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これは、歴史が選択される前の出来事だ。
その日は晴天で、新緑を抜けた木漏れ日が地面に眩しかった。
青を見上げるアーチ型の重厚な門には、歴史を思わせる古びた文字で「グランビア大学」と記されていた。
門をくぐればそこには芝生が広がり、伝統ある石造りの講堂が奥にそびえている。
広大な敷地において建物は適度な緑地を挟みつつ間隔を保って建てられていたが、時計塔の背後に近代的なガラスに覆われた研究棟があるのだけはいささか見栄えがよろしくなかった。あと一区画横にずれていればと思わざるを得ない。
歴史と近代が融合した巨大な大学の中、チェルトは建物のある一室に呼ばれていた。
途中すれ違った学生にちらりと横目で見られた気がしたが、目を合わせないよううつむいて廊下を進む。
(子供だと思われたかな。それとも……この髪だろうか)
目立つのは嫌いだったが、生まれ持ったものは仕方が無い。チェルトは母の出身国、イーストエイジアの特徴を強く継いでいた。華奢で小柄な体躯、真っ直ぐな黒髪とやや彫りが浅く幼く見える顔立ちは、ここグレートウエスト大陸ではどこへ行っても珍しく人目を引いてしまう。眼鏡の奥の、子猫を思わせるようなはっきりとしたアーモンド形の目元も、幼く見えてしまう要因のひとつだ。
デスクの上に数点の端末があるほかは、すっきりと片付けられた無駄の無い部屋だった。部屋の主はカテドラルのような長窓を背景に、ゆったりと椅子に腰掛けてチェルトを待っていた。
ハリアー・レジアス。グランビア大学の教授だ。
余裕のある態度から向けられる鋭い瞳が冷たく感じられ、チェルトはつい目をそらしてしまう。
ハリアーが動いた気配がした。
「受け取りたまえ」
言われて視線が言葉を追う。ハリアーの手元に分厚い本があることに気付いた。
「……え」
アンティークな装飾に目を奪われる。同等の大きさの辞書だってメモリーチップに入る時代だ。スマートさを好むハリアーに相応しくない。
一体これはどういう意味なのか。困惑を隠せず、ハリアーを見返した。
「君に渡すよう頼まれていた。アヴァンシア教授のものだ」
ハリアーの言葉に息をのむ。チェルトの意識はすぐに嫌悪へと変わった。
「なんで……今になって!!」
本はこちらへ差し出されている。だがチェルトは手を出さない。出せなかった。言いようのない怒りに震える手を押さえるので精一杯だった。
気付かれているのだろう、ハリアーは、ふん、と鼻で笑って本を机に置いた。
ハリアーはこういう芝居がかった所作がいちいち似合う人物だった。シルバーの髪に紫に近い薄青の瞳。涼やかな目元に気取った口調が似合っている。ストライプの洒落たスーツを銀幕のスターのように着こなしていた。
ハリアーが再び口を開く。
「むしろ今しかないとも言える。君は17歳という若さで助手を得て、研究の道へ入った。例の事件は大いに研究のしがいがあると思うがね」
「冗談でしょう……調査も終わってる、あれはただの事故です。もうとっくに終わったもの……です」
「君は知りたくはないのかね。コンチェルト・アヴァンシア君。父親の事故の原因を」
「もう、5年も前のことです。いまさら……思い出したく……ありません」
ストラップに下げた職員用のIDカードが、身体の緊張を伝え僅かに揺れる。
うつむきながらも睨み付けたハリアーは、憎らしいまでに涼しい顔をしていた。
ハリアーは落胆したようにため息をついてみせる。
「君は矛盾している。思い出したくないというならば、なぜ君はここにいる?なぜアヴァンシア教授が世に送り出したマナプログラムを研究し続けている?」
ハリアーが椅子から離れ、机を回ってチェルトに近付く。すらりとした長身に近付かれ、チェルトが半歩下がった。
ハリアーの手が余計な所作なくのばされ、はっとする間もなくIDカードをつかまれる。
「認めたまえ。君は知りたいはずだ」
「調査結果は……見ました。……修復し組み立てた古代のマナプログラムを展開、実行したところ予期しない高エネルギー状態になり周囲の物質を破壊。暴走した原因は定かではないが、マナプログラム修復時に書き換えなどの……ミスを」
「君は大学のスポークスマンか」
再び鼻で笑い、ハリアーが続ける。
「彼ほどの技術者がそんな初歩的なミスをするなど君も考えてはいないだろう。そして、……君は、推理ドラマは好きかね?」
「……どういう、意味です」
唐突に話題が変わり、チェルトが怪訝な顔になる。
いつの間にかチェルトのIDカードはハリアーの指先から解放されていたが、チェルトがそれに気づいたのは問い返してしまった後だった。
「考えても見たまえ。彼は「跡形もなく消え」たのだ。血液の一滴も残さずにね」
「……」
「事故後行われた調査の焦点はエディックス・アヴァンシアの痕跡を探すことに置かれていた。言ってしまえば、探し物は……死体」
しまった、とチェルトは思った。ハリアーの戦略だ。
影を縫い付けられたように、チェルトは動けなくなっていた。鼓動を、震える呼吸を悟られないよう、細い身体に力が入る。
聞きたくない、しかし動けない。
言葉が出ないチェルトにハリアーが続ける。腹立たしいことに、すこし優しげな口調で。
「だが、……私は彼が――……エディックス・アヴァンシアが……――死んだとは、思っていない」
は、と息を吸い込む音が響いたように感じて、チェルトが身を震わせる。自分の呼吸音に、それ以上にハリアーの発言に驚いた。
「……なぜ、です」
「完全に死体を消すのは不可能に近い。他殺であろうが自殺であろうが、事故であろうが変わらないだろう。それに、彼が最後に何をしていたかは、全くわかっていない。私はそこに何かがあると思っている。私は……君にならそれがわかると思っている」
「そんな……」
「いいか、君は最高のマナ技術者だ。君ほどに自在にマナプログラムを読み解き描ける者はいない」
ハリアーがすぃと動く。
本が無理やり手渡された。不気味なほどに重く感じた。
「この中には事故が起きた研究施設の詳細が記録されている。最奥の部屋に彼はいた。調査で回収された遺物の総量は私が最後に見たものの半分にも満たない。まだ内部には何か残っているはずだ。場所はわかるな」
「私は……」
「彼は「ゲート」と言っていた」
トーンを抑えたハリアーの言葉が、チェルトを黙らせる。
「あの日あの場所で私が聞いた最後の言葉だ」