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分岐点は唐突に現れるものだ。予想よりも早く。
「声が聞こえたんだよ」
「声?誰のです」
アレクに問われて、チェルトは左右に首を振る。
「わかんない……でも、これに触ったら、声が」
父であるエディックス・アヴァンシアのものだという本、その中に隠されていたケースに収納されていた石をアレクに差し出す。
指先で触れ、アレクが首をかしげた。
「俺には聞こえませんよ」
「角度の問題かなぁ……指向性スピーカーなら古代の遺跡にあった、ってことは知ってるんだけど」
マナプログラムは物質の存在エネルギー「マナ」にアクセスし「事象」を引き起こすもの。音だって空気の振動という「事象」だ。
古代文明がマナプログラムを礎として栄えていたと突き止めたのは他でもないエディックスだった。彼ならば何も無い場所に音を発生させることができる。しかし――
「こんな小さい石に、マナプログラムを書き込めるわけないよねぇ……」
古代の神殿や祭壇に過剰なまでの装飾が施されていたのは、それ自体がマナプログラムだったからだ。王や神官の言葉はマナプログラムにより振動として増幅され遠くまで届いた。それは今で例えるならスピーカーと電波放送をあわせたようなものだ。夜には光を発生させるマナプログラムにより明かりがともり、治水も流体を制御するマナプログラムで行われた。
古代文明は現在の科学技術とは異なる技術、マナプログラムにより繁栄を極めていた。
文明が途切れ、数千年後の現在になってそれを蘇らせた人物、それがエディックス・アヴァンシア。
「――アレクにも教えたことあったと思うけど、マナプログラムの一番の問題は文字数なんだよ。文字列と図形両方が必要で、手描きで描こうと思うと時間がかかる。だからこそヤツ――レジアス教授なんかは、既存の科学技術と組み合わせて使おうとしたり、工夫してるわけ。だからこんな小さな石ころに書き込めるわけないんだ……」
「でも聞こえたんでしょう?それにただの石をこんな……銃と一緒に隠したりはしませんよ」
「そうなんだよねぇ、そもそもこれってほんとに石……あ――」
ころりと石が転がった。完全な球体をしているせいで簡単にケースを飛び出していく。
しまった、とチェルトが手を伸ばして、アレクも手を伸ばして、石と2人の手が綺麗に重なった。
そのとき。声が聞こえた。
「――見つけた、逃がさない!」
さっきよりも近くで、はっきりと聞こえた。反射的にチェルトは石を握り締める。
「誰だ?」
アレクがきつく問う。今回は彼にも聞こえたようだ。問い返しつつ、声の主を探そうとあたりを見渡し――見渡そうとして、その動きが止まる。
チェルトも同様に、硬直するしかなかった。
風景が、消えていた。
伝統ある講堂、文化を後世に伝えるべく残されている時計塔、近年立てられたガラス張りの研究棟、それらすべてが視界から忽然と消えていた。
消えているのは歴史と近代が融合したグランビア大学の学び舎だけではない。
(空が……無い?)
馬鹿げたことだと思った、ただ見慣れた日常でしかなかったはずのものが姿を失うなど。
――一面の白。地面も空もない。
気を失ったのかとさえ思うが、意識はしっかりしている。
白の中に何かがまたたいていた。例えるなら新雪の表面を朝日がなで、細かな雪の結晶一つ一つが光を返すような、そんな輝きをもって光るものが溢れている。
眩しさに目を細める。
光は無数の文字と図形だった。それが上下左右すべての空間に浮かび上がり、星座のようにまたたき、オーロラのように揺らめく。光が肌をかするたびに、ピリピリと弱い静電気のような感触があった。
(夢……いや、夢の中でこれほど触覚と視覚が敏感になることはないはずだ。……だとしたら、これは――)
考えられることはこれしかない。
――感覚を誤認させるマナプログラム――エディックス・アヴァンシアが仕組んだ……?
「チェルト先生」
と、緊張をたたえたアレクの声で、チェルトは思考から引き戻される。
問い返そうとアレクを見ると、彼はこちらではないどこかを見ていた。視線を追う。そして、彼が見ている「もの」に気付いた。
言葉は出なかった。光が乱反射する空間の中で、圧倒的な存在感を放つもの。
それは上下さえもわからない中、異様な雰囲気を纏って同じ平面上に直立していた。
ヒトと言っていいかはわからない。しかし少なくともヒトの姿をしていた。そして少女だった。
チェルトと同じくらいの背格好に見える。明るい金髪が風も無いのに揺れていた。一瞬、眼が複数あるのかと思ったが違った。額に、耳元に、首に、腕に、瞳と同じ色の石が貼り付いている。燃え盛るバーントシェンナのような強い赤に気圧されて、息をのんだ。
(僕を見てる……)
丸みの強い幼い瞳が、突き刺さるようにチェルトを睨み付けている。
少女が動いた。怒りに燃えた瞳で、
「――逃がさない!」
先ほどから何度か聞いた声、見た目通りの高い声だ。
「何の話だ」
立ち上がり、アレクがチェルトの前に出る。こういうときのアレクはとても怖い。もとより目つきがきつく体格がいいせいで、ちょっとすごんでみせるだけで相当の効果が期待できる。しかも今は偶然にも銃を手にしていた。とても怖いはずだ。しかし。
少女はまったく顔色を変えず、こちらへ歩みを進めてくる。
(これはもしかして、立体映像だろうか)
少女の映像。そんなことをふと考える。少女は幻で、作られた感覚でしかないもの。会話などではなくただ再生されているもの。
幻はどんどんこちらへ近づいてくる――
「ねぇ、アレク――」
その考えを伝えようとした、その瞬間、少女が手を伸ばした。
一瞬、チェルトの頬にその指が触れる。え、とつかみかかられそうになったチェルトが声をあげ、そして少女をアレクが止めた。
「離すのですネ!」
「何をしようとしてるんだ、説明しろ!」
手首をつかまれ、少女は振りほどこうと暴れている。
――存在している。
気づいたチェルトがぎょっとする。幻ではない。
(待って……だとしたら、これは、何?)
呆然としながら、チェルトは握り締めた手の中の石の感触を感じていた。