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ある朝の話

 山で出会った狐に、久成は狐女房の話をしてやった。

 よく耳にする古い民話だ。命を救われた狐が人間の女に化け、助けた男の元へ嫁ぐという、ごくありふれた部類のお伽話だった。

 久成は訓導の口調でそれを語った後、小さな狐に打ち明けた。

「俺には妹がいる。昔ほど朗らかではないが、気立てのよい働き者だ。不幸な結婚をして、離縁をして、それからあいつは変わってしまった。古傷を自分で抉っては苦しんでいる」

 狐はぴんと耳を立て、こちらの話に聞き入っているように見えた。

「兄として、俺はあいつを幸せにしてやりたい。守ってやりたい。なのに俺一人ではそれが叶わない。世話をすればするほど、あいつはそのことを気に病む」

 山の風は時折強く、木々や草葉を軋ませながら吹き付けた。そのお蔭で、久成の声はすぐ傍にいる狐にしか聞こえなかったはずだ。

「だから俺は嫁が欲しい。新しい家族が欲しい。あいつに家族のいる幸いがどんなものかを、もう一度見せてやりたい。俺とあいつが失くしてきたもののうち、一つきりでいい、取り戻したい」

 時代と時の流れによって兄妹は多くを失った。今となっては戻ってこないものばかりだ。望んだところでどうにもなる訳でもない。

 だからこそ久成は別の幸いを望む。

「なあ。お前は、お伽話のように化けられないのか」

 そう問いかけつつ狐の頭を撫でる。

「俺のところへ嫁に来る気はないか」

 馬鹿げたことを口にしていると思う。狐が黙って話を聞いてくれるので、洗いざらい打ち明けたくなる。

「もっともうちは貧乏だ。女房を貰ったところで良い暮らしをさせられる訳でもなし。妹はもう嫁に行かぬだろうし、嫁ぐ利など何一つない。だから女には見向きもされない」

 毛並みに沿って背を撫でる。いつしか久成の方も慣れてしまって、遠慮なく狐に触れている。撫でられる方も全く嫌がるそぶりはなく、おとなしくしていた。

「お前はどうだ。貧乏人の唐変木が相手では、恩返しでも女房にはならぬと言うか」

 問うても狐は答えない。黒々とした双眸で見つめてくる。

「俺はどんな嫁でも構わん。化けた狐だろうと、子どもが産めなかろうと気にはしない」

 狐の顔を両手で挟むようにして、軽く揺すった。手触りが良い。狐が心地よさそうにしたので少し笑う。

「ただ、妹のことをも大事にしてくれる女がいい。望むのはそれだけだ」

 望んだのは家族としての幸いだった。兄妹が揃って失ってきたものを、別の形でもいいから取り戻したかった。

 ――その時、強い風がまた吹きつけた。

 ごうと唸るような音。山の木々がかぶりを振って騒ぎ立てる。

 久成は梢を見上げ、風の冷たさに気付く。少ししてからぼそりと零した。

「……お伽話に縋るようでは、それこそ嫁の来手もあるまい」

 微かな自嘲をどう聞いたか、不意に狐が身を捩った。

 久成の手をすり抜ける。そのまま少しの間、匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。

 そして直に歩き出す。草むらの手前で立ち止まり、一度こちらを振り返る。久成と目が合えば小首を傾げ、それから茂みの向こうへ飛び込んだ。あっという間に見えなくなる。

 狐に逃げられた久成は、しばらく呆然としていた。つままれた気分で立ち尽くしていた。


 初音が嫁に来たのは山狩りから二日後のことだ。

 久成はもちろん、佐和子までもがこの奇妙な嫁を受け入れ、家族の暮らしは一月以上も平穏に続いている。



 山の鳥よりも明るい、女の笑い声で目が覚めた。

 床から起き上がった久成は、妹と妻の楽しげな声を耳にする。二人で何やら笑い合っているらしい。今朝の献立は小豆飯でも油揚げでもないはずだが、それならきっと、初音の身支度が早く済んだのだろう。近頃は人に化けるのにも慣れてきたようだから。何にせよ、妹と妻の仲睦まじいのはいいことだと、寝惚けた頭でも思う。

