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教え子らの来訪の話

「栄永先生」

「せんせぇ」

 家の外から子どもらの声がして、久成は飯に噎せた。

 ちょうど朝餉の時分で、初音と佐和子と三人で囲炉裏端にいたところだった。昔ながらの古い家は囲炉裏のある板間と土間とが一続きになっており、玄関の戸はすぐ目の前だった。呼びかけられた声に、三人は思わず顔を見合わせる。家の空気が張り詰める。


 直後、真っ先に動いたのは佐和子だった。湯飲みに白湯を注いで兄に手渡した。久成はそれを受け取り二口飲んでから、ふうと大きく息をつき、外へ声を張り上げる。

「今行く、少し待っていろ」

 訓導の言葉を聞いた子どもらは、わあわあと甲高くはしゃいだ。朝方の鳥よりも賑やかに、

「いいもん持ってきたのに、早くしないと帰るぞお」

「先生出て来い、先生出て来い」

 口々に囃し立ててくる。

 久成は苦笑しつつも、佐和子と初音に小声で告げた。

「あれは教え子らだ」 

「ええ。兄上……」

 佐和子が不安げな面持ちをするので、久成は素早く頷く。そして湯飲みを置いて立ち上がった。

「初音、こちらへ」

 新妻をそっと促す。ほっそりした手を引き、囲炉裏端を離れて奥へと駆け込む。初音も心得たもので、無言のまま久成の後に従った。 

 向かった先は納戸の前。そこで足を止めた久成は、建てつけの悪い戸をどうにかして開ける。中には使われていない布団や衣類がしまい込まれていて、いかにもそれらしい、埃っぽい臭いがしていた。真っ暗な上に狭い場所だったが、幸いというべきか、一人分程度の隙間はあった。

「悪いな、こんなところに押し込めて」

 久成が囁くと、初音は柔らかく笑んでみせる。

「いいえ。私、暗いところは嫌ではありません」

 嘘でもないのだろうが、だからと言って罪悪感が薄れる訳でもない。来客のある度に女房を納戸へ押し込むなどと、およそ非道なことだろう。久成は申し訳なさでいっぱいになりながらもう一つ、囁いた。

「……あいつらを帰したら、すぐに呼びに戻る」

「私のことはどうぞお気になさらず」

 気丈な言葉に背を押され、久成は納戸を閉じる。

 それから、土間へと急いだ。


 つっかい棒を外して玄関を開けると、朝日と朝の空気と共に、教え子らがなだれ込んできた。男子が三人、筒袖の着物に藁草履といういでたちで、久成の顔を見るなり黄色い声を上げてくる。

「先生遅いよ、帰っちまうとこだったよ!」

「うわあ、先生の家だ!!」

「美味そうな匂いがする!」

 たちまち騒々しくなる家の中。常日頃から聞き慣れているとは言え、学び舎で相対するのとは訳が違う。自宅に立ち入られると陣地を取られたような気分にさえなり、久成は教え子らのはつらつさに面食らった。ようやく一言切り出した。

「お前ら、一体何をしに来た。こんな時分に」

 すると男子のうちの一人が、握り締めていた小さな布包みを差し出してくる。

「先生、これ」

「これは?」

 受け取った久成の手の中、布包みはしゃらりと音を立てた。お手玉のような音だ。

「小豆」

 手渡してきた男子が泥だらけの顔で笑む。

「母ちゃんが、先生に頼まれてたから渡してこいって」

 覚えは当然あった。この村では余所者の久成と佐和子だが、訓導の職は村人の信頼を得るのに一役買っていた。そうして親しくなった村人たちから、ほんの僅かながら食べ物を分けてもらう機会があった。小豆があれば分けてもらえないかと頼んだのはつい先日の話で、それなら少しばかりありますからと言ってくれたのが、この男子の母親だった。

「おつかいに来てくれたのか。ありがとう」

 久成が小豆の包みを持ち上げ、礼を述べる。三人は揃ってにいっと笑ったが、そのうち一番の年少が、ふとすっとんきょうに叫んだ。

「あっ、女の人がいる!」

 指を差されたのはもちろん佐和子だ。囲炉裏端に居合わせた妹は、その声にすっと進み出て、土間に顔を出してみせた。

「あらあら、ありがとうございます」

 人見知りながら近所付き合いもこなしている佐和子は、この村でもそこそこ顔を知られている。しかしまだ、小さな子にまで覚えられるほどではないらしい。顔を覗かせた途端に言われた。

