その7
「その目にどのくらい見られておったか、わしには定かに判じられなんだ。ほんのつかの間じゃったろうが、わしには永遠とさえ思えたのじゃから。やがてそれがいうたのじゃ。おまえは見たのじゃなと。静かな、低い声じゃった。
畏れに竦んでおったわしの目に、先ほどの光景が戻ってきた。ようようわしが頷くと、相手はわずかにその目を伏せた。そしてこう呟いた。魔法が栄えた上古の時代、あの者に施された守護の術に自分はついに及ばなんだ。それが呪縛と化したとき、解いてやれなんだのが不憫じゃとな。
姫様のことじゃと思うたら、わしは無性に切のうなった。その言葉が、声が姫様によせるそのものの思いを伝えてやまなかったから」
でも吸血鬼なのでしょう? と女の子がいうと、おばあさんは頷きつつもいいました。
「わしもそのとき初めて知った。そういうものにもやはり思いはあるのじゃと。あれらなりにということじゃがの。それでわしはおずおずと訊いた。昔の姫様のことを。すると黒衣の乙女はこういうた。おまえはあれを見た。自分すら見なんだものを。だから教えてやろうとな。そして白き魔性は語り始めた。
長い、遙かな話じゃった。なにしろ千年に渡る話じゃ。だからそのまま話すことはできんが、そも千年の昔、この森の若かりし頃、大陸には数多の魔法王国がひしめき相争っておったという。大が小を貪りつつ膨れ上がり、ついには大陸の形が変わるほどの大乱の果てに人間たちの数も力も大きく減じることにもなった、そんな時代のことじゃとな。
いまだ若き小さな森に、森の民の国があった。黄金の髪と緑の瞳は彼らの証じゃったという。されど砂漠の黒髪の民ははるかに強大な国を築き、森の民を脅かしておった。そんなさなかに姫は生まれた。森を守り星として。父王は姫と国の行く末を憂い、森の奥の白銀の塔に姫を秘し守り星たる森の力にて国を覆う結界を築いた。黒髪の民には無人の荒れた森とばかり見えるよう。姫は護国の人柱とされたのじゃ。森の中で危難に遭えば、白銀の塔は瞬時にその身を引き戻す。守護の塔の守りは堅く、白き魔性すら破ることはかなわなんだとな。
されどそのとき、姫は気づいておったという。その身が二重の籠に囲われた鳥にすぎぬのを。そも黒衣の乙女に出会うたのも、自由に焦がれ塔から逃れ出たときのことだったのじゃと。
やがて父王が崩御され、弟の王子が即位した。そのとき初めて新王は、秘された姉がおることを知ったのじゃ。姫の憂いに弟は憤り、人柱の身から姉を解放するにはかの大国の脅威を除くしかないと一途に思うてしもうた。されど奇襲頼みの戦の結果、城は巨大な雷に打たれ崩れ落ち、幻術破れた森の民はなすすべもなく蹂躙された。それでも塔にかかりし魔力は、姫が落ち延びるのを許さなんだ。白銀の塔は獄舎と化してしもうたのじゃ。
事ここに至り、姫は塔の守りの魔晶石を侍従たちに持たせ送り出し、自ら白き魔性を呼び寄せたという。敵の手に落ち嬲り殺しにあうよりも、風の中をさすらう身の自由に焦がれた相手の牙にかかることを望んで。そして骸を塔の地下に封じるよう頼んだという。死せる身で起きあがったとて、一昼夜を暴かれずにすめば魔性への転生は免れるのじゃから。
黒衣の乙女は約束を守った。されど白銀の墓所を暴いた砂漠の民の王を贄として、姫様は転生を遂げてしもうた。そして地下で転生したがため、その身は陽光に耐えぬものとなった。それゆえ森もまた守護の定めに従い、陽を通さぬ魔性のものとならざるをえなかったのじゃ。日に当たればその身は崩れるが、夜がくると不死の定めゆえ激しい渇きのただ中に復活する、そんなものへと堕ちてしまわれたのじゃから。
それでも死んで転生した以上、姫様自身に煩悶の種など残らぬはずじゃったという。死なぬうちに転生したのでさえなければ、全ての記憶は残らぬはずじゃったから。にもかかわらず、姫様の身に施されたあまりに大がかりな術式ゆえ、ひとかけらの記憶が残ってしもうた。かつて自分が日を浴びた森で花を摘んでおった光景が。他のことはなに一つ残らなんだにもかかわらず、それは自分が本来このようなものではなかったことを証だてずにはおかなんだ。私は誰だったのか、何者だったのかとの答えなき問いに呪縛され、緑の闇をさすらうばかりじゃったとな。それは数多の村や町や国を呑み込みつつ闇の森がじわじわ広がるに至っても、果てしなく続いたというておった。
白き魔性はそれを憐れみ、何度も記憶を消したそうじゃ。かの者からすれば、転生した身に自然なあり方へ姫様を戻すのがただ一つの解決だったのじゃから。けれど幾たび繰り返しても姫様は記憶を取り戻した。だから諦めるしかなくなり、そのままにしておったのじゃと。
すると姫様は思うようになったそうじゃ。もう一度人間として振る舞えないだろうかと。森の守護がおよぶところにおる限り、血への渇きが減じられておったのがそんな思いを招いたのじゃとな。この村に闇の森が迫りしときの、それが姫様だったというのじゃ。そんな姫様になぜ忌み子の若者が応じたのかは、黒衣の乙女も知らぬというておった。白き青年とは関わりがなかったゆえに。だがそれが姫様の来し方だったのじゃ。あの幸せの光景の、それが真相だったのじゃとな」
かの者の呟きの、それが意味だったのだというおばあさんに、あまりにも思いがけないその話に、女の子はもはや言葉もなく、ただ呆然とするばかりでした。