 初音が来てからというもの、佐和子は生来の朗らかさを取り戻しつつあった。義姉が出来たことで張り切っているのか、古傷を取り出して怯える暇すらないらしい。久成以上に肩入れしている様子も見受けられ、兄としては喜ばしいやら、少々複雑やらだった。

 嫁としての初音には至らぬところも多い。だが久成が求めた最もたる条件、すなわち『佐和子のことも慈しみ、大切にしてくれる女』である点は確かに及第していた。初音もまた佐和子を慕い、二人でいる時は若い娘のようにきゃあきゃあと笑い合っている。楽しげな笑声を聞きながら、久成はそっと幸いを噛み締める。

 ようやく、家族としての幸いを取り戻せたようだ。


 身支度を整えてから囲炉裏端へと向かえば、二人はすかさず挨拶をしてくる。

「兄上、おはようございます」

「久成様、おはようございます」

「おはよう」

 久成も挨拶を返し、横座に着く。それからかか座に並ぶ二人を見やる。

 今朝の初音は、相変わらず見慣れぬ顔をしていた。目元のぱっちりとした華やいだ顔立ち。色気こそないものの、見る人全てが美人だと評すだろう化け具合だった。初音自身にはそういう違いがまだよくわからぬと見え、話し方や笑い方は普段と変わりない。

 隣の佐和子はひたすら微笑んでいる。兄が新妻を眺めていたのを喜ぶそぶりでもあったし、義姉の美しさを我が事のように誇っているそぶりでもある。どちらにせよ表情は明るく、僅かな憂いにも囚われていない。

「兄上」

 その佐和子が、囁き声で呼んできた。

「見惚れていらっしゃらないで、何か言ってはいかがです」

 どうやら今の妹の憂いは、兄の唐変木ぶりだけらしい。促された久成はもう一度初音を見やり、それから低い声で言ってみる。

「今日は……また随分と別嬪に化けたな」

「久成様の好みの顔になれましたでしょうか。今日はなるべくつり目にならぬようにと気をつけてみたのですが」

 すかさず初音が、うきうきと聞き返してきた。好みだけで言うならもう少し艶っぽい顔立ちの方がいいのだが、近頃はそれもどうでもよくなってきた。つり目だろうが細面だろうが、肉付きが悪かろうが構わない。どんな姿に化けようと初音は初音、久成の女房であることに変わりはなかった。

 それもただの女房ではない、とびきり上等の良妻と来ている。

「俺の好みは気にするな。お前の化けやすいように化けるがいい」

 いつものように答えると、初音は小首を傾げてみせる。

「お言葉ですが、久成様。私は久成様に好いていただけるような顔になりたいのでございます」

 またこちらの反応に困るようなことを言う。ぐっと詰まった久成に、妹が追い討ちをかけてくる。

「あら、初音さん。兄上はどんなお姿の初音さんでも好いていると、そのようにおっしゃっているようですよ」

 しかも佐和子の読みは大筋で当たっているから余計に困る。たちまち初音は頬を染め、じっとこちらを見つめてきた。

「わあ……。久成様、そのお気持ち、大変うれしゅうございます」

 久成は何も答えず、何も言えずに、囲炉裏の火を眺めていた。お蔭で顔が暑かった。

 初音はよい女房だった。この家に来てからと言うもの、久成は家を留守にする際の安心を、佐和子はかつてのような明るさを、そして兄と妹は家族らしさをそれぞれ取り戻していた。以前からは考えられぬほどの幸いを手にしていた。

 ただ、誤算がない訳でもなかった。


 出掛けに靴を履き替えていれば、初音がたたっと駆け寄ってくる。

 顔は毎日違っているくせに、仕種は毎日のように同じだった。足取りの軽さ、鞄を差し出す時にじっと見上げてくる眼差し、鞄を受け取った後、ふと目が合うとする小首を傾げるさま。見慣れぬ顔でする見慣れた仕種は、むしろ顔立ち以上に久成を惹きつけた。

 初音は可愛い女房だった。存外にと言ってもいいだろう。どんな嫁でも構わないと思っていた久成は、すっかり初音の瑞々しさに魅入られていた。狐の女房に本気で惚れるなど、奇妙なものだ。思えば狐の姿の頃から、随分と愛嬌のある女だった。

