵が駆け寄って背中をさすっている。
「葵、光莉は任せてもいいか? おれは引きこもりをどうにかしてくるから」
幸助の部屋は階段を上がって正面の部屋だ。何度か遊びに行ったことがあるので少し記憶があった。
「幸助」
ノックをしても返答がない。
「入るぞ……」
部屋に入ると、散らかったごみの上に胡坐をかく幸助の姿があった。部屋の隅には光莉が用意したのか盆に乗った料理が手付かずのまま残っていた。
「返事がないから死んだのかと思ったぞ」
「……」
「光莉が心配してたぞ? お前兄貴なんだからしっかりしろよ」
「……」
返答がなかった。体もピクリとも反応しなかった。当時の自分もこんな感じだったのだろうか……。
「光莉は葵が見てるから安心してくれ。学校もお前がこないから——」
「帰れよっ! お前には関係ないって言っただろうが! もう放っておいてくれよ」
今まで幸助が溜め込んできたものが一気に爆発したように感じた。こんなことを言われては空太も黙ってはいられなかった。いつも自分は勝手なこじつけを連ねるだけ。空太は想いをぶつける。
「関係なくないぞ……お前はっ、おれの親友だろうが! お前がおれを救ったんだ。救ってくれたんだよっ! なのにお前がきついときに放っておけだって? ふざけんなっ! 放っておけるわけねーだろが!」
気づいたら胸ぐらをつかんでいた。苦しそうに、泣きそうな幸助の子供の顔を見ると心に辛くのしかかる。それでも言葉は止まらない。
「おれには言えなくても家族には……光莉には心を開けたんじゃないのかよ」
たった一人の家族に相談もしない幸助に腹が立っていた。それまで黙っていた幸助が空太を突き飛ばす。
「お前に何が分かるんだよっ!」
今までで一番の声の荒げ方だった。今まで幸助が空太に対してこんなに怒りを向けたことがなかったので少したじろいでしまう。
「おれがどんなに光莉のためにしてきたかお前には分からないだろっ! 親父が死んでからこの家には光莉を守ってやれる奴がおれしかいなかったから。ずっと作り笑顔をして、自分自身をだまして光莉を心配させないように、周りが遊んでる中、光莉とできるだけ一緒にいれるように、立ち直ってくれるように時間を作ってきたんだ。全ては光莉の兄貴でいるために……今まで育ててくれた親父のために……。おれがもっとしっかりしてれば……光莉があんなに苦しむこともなかったんだよ」
心からの嘆きだった。幸助は光莉のために今まで自分を殺して生きてきた。幸助にとって光莉は全てなんだ。確かにニュースで報道されてすぐは光莉が顔を出さなくなってしまっていた。少ししてから学校には来たのだが性格が変わってしまっていたのだ。笑顔以外の表情が作れないのではないかと思うほどずっと笑っていた光莉があんまり笑わなくなっていた。それでもだんだんと笑えるように、昔に近づいて来ていた。それは幸助がずっと寄り添って来ていたからだ。
だが、
「なら、なんで今、光莉は泣いてるんだよっ 光莉の言葉を聞いてやらないんだよっ」
今、光莉が泣いている。その事実が幸助の心を縛り付ける。
「……」
「なんで兄貴なのに妹が泣いてるそばにいないんだよ……」
幸助の視線は空太の背後へ運ばれた。扉のそばには葵とともに立つ光莉の姿。光莉の表情は悲しげで。
「兄さんを怒鳴らないで……空太君、兄さんは悪くないの。わたしが、体弱いからいけないの」
体が弱い? ある程度、付き合いがある空太でも初耳だった。
「わたしが兄さんを縛り付けてるの。わたしのせいで……」
光莉が言った言葉に幸助が否定しようとするが光莉が遮る。
「わたしが倒れたりしなければ兄さんは夢を叶えられた。わたしが弱くなければ兄さんは幸せになれた。わたしがいなければ……お父さんは死ななかったっ!」
「光莉ちゃん……」
「兄さんだけじゃないんだよ。わたしだって辛かった」
「だからおれは、光莉のためにっ——」
「だから、それが辛いんだよっ! いつも光莉のため、光莉のためって兄さんは自分のことは考えないの?」
光莉は今まで溜め込んでいたものを吐き出すように幸助にぶつける。
「わたしは……わたしは兄さんの妹なんだよ? 兄妹なんじゃないの? わたしも一緒に悩ませてよ……一緒に歩かせてよっ!」
光莉は泣きじゃくりながらぶつけた。ただ兄である幸助に向かってぶつけた。今までの感情を、我慢を、存在を。幸助はただ一人の妹のために、光莉は自分の不甲斐なさに涙していた。泣きながら二人は肩を寄せ合いまた、涙した。
幸助は昔のことを思い出していた。涙の一粒一粒が記憶の形として具現されて光景が浮かんでくる。
「幸助は、光莉のお兄ちゃんなんだからしっかり守ってやれよ?」
父親としての日常の言葉。
「うん!」
「光莉は、お兄ちゃんが行くところ、どこに行ってもそばにいてあげるんだ。いいね?」
二人をとても愛していて。
「うん、わかった」
「これから、二人には大変な困難が降りかかってくるかもしれない。だけど神様が幸助には光莉を、光莉には幸助を与えてくださった。二人で助け合うために与えてくださったんだ。いつまでも父さんは二人を守ってやれない。だから二人は寄り添って生きていきなさい」
それは三人の約束。そして、真悟との、たった一人の父親との約束という名の繋がり。
幸助の前には光莉がいて、守らないといけなくて。
