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少しばかり古い記憶の話

 久成と佐和子の父は、いわゆる没落士族だった。

 安政生まれの士族として、時代の変わり目という変わり目を生き、その過程で他の士族と同様に多くのものを奪われた。版籍奉還、廃刀令、秩禄処分。激動の時代を潜り抜けた父親が唯一守り通せたものは、時代遅れも甚だしい誇り高さのみだった。下賎な仕事は出来んと困窮に甘んじるような男だった。

 栄永家の暮らし向きは年を追うごとに悪くなっていった。城下町の屋敷からは目に見えて調度や使用人たちが減ってゆき、心労のせいか母親は、佐和子を産んですぐに亡くなった。

 妻の死後、父親は母に良く似た佐和子をことさら可愛がるようになった。一方で久成は長男ということもあってか、妹に比べると厳しく躾けられることが多かった。兄妹の関係のあり方について父親は、くどくどとしつこく説き、久成には家督を継ぐ者として妹を守れと、佐和子には兄を敬えと言い聞かせた。久成は反抗心からその教えをなかなか聞き入れられずにいたが、佐和子の方が父親の教えに従い、素直に慕ってくるものだから、密かに妹をいとおしむようにはなっていた。

 表向きは会話の少ない兄妹でも、お互いを思う気持ちだけはその頃からあった。

 二人の父親が鬼籍に入ったのは、ちょうど佐和子の縁談が持ち上がった頃だ。落ちぶれた家の娘では行くあてもなかなか見つからなかったのだが、隣町に嫁を欲する商家があって、穏和で従順な佐和子を気に入ったらしい。縁談は思いのほかすんなりとまとまり、安心したのか父親は、佐和子の花嫁姿を目にすることなくこの世を去った。悲しみに暮れる間もなく、十七の佐和子は嫁に行き――後に残されたのは久成のみとなった。

 貧乏ながらも師範学校まで上げてもらった久成は、教員として糊口を凌いでいた。やはり楽な暮らしではなかったが、父親の遺してくれた家があり、父親の代から尽くしてくれている年老いた下女もいた。時代遅れの誇りと覚悟にしがみついていた父親と比べて、久成はこの時代にどうにか溶け込みつつあった。

 唯一の気がかりは、あまり連絡を寄越さない嫁入り先の佐和子についてだったが――悪感情こそないものの、会話に乏しかった兄妹だ。離れてしまうと手紙一つ出すのも億劫なのだろう。そう思った久成の方も、二年ほどで妹への便りを止めてしまった。


 その佐和子がある晩、兄の元を訪ねてきた。

 家の戸を叩く音に、まず下女が気づいた。そして来訪者が嫁に行ったはずの佐和子であることを確かめると、寝入っていた久成を起こしにやってきた。老いた下女はその時顔を強張らせていて、ただごとではないと察した久成も慌てて妹を出迎えた。

 妹は、酷くやつれた姿をしていた。

 嫁に出てから既に四年が過ぎていたが、兄がすぐには気づけぬほど変わり果てていた。頬はこけ、骨の浮くほど痩せさらばえ、髪にも艶がまるでない。着物はぼろぼろで薄汚れており、足は裸足、しかも土に塗れていた。

 佐和子は兄の顔を見るや否やわっと泣き伏せた。

 そして言葉を失くした兄に対して、震える声で短く語った。

「あの家を、出てきてしまいました」

 息を呑んだ久成は、それから妹に尋ねた。

 あの家で何があったか。どんな目に遭ったのかを矢継ぎ早に問うた。

 しかし佐和子の口は重く、しばらくはわあわあと泣くばかりでまるで手の付けようがなかった。

 焦れた久成が思わず語気を強めると、見かねたらしい下女が二人を取り成し、それで佐和子はぽつぽつと語った。子どもが出来ず、嫁入り先で咎められていること。嫁としての務めを果たせない分は働いて埋め合わせるよう言われたこと。納屋に寝かされ、酷い扱いを受けていること――語りながらまた涙を流す妹を見て、久成は歯噛みした。