「先生、嫁御さん貰ったのか?」

「馬鹿を言うな。あれは妹だ」

 久成が答えると、佐和子も控えめに微笑む。

「栄永久成の妹、佐和子と申します。是非、顔を覚えてくださいね」

 丁寧な挨拶も子どもらにはすぐ飲み込めないらしい。佐和子の言葉に、三人は額をつき合わせてわいのわいのと騒ぎ立てる。

「嘘だあ。先生と妹さん、ちっとも似てねえ。やっぱ嫁御さんだろう」

「似てなくてもありゃ兄妹だって。お前、知らなかったのか」

「うちの母ちゃん言ってた。先生みたいなとうへんぼく、嫁の来手なんざそうそうないって」

 年端もゆかぬ連中に、果たして『唐変木』などという言葉が理解出来ているのかどうか――内心呆れた久成だったが、言われた内容自体は否定し切れなかった。

 自分に嫁の来手があるとは思わなかった。田舎暮らしで稼ぎも少なく、おまけに時代遅れの気質と来ている。数年前、この村に移り住んできた時から、嫁を貰うことなど端から諦めていた。それが何の因果か、初音のような女がひょっこり現れるのだから人生はわからぬものだ。

 教え子らが来た時同様、賑々しく帰っていった後、久成は貰った布包みを佐和子に手渡そうとした。

「小豆だ。これで、美味いものでも拵えてくれ」

 しかし、妹は包みを受け取らなかった。

「兄上。初音さんに一度、見せてあげた方がよろしいでしょう」

 控えめながら、冷やかそうとする笑みを見せる。他人の前では決して見せることのない表情だ。心底まで全てを見透かされているようで、久成は居心地の悪さを覚える。

「小豆をか。見せるだけではあれも喜ばぬだろう」

「いいえ、きっと喜んでくれます」

「そうだろうか……」

「そうですとも。さ、お仕事の前に初音さんを呼んできてくださいませ」

 妹は太鼓判を押したのか、それとも釘を刺したのか。どちらともわからぬまま、久成は小豆を手に納戸へと向かう。


「初音」

 納戸の前で呼びかける。

 直にくぐもった答えが返ってきた。

「はい、久成様」

「出てきてもいい。あいつらは帰った」

 久成が告げると、戸は内側から軋みながら開けられた。這い出てきた初音は瞬きを繰り返している。視線を上げ、夫の姿を確かめてから立ち上がる。

「辛くはなかったか」

 そう尋ねても、平然とかぶりを振っていた。

「この通り、平気です」

「しかし、お前には済まぬことをしている」

 詫びようとする久成を、初音は眼差しで押し留める。小首を傾げて語を継いだ。

「元はと言えば、私が至らぬ妻だからいけないのです。一刻も早く慣れるようにいたします」

 そう語る初音の面立ちは、今朝もやはりつり目がちだった。気をつけていると本人は言うのだが、どうにも行き届かぬものらしい。それでいて記憶の中に留められぬ顔なのだから始末が悪い。細面の初音は身体つきまで華奢で、今朝はどうにも色気に乏しい。

「毎日、顔の違う女房では、久成様も扱いに困りますでしょう」

 かえって気遣わしげな物言いをされてしまい、久成は、少し笑う。

「俺はいい。だが、表に出すとなればな……特に子どもらは案外聡い。お前の顔が違うことを悟られては面倒になる」

 初音は奇妙な嫁だった。毎日のように顔が変わる。

 お蔭で来客のある度に隠さねばならず、当然、村人たちに紹介することも叶っていない。表向きは久成も、独り身のままで通している。妹と二人きりで暮らしていることになっている。

「ご心労をお掛けします、久成様」

 眉尻を下げる初音。そういう表情もここ一月、毎日のように、違う顔の上で見ている。女房の顔を一向に覚えられぬのは、新婚の面映さのせいだけではない。

 それでも久成は、初音と共に暮らしている。

 初音のことをれっきとした妻だと思っている。こんな田舎の、貧乏人のところへ嫁いでくる物好きの女は、初音のほかにはそういまい。だから手放す訳にはいかない。粗末に扱うつもりもない。

「初音。実はな」

 妻を慰めようと、久成は急き込んで切り出した。

「さっきは小豆を届けてもらったのだ。ほら、見てみるといい」

 教え子の一人に貰った小豆の包みを、目の前で開いてみせる。萎んでいた初音の顔が輝く。

「わあ……」

「これで佐和子に、好物でも作らせるといい。お前の気もいくらかは晴れるだろう」

 初音の繊手を取り、そこに小豆の包みを握らせる。新妻は頬をほんのり上気させた。

「ありがとうございます、久成様。私の為に……」

 お前の為だと言ってもいないのに、よくわかるものだ。――久成は困り果てたが、見え透いた行動だったかとこの期に及んで気がついた。なので最後には開き直ってしまうことにした。

「女房を喜ばせるのも、夫の務めだ」

 その言葉は妹に聞かれぬよう、細心の注意を払って告げられた。

 当の女房はうっとりと目を閉じ、手の中の小豆をいとおしむように包む。

「私、久成様の妻で、本当に幸せです」

 あどけない声でそんなことを言うものだから、久成は危うく、食べかけの朝餉のことさえ失念してしまうところだった。

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