3
「重い……」
無性に腹が立って小さく舌打ちなどしたところで、誰にも届かない。ハリアーに渡された本は無駄に重たかった。両手で抱えるように持つと古びた紙の臭いが鼻につく。
「……変だ」
先ほどまでは、唐突に出た例の事故の話のせいで冷静さを欠いていた。飛び出すように建物を出てきて、新緑の光に目を細めて現実に戻り、初めてチェルトの脳裏に疑問がわく。
研究施設の記録、と言っていたが、事故が起きたのは研究施設が新設されてからすぐの出来事だ。一体何の記録だというのだろう。
(書面でデータを残していたとしても、僕に原本を渡すなんて考えられない。そもそもわざわざアンティークな装丁にする必要性なんて無いんだ。重さもおかしい……これ……ほんとに本なんだろうか)
ダークブラウンの表紙はエンボス加工され凹凸で模様が施された総革装、そこへ金属製の唐草文金具が鋲留めされている。鍵こそ無いが、小口は金属の金具で留められている。一見して豪華な古書だ。
その場で指摘しなかったことが悔やまれた。やられた、とほぞをかむ。
(これがなんなのかは知んないけど……、普段だったらこんな得体の知れないもの、受け取るわけ無いのに。ヤツは僕に何をさせようとしてるんだろう。僕の――マナプログラムの知識を使って?)
父であるエディックスが、物質の存在エネルギー「マナ」にアクセスし事象を引き起こすプログラム「マナプログラム」の研究施設を一瞬で廃墟に変えた事故を起こしたのは、5年前。チェルトが12歳のときだった。
それからずっとチェルトはひとりでマナプログラムを学んできた。自宅に残された研究資料は膨大な量だった。
ハリアーも優秀なマナ技術者だが、彼が得意とするのは既存の科学技術とマナ技術を融合させる研究だ。チェルトほど自在にマナプログラムを読み解き描ける者はいない、という彼の言葉は正しい。
しかしチェルトは研究に貪欲というわけではない。
(……あいつの後を追ってマナ技術者になったわけじゃないんだ。そうだよ、他にやることがなかった……消極的な理由なんだ。そのはずだ……)
「チェルト先生」
声が降ってきて、はっとして顔を上げた。背まである長い黒髪が顔にかかったのを、顔を左右に振って払う。
「アレク……」
「なんです、その本」
「知らないよ!」
つい反射的に苛立ちをぶつけてしまい、しまった、と視線をそらす。
「ご、ごめん……」
「いいえ。……なにかあったんですか?」
気遣ってくれる友に感謝する。
見上げると、金に見えるアンバーの瞳がこちらを見ていた。
小柄で華奢なチェルトとは対照的に、アレクはずば抜けて背が高く体格も良い。チェルトの背はアレクの胸までしかなかった。金髪に茶のメッシュが入ったゼブラブロンドの髪、目つきはきつく例えるなら大型の猫科のなにか。鼻筋が通っているあたり、虎というよりは豹かな、などとチェルトは思っていた。アースカラーの丈の短いジャケットが良く似合っている。
「……ところで、やっぱり「先生」って変じゃない?アレクのほうが5つも年上なんだし」
「でも俺の在学中は「先生」だったじゃないですか。それに無事卒業して正式に助手になったんですから、現在チェルト先生が俺の上司なのも事実ですよ」
「でも、変じゃないかな」
「慣れてください」
嫌味なく笑い、アレクは「なにかあったんですか」と繰り返した。きつく見える目だが、笑うと暖かい。本心で真面目に心配してくれているのだろう。
肩をすくめて、チェルトは「実はね」と切り出した。
「胡散臭いですね」
話を聞いたアレクの第一声はそれだった。怪訝な顔で本の表紙をにらんでいる。
「でしょ?記録って言っておきながら、こんな豪華な本なんて絶対おかしいよ」
「これは、本当に本なんですか?」
「僕も同じ感想」
苛立ちが薄れるとため息しか出てこなかった。
本の重さに耐えかねて、二人は芝生に座り込んでいた。学内の芝生はよく手入れされていて、その鮮やかな緑に不気味な古書が沈み込んでいる。日差しは心地よくこのまま昼寝でも決め込みたい陽気だったが、降って湧いた「例の事件」のせいでそんな気は起こらない。
「……ゲート、って言ってたんだよね…」
「ゲート?」
「馬鹿親父がいなくなる前に最後に言った言葉、だって」
「それをチェルト先生に研究……いや、解明させようってことなんですね」
「僕にどうしろって言うのさ。……はぁ」
「ゲート……門……それがどこかへの入り口を示すなら――チェルト先生、やっぱり親父さんは生きてるんじゃないですか」
「は!?」
どう感情を表したらよいのかわからなくなって、とりあえず素っ頓狂な声だけが出てきた。
「事故を起こしといて逃げたって?アレクまでそんなこと言うの?」
そんな言い方をしなくても、と苦笑するアレクにチェルトが言い返す。
「僕だって詳しくは知らないよ、事故があったのなんて5年も前のことだったし。でもそのせいで僕はしばらく名前を隠してなきゃいけなかったんだ。名乗らなけりゃ誰も僕がエディックス・アヴァンシアの息子だなんて気付かない、幸運なことに僕は馬鹿親父には似てないからね。大学の学長のサイノス先生に引き取られることになって、サイノス先生にも迷惑かけて……いや、そもそも事故の前からあいつは親父失格だったよ。何が天才だよ、あいつは立ち止まれなかっただけなんだ。マナ技術を実用化しようと急いで、急いで、――今思えば、無謀な研究をしてたんだ」
一気に言って、沈黙する。
アレクに言っても仕方ないことだ、言い過ぎた気がして、少し自己嫌悪に駆られた。
うつむくと本が視界に入る。開く気にはなれない。
「……聞いてもいいですか」
「……ん」
変わらず穏やかなアレクの声に、少し落ち着きを取り戻す。
「親父さん……エディックス教授ってどんな人だったんです」
「よく知んないんだよ」
顔をそらして、チェルトは息をついた。