 足元を見られていたのだろうと思った。

 落ちぶれた家の娘で、帰ろうにも既に両親はなく、親族はせいぜいが貧乏暮らしの兄一人。そんな女をどう扱おうと文句を言われるはずがないと踏んでいたのかもしれない。

 そうして、父が心から慈しんでいた可愛い佐和子の面影と心は奪われた。父は死して尚、多くのものを失い続けている。残されたのはただ、時代遅れの誇りと覚悟だけだ。


 気がつくと、久成は火縄銃を手にしていた。

 刀を持たぬようになった父親が好んでいたのがこの銃で、死の間際に久成へと譲渡された。これで栄永の家を守れと父は言い残した。よもやそんな機会がやってくるなどとは思いもしなかったが、銃を手にした久成は確かに思った。

 今こそ兄として、妹を守るべきなのだと。

 妹の誇りを傷つけ、苦しめる者がいるなら、自分の手を汚してでも守らなければならない、と。

 しかし当然ながら、佐和子はそんな兄を制止した。髪を振り乱してしがみつき、そんなことはしないでくれと涙ながらに懇願してきた。

 退け、と怒鳴りつけても退かなかった。久成は割って入ろうとする下女ごと、遂には力任せに押し退ける。倒れ込んだ妹はそれでも食い下がるように、兄の正面まで這い出て、汚れた面をきっと上げ、喉の奥から振り絞るような声を上げた。

「私が兄上を不幸せにするのなら、むしろ私をここで、撃ってくださいませ」

 そう言われて久成が撃てるはずもない。

 撃てなかった。足元から怯えた、しかし強い眼差しで射抜かれて、立ち尽くすより他なかった。


 後で聞いた話によると、佐和子が家を出たのはこの時が初めてではなかったらしい。それ以前にも何度か出奔を計っており、だが薄汚れたいでたちではすぐに見つかってしまい、その度に連れ戻されたのだと言う。

 久成は妹に代わり、嫁入り先へ離縁を申し出た。向こうの家からはあれこれと嫌味を言われ、あらぬ噂も立てられたが、全て耐えた。佐和子を守る為と思えばどうということもなかった。

 無事に離縁が成立しても、佐和子は元に戻らなかった。日中は抜け殻のようになって過ごし、夜になると風の音にさえ怯えた。また連れ戻されるのではないかと始終がたがた震えていた。

 実際にあの家の人間がやってくることはなかったが、佐和子の怯えようを久成も打ち消せなかった。あの頃、手紙が来なくなったことを軽んじたから、妹を守ってやれなかったのだ。省みるとどんな可能性も否定は出来ない。あの家の隣町で暮らしている以上、恐ろしい幻から逃れられないのだろう。

 やがて久成は別の地に移り住もうと考えた。ちょうど山村の小学校に働き口があると聞き、渡りに船と都落ちを決意した。

 父の遺した屋敷は売り払い、その金は長年尽くしてくれた下女にくれてやった。下女はついていくと言ってくれたが、今後いつまで給金が出せるかわからぬからと丁重に断った。かくして久成は妹を連れ、山の裾野にある小さな農村へと移り住んだ。

 移り住んで半年ほどは、佐和子も抜け殻のままでいた。久成はそんな妹を養い、甲斐甲斐しく世話をした。村人たちには病み上がりなのだと説明し、当初は余所者らしく奇異の目で見られたものの、次第に打ち解け、気に掛けてもらえるまでになった。彼らの信用を得るのに訓導の職が助けとなったようだ。そして佐和子も田舎の水が合ったらしく、だんだんと落ち着きを取り戻していった。

 だが元気になった佐和子は、久成の顔色をうかがうようになっていた。兄が長年暮らした家も故郷も捨ててしまったのは、こうして田舎で慎ましく暮らしているのは、全て自分のせいだと思い込むようになった。

 そうして時々、呟くように口走った。

「せめて兄上だけでも幸せになっていただけたらどんなにいいか。出戻りの妹が負担を掛けてばかりで、申し訳ないのです」

 そんな時、久成は決まって短く答えた。

「妹を守るのは、兄の務めだ」

 答えながらも思う。

 自分は本当に妹を守れたのだろうか。

 これから、守れるのだろうか。

 妹の苦しみを長らく気づいてやれなかった自分に。あの時、銃を撃てなかった自分に。この先もしもの時に、自らの手を汚してでも妹を守ろうとすることが、果たして出来るだろうか。

