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奇妙な嫁と迎える朝の話

 初音は早起きをする嫁だった。

 山の鳥が鳴き始める頃、久成はいつもどおりに目を覚ます。すると初音の姿はとうになく、隣に敷かれていたはずの夜具も片付けられているのが常。隙間明かりの射す畳を寝惚け眼で眺め、久成はいつも嘆息する。つくづく奇妙な嫁を貰ったものだ、そう呟きたくもなる。

 初音という女の奇妙さは論えればきりがない。世間知らずでいささか無知。炊事や洗濯、繕いものもろくに出来ぬというありさまだ。そのくせ時たま物をわかった風な、大仰な口を利くこともある。田舎の農村にいる娘らとは一線を画していたが、かといって都会のハイカラな女とも違っていた。

 奇妙と言えば、夫である久成に寝顔を見せたがらないところもそうだ。所帯を持って既に一月、どんな寝姿を晒そうが今更だと諭したが、新妻は頑なにかぶりを振り続けた。久成様にみっともない姿をお見せする訳には参りませんと、毎晩こちらが寝つくまでずっと起きている。布団の横にちょこんと座り、目を擦りながら眠気と戦っている妻のそぶりを、久成は呆れる思いで盗み見ていた。聞いた話によれば、初音は夜の睡眠不足を解消する為、たまに昼寝をしているらしい。全く本末転倒だった。

 初音が早起きをする習慣も寝顔を見せたがらない理由と同じだ。夫の前で醜態を晒すのは嫌だからと、早起きをして身支度を整えているらしい。その身支度がまた時間の掛かるもので、久成が夜具を片付け、顔を洗い、囲炉裏端へ出向いてもまだ出てこない。


 囲炉裏の前では束髪の女が朝餉の用意をしていた。久成にとって新妻よりも余程見慣れたその女は、四つ年少の妹で、名を佐和子と言った。

 佐和子は兄の気配に素早く気づき、面を上げる。柔和な顔立ちに控えめな笑みが滲む。

「おはようございます、兄上」

「ああ、おはよう」

 応じた久成は、すぐに横座へ腰を下ろした。それから何気ない風を装い奥座敷の方を見やる。初音の現れる気配はなく、代わりに妹へ尋ねた。

「初音はまだか」

 味噌汁を椀によそう佐和子が、ふとその手を止めた。静かに答える。

「ええ。まだのようです」

「そうか」

 久成は顎を引き、

「毎度のことながら、あれもなかなか難儀なものだな」

 さも関心のないように続けたが、そこで妹から非難がましい目を向けられた。

「あら、初音さんは兄上の為に綺麗になさっているのでしょう」

 妹の言葉は久成にとって、何ともばつの悪いものだった。佐和子は兄嫁に甚く肩入れしているふしがあり、時々こうして初音を庇い立てる。

「俺の為ではない」

 無愛想に久成は答えたが、妹が眉を顰めたので一層気まずくなった。黙ってもぞもぞと座り直す。

 実のところ、身支度を終えた初音の様はまさに見物といったところで、夫としても密かに毎朝待ち侘びているのだった。花の顔と例えるのが相応の、見栄えのよい嫁だった。

「昨日も大変美しゅうございましたもの。今日もきっとお綺麗でしょうね」

 佐和子は嗜めるように笑う。それで久成は初音の昨日の姿を思い起こそうとしたが、あいにくと叶わなかった。そもそも久成はまだ、娶ったばかりの妻の顔を覚えていない。

 奥座敷から衣擦れの音がした。

「兄上」

 囁く佐和子を一瞥した久成は、その後で再び奥座敷へ目をやった。初めに影が落ち、ぎこちなく寄り添うように姿が覗く。

 丁寧に結い上げた日本髪。かんざしの音をちりりと鳴らし、初音がこちらへ近づいてくる。身のこなしはまだ垢抜けない、小娘そのものと言った無粋さ。しかしその姿は小娘ではなかった。まず座って頭を垂れる。

「おはようございます、久成様、佐和子さん」

 濃紫の着物を身につけた初音は、上げた面立ちもまた美しかった。柳の葉のようにしなやかな眉と、やや垂れがちな艶のある目元、ぽってりとした朱唇。見慣れぬ顔だった。

 田舎の朝には過分なほどの色香を漂わせた妻を、久成も長くは見ていられなかった。直に目を逸らした。

「初音さん、おはようございます」

 兄よりも先に、佐和子が挨拶を口にした。それから嬉々として誉めそやす。

「昨日よりも一段とお綺麗です。今朝の初音さんのお顔立ちと言ったら、目の覚めるようです」

「まあ、うれしゅうございます」

 初音は顔立ちよりもあどけない口調で応じた。胸を撫で下ろしたのが久成の目の隅に映る。その後でこちらを向いたのも見えていた。久成の反応が気がかりらしく、しばらくじっと待っている。