「どうかなさいましたか、久成様」

 上がり框に座る初音が、怪訝そうに瞬きをする。久成は慌てる。

「いや。今朝のお前は身支度が手早かったなと、驚いていた。俺よりも早かったからな」

「佐和子さんのお手伝いがしたくて、近頃は支度を急ぐようにしております」

 素直に頷く初音。妹を気に掛けてくれるのはうれしく、自然と久成の口元も緩んだ。

「そうか。お前はよい女房だ、安心して留守も任せられる」

「お言葉、光栄に存じます。久成様のいらっしゃらない間も、私が佐和子さんをお守りいたします」

 次の答えは、少々複雑な思いで受け取った。やはりもしもの時など来ない方がよい。佐和子の為にも、初音の為にも、あの火縄銃を持ち出す日はもう二度と来ない方がよい。そう思う。

 むしろ、もう二度と来ないのかもしれない。誰よりも過去の幻に苛まれているのは久成自身で、こうして手に入れた幸いを、未だに形見の火縄銃でしか守れないと思い込んでいるだけ、かもしれない。

 この幸いを守っているのが自分ではないことも薄々感づいている。

 いつか佐和子と初音の為に、あの火縄銃を手放す日も訪れるのだろうか。今はまだ、予感だけがある。

 さしあたっては、はっきりしていることだけに触れておくべきだ。

「早く、お前を外へも連れて歩きたいものだ」

 久成が言うと、初音は居住まいを正す。

「ではそれまでに、もっと見栄えよく化けられるようになります」

「見栄えなどどうでもいい。毎日同じ顔に化けられたら、それで」

 言いながら、朝餉の席での会話を思い出す。佐和子の言ったことは誤りではなく、つまりはそういうことだった。初音も同じことを思い起こしていたのか、困ったようにはにかむ。

「久成様はお優しい方です」

「そうでもない」

「いいえ。まだ未熟な私でも妻として扱ってくださいますから、大変お優しい方です」

 かぶりを振った初音の言葉に、思わず目を伏せたくなる。そんなことは当たり前だ。佐和子と同じように、初音もまた久成にとっては家族だった。

「久成様」

 初音がふと、夫を呼んだ。

 それで渋々視線を戻した久成は、俯き加減の妻を見つける。恥らうようにおずおず、切り出してくる。

「その……もし私が未熟ではなくなったら、その時はお願いがございます」

「何だ」

「先日のようにまた、ぎゅうと、抱き締めてくださいますでしょうか」

 わざわざ両腕で、自分の身体を抱くようにして説明してきた。世間知らずな嫁もいたものだ。初音の言い分に久成は狼狽した。望むにしても内容が内容だから困る。

「馬鹿。朝っぱらからそんな話をする奴があるか」

 抑えた声で叱ると、びくりとした嫁がそれでも、不思議そうにする。

「いけませんでしたか。この間のことも、朝方だったかと存じますが」

「そういうことではなくて……ともかく、仕事の前は駄目だ」

 何かと差し支える、と続けようとしたが、止めた。この女房なら真に受けて、酷く気に病むに違いないからだ。

「その時が来たらな」

 決まり悪い思いで釘を刺せば、初音は途端に表情を明るくする。

「はい。その為にも精進いたします」

 全くもって世間知らずで、奇妙で、可愛い女房だった。


 朝の畦道を行く久成は、時々そっと独り笑む。

 唐変木の訓導が行儀の悪い思い出し笑いなんぞをしていれば、行き会った教え子らが囃し立ててくる。

「わあ、先生がにやにやして歩いてる。何かいいことでもあったのかあ」

「栄永先生、とうとう嫁御を貰えたのかあ」

「きっとそうだ、締まりのねえ顔してるからな」

 口々にそんな言葉を掛けられて、久成は馬鹿を言うなと答えつつ、内心溜息をつく。

 あの可愛い女房を、早く連中にも見せびらかしてやりたいものだ。そうして初音と、佐和子と三人、村でも一等の幸せ者になってやろう。誰もが羨むような幸いを、あの家で日々築いてゆくのだ。


 村の家々からは朝餉の煙が消え始めていた。

 久成の一日はいつものように、幸いの中で幕が開く。

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