 佐和子はもう、嫁入り前の佐和子ではなくなった。多くのものを奪われて、今は兄の心すら疑うようになっていた。父にあからさまに区別をされても、結局は可愛くて、いとおしくて仕方がなかった妹が、別人のように変わり果てた今――自分は妹を守り切れているのか、久成は始終煩悶している。

「兄上のところに、どなたかお嫁に来てくださるといいのに」

 妹は言う。

 結婚をして辛い目に遭ったくせに、久成には身を固めるように促してくる。兄が自分に掛かりきりでいるのを申し訳なく思うからだろう。

 久成が身を固めて、他の人間にも目を向けている方が、佐和子にとっても幸いに違いない。久成自身、そうすべきだとわかっているのだが、嫁の来手はそうそうあるものでもなかった。

「俺はお前が元気でいてくれたら、十分に幸せだ」

 兄は答える。

 嘘ではなく、だからこそ今が幸せとは言いがたい。兄の献身さえもが佐和子を苦しめ、嘆かせる結果となっている。

 血の繋がった兄妹の二人暮らし。なのに時々、気まずくなる。錆びたように軋む日々の中、久成は漠然と思っていた。

 このままではいつか、立ち行かなくなるかもしれない――。


 少しばかり古い、暗い記憶に、僅かな光明が射したのはつい最近のことだ。


 山で出会った狐に、久成はあの日の妹の姿を重ねてしまった。

 火縄銃を手にした自分を必死で止めようとした佐和子。怯えているくせに強い眼差しを向けられて、久成は撃てなかった。何も出来なかった。

 結局、自分には守れないのだと思った。目の前の小さな狐でさえ殺せない男に、一体誰を、何を守れると言うのだろう。そう言い聞かせて心を奮い立たせようとしても、どうしても、どうしても撃てなかった。だからせめて、妹と同じように、この狐も逃げ延びることが出来たらいいと思った。

 しばらくの間呆然としていた久成の元に、先程の狐が再び現れた。背の高い草の間から顔を覗かせた狐は、こちらを見て小首を傾げるようにした。久成が情けない笑みを浮かべると、耳を微かに動かした。

「何をしている、とっとと逃げろ」

 久成が小声で告げても、狐は動かない。

 黒い瞳でじっと見つめてくる。狐とは言え、なかなか愛嬌のある顔つきをしている。

「逃げないのか」

 尋ねると、また小首を傾げてみせた。人の言葉がわかるようなそぶりだ。

 まさかと思いつつ、久成は続けた。

「それとも、何か言いたいことでもあるのか」

 当然、狐は答えない。ただ草の隙間からこちらを見ている。

 久成が黙ると狐も身動ぎせず、ずっとそこにいた。

 何かを待つように黙っていた。

 ややあって、久成は傍の立ち木に銃を立てかけた。そしてそこから少し離れると、草むらの前の地面にどっかと胡坐を掻いた。狐に手招きをしてみる。狐は、素直に草むらから這い出てきて、久成の傍まで寄ってきた。

 人懐っこい狐もいたもので、久成が銃を置いたと見るや身をすり寄せてきた。恐る恐る毛並みに触れてみると、どうも心地良さそうな顔をする。おまけに頭を膝の上に預けてくる。

 図々しいやら調子がいいやら、狐の物怖じしない態度に久成は苦笑した。それでも悪い気はせず、教え子らにするように狐の頭を撫でてやった。

「もう少し怖がってもいいだろうに。世が世なら、俺は武士だったのだぞ」

 そう言い聞かせてみるものの、身体の小さな狐は久成から離れない。まるで先程の恩義を愛嬌で返そうとしているようだ。そこまで考えた時、ふと、久成は狐に言った。

「――お前、狐女房の話を知っているか」

 狐がはっと面を上げた。

 黒い瞳が一途にこちらを見ていた。

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