 何か言わなければならぬ、そうとわかってはいても上手い文句は出てこない。新妻に対して、ましてや妹の見ている前、率直な誉め言葉は告げづらい。久成も若い女の前ではさほど弁の立つ方ではなかった。

 それでもどうにか言葉を工面した。

「なかなか、よい出来だ」

 しかつめらしく告げると、佐和子はくすっと笑声を立て、初音は朱色の唇を綻ばせる。

「ありがとうございます、久成様。私、身支度が大分上手になりましたでしょう」

 上気した頬で問う初音。面食らう久成は曖昧に答える。

「ああ、そうだな」

「久成様のお気に召したでしょうか」

「女房の顔を気に入るも気に入らぬもない。俺はどんな顔でもよいくらいだ」

 なるべく無愛想にならぬよう、念を押しておく。更に言い添えた。

「それより、早く慣れるといい。佐和子の手伝いが出来るようにな」

「はい。かしこまりました」

 よい返事をした初音は、そのまま佐和子の隣、囲炉裏端のかか座へと座った。袖をまくって火箸を持つ。初音は火の扱いが苦手とのことで、これになかなか慣れぬようだった。囲炉裏の今も腰が引けている。

 見かねてか、佐和子が助け舟を出す。

「初音さんはこちらで、兄上にご飯をよそってくださいます?」

 それで初音は火箸を佐和子に渡し、櫃から飯を椀へとよそい始めた。手際がよいとは言えなかったが、それでも嫁いできたばかりの頃に比べたら随分とましになった。不格好に盛られた飯の椀を受け取り、久成は食事を始める。

 朝餉の献立は麦飯と大根菜の味噌汁、そして糠漬けのみ。久成は黙々と食事を続け、合間に女房の様子をうかがう。朝餉の席ではいつも、密かに初音の姿を眺めている。

 見栄えのよい女だった。しかし田舎の茅屋に着飾った女の姿は不釣合いだ。掛け軸代わりに飾っておくなら都合もよいのだろうが、あいにくと床の間もない家だった。不釣合いだと言うのなら、久成にとっての初音こそそうなのかもしれない。


 朝餉を済ませると、久成はいそいそと洋服に着替えた。シャツとズボンを身につけて、鞄を提げると支度が整う。手早いものだった。

 土間で下駄を履き出すと、初音がすかさず寄ってくる。ちょこんと傍に座り込み、久成が目をやれば愛想のよい笑みを浮かべる。

「行ってらっしゃいませ、久成様」

 掛けられた見送りの挨拶に、戸惑いつつも頷く。

「ああ」

 直後に立ち上がると、待ち構えていたように初音が鞄を差し出してくる。顔つきは妻の務めを果たせた喜びに溢れていた。

 久成も苦笑した。込み上げてくるおかしさは噛み殺しつつ、初音の手から重い鞄を受け取る。そして、しばしその顔を眺めていた。色気を含んだ面差しと、対照的にあどけない笑み、どちらも見慣れない。明日もまた見慣れない顔でいるのだろう。

 今の顔を記憶のうちに留めておくべきか、そうせざるべきか。久成は思案の末、初音に対してこう告げた。

「好みの顔だ」

 ぶっきらぼうな物言いになったせいだろう。初音は黙って目を瞬かせる。

「今朝のその顔――なかなか悪くない」

 仕方なしに続ける。

「久成様……大変、うれしゅうございます」

 心底うれしそうに初音が言ったので、久成は面映さに目を逸らした。やはり女を誉めるのは不得手だった。

「では、ずっとこの顔でいられるよう、励むことにいたします」

 上機嫌の初音を今一度、目の端で見る。もっと言ってやるべきかと思っても、もう世辞すら出てこない。朝餉の席で告げた、どんな顔でもよいという言葉に嘘はない。しかし、初音が美しくあるということがうれしいのもまた事実だった。他でもない久成の為に励んでいるのだと、知っているからこそ。

 見送りに佐和子が姿を見せないのが幸いだった。毎朝のようにこんなやり取りをしているが、初音と二人きりでも居た堪れない。妹の前で兄の威厳を保つ自信はほとほとなかった。

「行ってくる。初音、留守を頼む」

 息をつき、久成は威厳を保った口ぶりで言い渡す。

「はい。お帰りをお待ちしております」

 初音は深々と頭を下げ、その時、かんざしがちりりと鳴った。


 朝の田舎道を久成は一人、歩き出す。

 この山間の村の小学校で、久成は訓導として勤めている。子どもらの相手は女の相手をするよりも余程楽だったが、気をつけねばならぬことも多かった。教え子の前では新妻について、断じて口を滑らせぬようにと――自衛の為の策だった。

 初音は奇妙な嫁だったが、所帯を持つことについては迷いも、ためらいもなかった。三人での暮らしをただただ守ってゆきたい、久成は常にそう思っていた。

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