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嫁入りの朝の話

 表座敷にて、久成は見知らぬ顔の女と向き合っていた。

 女は年の頃十七、八というところ。取り立てて美人ではなく、しかし不美人でもない顔つきをしていた。ぱっと目を引くのはややつり上がった双眸、緊張に強張る表情、そして頭を覆う角隠しだ。

 黒ちりめんの留袖を着たその女は、二人きりでいる表座敷にきょろきょろと視線を彷徨わせていた。田舎の貧乏屋敷が珍しいのか、それとも住居そのものが珍しいのか、辺りを見回しながら時々、匂いを嗅いでいる。あまりにきょろきょろしているせいか、角隠しが時折ずり落ち、慣れぬ手つきで直している。重たそうにもしていた。

 久成は嘆息する。

 明け方に叩き起こされたかと思えば奇妙なことになっていた。花嫁装束のこの女が、妹と二人で暮らす家を訪ねてきたのだ。聞けば嫁入りに参ったのだと言う。

 急な話に困惑したが、それ以上に驚いていたのは妹の佐和子だった。一言も発さずにただただ目を瞠っていたので、湯を沸かすようにだけ告げ、久成は女を表座敷へと通した。

 そして向き合ったまま、ややしばらく黙っていた。

 どうしたものかと思う。


「――本当に来るとは思わなかった」

 やがて、意を決して口を開けば、花嫁装束の女は瞬きをした。

 あどけない表情。こちらも苦笑する他ない。

「どうしてこの家がわかった?」

「お方様の匂いを辿って参りました」

 答えを聞けば、やはり普通の女ではないことがわかる。

「そこまでして来てくれるとは、お前もなかなか律儀だな」

「恩返しとしてお嫁に参りますのは、私たち一族の習わしでございます」

 さも当然と言った口ぶりの女が、そこで小首を傾げた。

 こちらの顔色をうかがうように続ける。

「お方様が是非にと言ってくださいましたから、私も大急ぎで身支度を整えて、こうして参りました次第です」

 是非にとまで言った覚えはなかったが、久成の方から誘いを掛けたのは事実だ。

 もっとも、半ば戯れ事のような誘いだった。本当に嫁に来るとはよもや思いもしなかった。その上、女の言う通り随分と急いだ嫁入りとなった。昨日の今日にこのいでたちで現れたのだから、さまざまな意味で驚かされる。

 しかし一方で、久成はどこか泰然としていた。

 嫁に来いと言ったのは他でもない自分自身だ。それが現実になっただけのこと。驚く必要もなく、むしろ願った通りと喜ぶべきなのだろう。

「身支度か」

 唸る久成は、しげしげと女を眺めやる。

 角隠しも留袖もこうして見る限りは本物のように見えた。眼前の女自体がそうだ。顔も肌も身体つきも本物のようで、紛い物とは思えなかった。

 この時初めて、女を女として捉えた――つり目がちな顔立ちは好みではなかったし、身体つきもしなやかながらほっそりしていて色気に乏しい。そもそも二十七の久成にとって、この女は歳が若過ぎる。若い娘らしく頼りなげな容貌をしていて、特に腰の細さと来たら抱き寄せただけで折れてしまいそうだ。もちろん贅沢を言うつもりもなく、それらの率直な感想は胸の内にしまい込む。

「それにしても、上手く化けるものだな」

 本音はさておき、久成は女を誉めた。

 当の女は恥じ入るように頬を染める。夫となる男の目に照れているのかと思ったが、そうではないことがすぐに知れた。

 曰く、

「恥ずかしゅうございます。私の化け方と来たらちっとも上手くはないのです」

「そうか。特に問題なく見えるが」

「お言葉ですが、私は人の顔がよくわからないのです。男の方と女の方と、それから年の頃がようやく判別つく程度で、どのお顔がよくてどのお顔が悪いのか、違いがわからないのでございます」