「そうだな、おれたちは、兄妹だもんな……助け合わないとな、寄り添わないとな。だって、神様が与えてくれたんだから……」
兄にずっとついていく。それが約束なのだから。
「……兄さんにはわたしが寄り添うよ。だから一人で先にいかないで」
父親との約束を守れていたようで守れてはいなかった。幸助がいて、光莉がいて、そして慎吾がいたから約束を交わした。家族だから。受け入れなければいけないと。
二人が落ち着いた後、空太たちに事情を説明してくれた。
「お父さんは、わたしの病気を治すために研究してたんだ……わたしの病気は心臓が弱っていく病気で運動、歩行だけでも動機が激しくなっちゃうの。当時の医療では治せなくて……でも、お父さんの研究していた細菌が効果があることが分かった。そのおかげでわたしは病気が完治とまではいかないけど、軽い運動くらいなら一生していける体になった。お父さんの命と引き換えに」
光莉はうつむきながら語る。当時のことを懺悔するように言う姿は悲しく見えた。
「最後の臨床実験中だったんだ。親父が光莉に報告するはずだった。その日にやってきたのは空太たちが会った海藤さんだ。何度も謝られた。子供だった俺らはたった一人の親が死んだ事実を納得できなかったんだ。昔から俺たちの家に来ていた海藤さんからずっと逃げて。逃げて。でも諦めずに海藤さんは親父の命日の日には俺たちの様子をみにきてくれてた。それなのにおれたちは子供だから、昔も今も」
悔やみきれないのか、下唇をかみしめて言った幸助。
「兄さんもその出来事があって自分を捨ててわたしのために時間を作るようになってわたしは兄さんの足を引っ張って、父さんも」
その声は親を亡くすということに未だに立ち直れない二人の嘆きのようだった。そんな二人を見ていると儚い気持ちになる。
二人の話を聞き葵が立ち上がる。
「じゃあ……逃げてきちゃったんならお父さんと向き合おうよ、今度は逃げずにさ」
そう言うと、葵は扉を開けた。そこには海藤の姿があった。
「ごめんね、勝手だけど呼んじゃった」
名刺をヒラヒラとさせながら優しい顔で葵は言った。
「幸助君、光莉さん、これはお父さんからだ。受け取ってくれるかな。お父さんとわたしの約束だったんだ。この手紙を高校生になったら渡すことが。会いたくないのに何度もすまなかったね。本当に合わせる顔がないことは分かってるんだが、これだけは渡してあげたくて……」
幸助と光莉は一呼吸おいてから手紙を受け取った。まるで過去を受け入れるように。
中身を開けるとそこには、
『幸助、光莉へ
親が子を置いてくなんて良くないと、やってはいけないことだと分かってる。それについては本当に悪いと思ってる。ごめんな、けれど僕は誰かのせいで死んだわけではないよ。この事態は神様の決めたことだから。彼も故意でやったことではないのは分かっている。あの時の顔は死んでも忘れられないと思うよ。彼らを責めてはいけない。人を助けるということは何かを犠牲にして成し得ることなのだから。光莉を助けるために死という運命が立ちはだかるというなら喜んで受け入れよう。それが親というものなのだから。親としての贈り物がこんな形で途切れるのは僕も本意ではない。だから言葉を送らせてくれないか。
強く、そして、優しく。人のために自らのために。父さんより』
しわが目立つ手紙。その時の状況を鮮明に物語っていた。文字は進むにつれ震え苦しみながら書いた痕跡がこの場にいる全員に当時の悲惨さを物語っていた。しかし、文面からは父親としてどれだけ二人を大事に育ててきたのか、どれだけ愛していたのか、二人の親だと言う主張が強く刻まれていた。読み終わると幸助と光莉は子供のように泣いた。子供のように泣く二人を空太と葵は見守ることしかできなかった。しかし、この涙は悲しみの涙ではない。そんな気がしていた。
「渡しそびれてたんだけど……これ」
手渡したのは預かった懐中時計。幸助はそれを開く。中には三人の笑顔で写る家族写真が挟まっていた。幸助と光莉はしみじみと、大切そうにその懐中時計を抱きかかえた。
「悪かったな、空太……」
幸助が赤く腫れあがった目で言ってきた。大人の瞳、まっすぐな瞳をしていた。
「おれも怒鳴って悪かった」
「空太が言ってくれなかったら、おれは、親父から逃げて、過去から逃げ続けてたかもしれない。光莉も置いて行ってたかもしれない……」
幸助には湿っぽいのは似合わないと思った。元気な幸助が空太は見たかった。空太を変えてくれた時みたいに幸助も……。
「幸助はシスコンっていう事実が分かったから今日は良しとしよう!」
「坂神君も光莉ちゃん大好きだったんだね~」
「ち、ちが——」
「違うの?」
光莉が幸助を追い詰める。光莉にも笑顔が広がる。どんどん広がり感染していった。
「ああ、認めるよっ! おれは光莉を妹を、愛してるよっ!」
笑顔の輪が広がる。向日葵のように明るく笑顔の花が咲いていた。
次の日、空太と葵が教室に入ると幸助がやってきた。幸助は空太の背中を叩いてきた。
「今日もお熱いね~」
いつものように皮肉めいた言葉を言っていた。しかしそこには前までの無理しているような感じではなく小さい子供のような無邪気さがあった。
幸助は子供っぽい無邪気な笑顔で、
「おはよう、空太っ!」
肩を組みながら最高の親友が言った。