8
後から思えば、すでに歴史は分岐点を通過していた。
今の時間帯にはほとんど人が来ない、職員用のパーキングスペースへ三人はやってきた。一度泣き止むと存外少女は大人しく、言葉少なに空を見上げるなどしている。
ドアを開放し、アレクの車の後部座席に少女を座らせた。
そろそろ買い換えたい、とアレクがぼやく。スライドドアがギコギコ言うのはともかく、中古のミニバスの座席のスプリングは相当へたっていて、腰掛けた少女が変な角度に傾いていた。
何か良くわからない感嘆のため息のようなものを吐き出して、少女はまた呆けたように空を見る。毒気が抜けたというより、魂まで抜けてしまったのではと少々心配になるくらいだ。
「とりあえず、これでも飲んで……」
ペットボトルに入ったミネラルウォーターを差し出す。そこでチェルトは驚くことになった。
「……開け方、わかんないの?」
「……これが何かは……知識として知っていますネ」
何か変だ、と感じた。それが顔に出てしまったようで、少女は困ったように首を傾げる。そして神妙な面持ちでペットボトルを掲げ、口を開いた。
「これはペットボトルまたはプラスチックボトルと呼ばれる容器。構成するのはポリエチレンテレフタラート。中に入っているのは飲用に適した水と推測されますネ」
大真面目なようだが、聞きたいのはそれではない。歯車がかみ合わないような居心地の悪さがチェルトの口調を慎重にさせる。
「……開け方は?」
「ねじ式のキャップを外すことにより水を取り出すことが可能になる……上下を逆方向に回転させ……?」
手つきが妙だ。隣にいるアレクと顔を見合わせる。開け放ったスライドドアの上部に腕をかけるようにして車体に寄りかかっていたアレクが「貸してみろ」と手を伸ばした。
「ありがとうなのですネ」
ほっとした顔で水を飲み始めた少女だが、どうにもおぼつかない。奇妙な装飾に覆われた服装を隠すため羽織らせていたチェルトのコートに、ぼたぼたとボトルの水が落ちる。
(世間知らず……で片付けられるようなもんじゃない気がする)
少女は「知識として知っている」という言い方をした。変な言い方だ、とチェルトはいぶかしむ。
(知ってはいるが、触ったことがない――そんなことが、ありえるんだろうか?)
仮にペットボトルが存在しない地域で育ったとして、どうやってその知識を得たのか。そもそも、それほどまでに文明を知らない子供が、こんなにも会話を続けることができるものなのか。気持ちがざわついていた。
(というか……この子は、どこから来た?)
――マナプログラムに満たされた白い空間から。
いや、とチェルトは心中で否定する。それは答えにならない。
アレクも妙な顔をしている。きっと似たようなことを考えているのだろう。
「……どこから繋がったんだろうな」
アレクがぽつりと呟く。少女が顔を上げた。
少女のことは気になるが、そうなるとこちらの事情も話さなければならないと思われた――チェルトの父エディックス・アヴァンシアがチェルトに渡してくれと、研究施設を破壊する大事故を起こす前に助手であったハリアー・レジアスに託していたという本のこと――くりぬかれた古書の中に隠されていた銃と、白く丸い石――そして、ハリアーに最後に残した「ゲート」という言葉。
「……君は」
意を決して。チェルトが問う。
「エディックス・アヴァンシアを、知ってる……?」
一瞬、間が空いた。だが少女の表情は変わらず、正確に左右対称に首を横に振る。
「いいえ。ワタシが知っているのは、未確認のゲートが実行される未来――それにより世界は裏切られる……ワタシはそれを止めるつもりだった――それだけですネ」
「……そっか……」
少女の言っていることの半分もわからない。だが、
「……「ゲート」……の話なら、すりあわせられるかな――」
「アナタは!ゲートを知って――」
「いや、知らない、知らないよ!」
少女を無駄に刺激することは避けたい、慌てて手を振って否定し、チェルトはゆっくりと、言葉を選ぶ。
「知らないから……だから、知りたくて、君に聞きたいんだ……実は……「ゲート」っていう言葉を残して、行方がわからなくなった人物が――いるんだよ」
「行方が?」
少女がやけに印象に残るまばたきをする。少女の反応を探りながら、チェルトは続けた。
「そう……その人は――……マナプログラムを、研究してた。そして……大事故を起こして――……死んだと、思われてたんだ。でも、死んだっていう形跡が……見つかってない。なんの痕跡も残さず、その場から消えた……だから――「ゲート」っていう言葉が、……何か、関係が……あるんじゃ、ないかと――……」
上手く説明できる気がしなくて、後半は尻すぼみにトーンが落ちていっているのが自分にもわかった。
(伝わった……だろうか?)
恐る恐る少女の様子をうかがう。少女は表情を変えていなかった。丸く大きな瞳はゆらぐことなく、感情は読みにくい。
少女は少しの間、チェルトの言葉の続きを待っていたらしかった。しかしチェルトは黙っている――これ以上の説明はできない。
少女は諦めたのか、まばたきをひとつ挟んで、喋り始める。
「ゲートの起動には緻密な計算が必要ですネ。わずかな外的要因の干渉も失敗につながる。エネルギーが暴走し周囲を破壊することになっても不思議ではありませんネ。ゲートの起動に失敗した場合、何が起こるかはわからない」
「ゲートを…起動……」
「それが、もし……成功していたら?どうなっていたはずなんだ?」」
チェルトの代わりにアレクが問う。
エディックス・アヴァンシアの研究内容にして事故の原因、それが「ゲート」ならば、彼は一体何を試みていたのか――
「「ゲート」なら、もう見たでしょう?」
少女は表情を崩さない。きょとんとした、可愛らしい……人形のような、そんな瞳をしている。
「見た……?」
はっとする――というよりはぎょっとして、チェルトはアレクと顔を見合わせた。
見た、と言う言葉は過去形。まさか。
「外的要因の干渉により、ワタシは接続を保てずこちらの世界に落ちたのですネ。外的要因とは、火薬が燃焼することにより発生するガスの圧力で筒状の銃身から高速で金属弾を発射する携帯式の道具、すなわち――さきほどの場合は――回転式拳銃――リボルバー。それによりワタシがワタシの認証キーを用い接続していたゲートは破壊され、ワタシは接続を保てなくなったのですネ」
「あれが……ゲート?」
突如取り込まれた白い空間。マナプログラムに満たされていた空間。威嚇射撃のつもりで発砲した一発の銃弾によりガラスのように割れ、元いた場所に戻ってきた――……あの空間が、「ゲート」だというのか。
少女は頷く。
「そうですネ。ゲートは、空間世界を繋ぐもの。それ以上でもそれ以下でもありませんネ。ワタシは、空間世界を繋いで、そしてアナタにアクセスした」
表情のない少女に見つめられ、チェルトは眩暈を感じる。
――空間を、繋ぐ?
それすらも、マナプログラムは可能にするのか、と。