 女は酷く恥じたそぶりで、上目遣いに見やる。言いにくそうにもう一つ添えてきた。

「ですから、しばらくは毎日同じようには化けられぬでしょう」

「毎日顔が変わると言うのか」

「申し訳ございません。なるべく早く慣れるようにはいたします」

 驚きよりもむしろ呆れた。奇妙にも程がある。

 久成の表情から内心を察してか、たちまち女の顔が曇る。今はつり目がちの、特に美人でも不美人でもない顔。

「そういう女では、お嫁にはしていただけませんか」

 女が問う。

 一瞬、答えに詰まった。人ではない嫁との暮らしはどんなものだろう、皆目見当もつかない。だからと言って、こうして訪ねてきてくれた女を追い返す気もさらさらない。そこまで薄情でもないつもりだった。

 溜息交じりに言い返す。

「そんなことはない。しかし、その様子では人里の暮らしにも慣れていないのだろう」

「はい、恥ずかしながら……」

「慣れてもらわなければ困る。俺も教員として生計を立てている身、嫁を貰っておきながら村の連中に隠し続けることは出来ようもない」

 久成は強く念を押す。

「お前を嫁にする以上、俺はお前をまず人にしてやる必要がある。人としてこの家と、やがてはこの村に溶け込めるように努めてほしい」

 せつせつと説けば、女は迷わず、間髪入れずに顎を引いた。

「必ずそのようにいたします」

 いい返事だった。

「私は人に、お方様の妻として相応しい女になりましょう」

 何とも健気な態度だ。久成は安堵しつつ、向き合う女の表情の硬さに、どうやら手厳しいことを言ったかと今更のような罪悪感を持つ。

 諸々の奇妙さはさておき、気立てのよい女のようだった。こちらの言うことを素直に聞き入れ、受け止めるそぶりは好ましい。

 そもそも戯れ事のような誘いを聞いて、こうして嫁に来るような女だ。世間知らずでもあるのだろうが、だからこそまずは婿として、慈しみをもって扱ってやらねば。そう思った。

 久成は生まれついての唐変木で、女の扱いには元来不慣れな男だった。それでも唐変木なりに、誉め言葉の一つも掛けてみる。

「その……装束はなかなかいいものだな。お前が揃えたのか」

 誉められたはずの女はきょとんとし、黒ちりめんの留袖に目をやった。

 途端に角隠しがずれかけて、慌てて手で直している。所作の一つ一つが初々しい。正体はさておき、眺めている分には可愛い女だった。

「揃えたと申しましょうか、これも見よう見まねで化けてみたものでございます」

「見よう見まねだと?」

「はい。前に、この村であった祝言を覗いたことがあったのです。その時のお嫁様のいでたちを覚えておりまして、なるべくそっくりに化けてみたのでございます」

 屈託ない女の言葉を、久成はあまり深く考えぬようにと努めた。奇妙さを突き詰めると訳がわからなくなる。無知ではあるが愚鈍ではない女のようだ、それだけの認識でひとまずは十分だろう。女の奇妙さを呑み込めるようでなければ夫としても務まるまい。

「私は、お方様もご存知の通り、面妖な生き物でございます」

 女はあどけなく語を継ぐ。面妖という言葉の意味を知っているかどうか、そこからして怪しい。

「けれど、お傍に置いてくださいましたら、お方様には繁栄を、この地には豊穣を、それぞれ齎しましょう。私をどうぞ、お方様の妻にしてくださいませ」

 習いたての物言いで、すらすらと諳んじるように続けた。その後は何かを待ち侘びるように唇を結んだ。表情はやはり強張っており、先の言葉が暗誦されたものであっても、女に嫁入りを望む意思はあるらしいと読み取れた。

 久成は、奇妙な嫁が齎すという事柄にはさほど関心もなかった。気がかりは二つ。一つは、女が人里に慣れていないという事実。そしてもう一つは――。

「先だってお前に話したように、俺には嫁の来手など他にもない」

 率直に述べた後、問い返した。

「だがお前はいいのか。見ての通り、俺は田舎の貧乏人。おまけに小姑も一人いる。この家へ嫁いだところで楽な暮らしが出来る訳ではないぞ」

「私は、お方様のところへ参りたくて、こうして参ったのでございます」

 いくらかは面映そうに女は答え、それから確かめるように続ける。

「ところで、小姑とおっしゃるのは、お方様の……」

「そうだ。土間で見ただろう、あれが俺の妹だ」

 女が訪ねてきた時、佐和子も女の顔を見ていた。この顔が明日には変わっているかもしれぬと聞けば、妹はどんな反応をするだろうか。

「名を佐和子と言う。俺が言うのも何だが、気立ては悪くない。お前のこともきっと気に入ってくれるだろう」

 そう告げると、女の表情が幾分か解ける。やはり他の家人については気になるものらしい。

 しかし久成はその時別の、大層重要な事柄に気づいた。あたふたと話を変えた。

「そうだ、忘れていた。お前の名をまだ聞いていなかったな」

「名でございますか」

 小首を傾げる女。どう答えようか考えるそぶりに見えた。

「ああ。俺は栄永久成と言う。お前は」

 久成が名乗ると、女は初めてにっこりと笑む。明るい表情だった。

「初音と申します」

 女の名を聞き、それを声に出してみたくなる。

 味わうような慎重さでぽつりと、

「初音、か」

「はい」

「わかりやすい、よい名前だ」

 しみじみと思う。これほどに、この女に相応しい名もそうないだろう。

 誉められたとわかってか、初音は一層笑んだ。うれしげに。

「初音。女房となるお前にもう一つ、頼んでおきたいことがある」

 久成は居住まいを正して続けた。

「俺のいない時は、お前に留守を預ける。頼むぞ、初音」

「――はい。お任せください、久成様」

 初音は深々と頭を垂れ、それからゆっくり面を上げた。すると角隠しがまたしてもずり下がり、目にした久成は懸命に笑いを噛み殺す。

 およそ模範的ではないが、そもそも人ですらないのだが、これはまたとびきり可愛らしい嫁を迎えるものだ。この時には既に、思っていた。


 囲炉裏で湯を沸かしていた佐和子は、久成が戻ってくるのを見るや、さまざまな感情の溢れた顔を向けてきた。尋ねたいこともあるだろう、物申したいこともあるだろう、しかし兄の出方を待つようにじっと目を瞠っていた。

「佐和子。白湯を用意してくれ」

 その妹に久成は告げる。唐変木らしい物言いに、妹はみるみる眉根を寄せた。

「白湯とおっしゃいましたか、兄上。まずはその了見をうかがっても――」

 しかし久成は問いにも答えず、早口にまくし立てた。

「三々九度に使う酒がない。白湯で代用する」

「兄上」

「酒を買いに行く暇もないのだ。俺は今日より、あの女を嫁に迎える」

「あ……兄上?」

 ぽかんと、佐和子の唇が開く。

 久成は自らの急きように気づき、込み上げてくる面映さを覚えた。緩む口元を引き締めつつ、妹に説明を添える。

「あれの名は初音と言うらしい。あれにぴったりの名だとお前も思うだろう」

「はあ」

「何かと勝手を知らぬようだが、お前からもいろいろと教えてやってくれ」

「それは構いませんけども……」

「これから祝言をやる。立ち会ってくれるか、佐和子」

 兄の問いかけに、妹はしばしの間困惑していたようだった。何を考えているのかわからぬ顔つきが、やがてふと和らぎ、腑に落ちた様子になる。花開くように微笑む。

 そして、改まって告げてくる。

「兄上。おめでとうございます」

「祝ってくれるか、佐和子」

 恐らくは兄の表情からおおよそを悟ったのだろう。一度笑むとそれ以降はもう、戸惑いも不安も見せなかった。しきりに頷きながら、

「ええ、ええ。私もうれしゅうございます。是非お嫁様に会わせてくださいませ」

 唐変木の兄より余程、はっきりと喜びを表していた。


 こうして久成と初音は、佐和子の立会いの下で祝言を挙げた。

 貧乏暮らしの家には何かと物がなく、その上よその家の者にはまだ明かせぬ婚姻だった。三々九度の盃には白湯が注がれ、新郎新婦は恭しくそれを交わした。

 朝餉の煙が家々から立ち上る、まだ早い時分のことだった。

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