その4
「二人がそうしておるのを、わしは飽かずに見上げておった。身を隠しておったわけではなかったから、こちらさえ向けばわしのことは見えたはずじゃ。だが二人は夢中じゃった。一瞬たりとも互いから目を離さなんだ。そのうち子ヤギがもぞもぞしだしたので、わしは村に向かって歩きはじめた。邪魔してはいかんと幼いなりに思うたでの。
少し離れて振り返ったときも、二人は丘の上じゃった。一晩中ああしてあの場所におると思うたら、なにやらわしまで嬉しゅうなった。あんまり幸せそうじゃったから、気分にあてられてしもうたのじゃろうて。そんな心地で沼地を抜け、わしは村の裏門にたどり着いたのじゃ」
少しおどけたおばあさんの声が、涙の帳の向こうから聞こえてきました。つられて少し笑ったものの、おばあさんの思いやりが胸に迫り、涙が引っ込んでくれません。だから再びおばあさんが話し始めたのは少し時間が過ぎてからでした。けれどそのとき、おばあさんの口調には苦いものが混じっていました。
「……もしもあの裏門で誰にも見つからなんだら、二人のことをいうたりせなんだら、その後のことも変わっておったはずでは。何度そう思うたかわからぬ。だがあのとき、わしは母さまに見つかった。そして怖いものがおるから夜に村を出てはならんと叱る母さまに、怖いものなどおらなんだ、きれいな人を二人見ただけじゃというてしもうた。
母さまが悲鳴をあげた。やってきた父さまたちの顔が鬼のようになった。そんな怖い顔の大人たちを見たことがなかった。自分の言葉が引き起こした恐ろしい変化に動転するばかりじゃった。それが怖れに追いつめられたものの顔などということは、むろんそのときわからなんだが、それでも漠然と感じておったおかしな様子の底が抜けてしもうたのは、いやというほど感じた……」
そのあとどうなったのかと女の子は訊ねましたが、おばあさんはかぶりを振りました。
「母さまに家の中に連れ込まれてしもうたから、この目で見たのはそこまでじゃ。だが母さまの脅えに加え、家の外を男衆が走り回るわ怒鳴りあうわの騒ぎでは、わしも生きた心地がせなんだ。わけもわからぬまま、脅えうろたえるばかりじゃった。
そんなまま夜が明けたとき、父さまの姿は見えなんだ。戻ってきたのは夜も遅うなってからじゃった。どんな目に遭うたのか、顔が蒼黒くなっておった。そして興奮した様子で、白い忌み子は退治した、姫も針鼠になるほど矢を射かけてやっと退散させたというたのじゃ。
びっくりしてわしは泣いた。母さまがなだめても泣きやまなんだ。しまいに父さまの癇に障り、わしはとうとうぶたれてしもうた」
そんなのひどいと女の子がいうと、仕方がなかったのだとおばあさんは応えました。
「なにしろわしの見たものを誰も見てはおらんのじゃ。そのうえわしも小さすぎてちゃんと話せなんだのじゃから。そんなことになったおかげで、わしももう誰にも話さぬようになった。だから二人のあの光景は、わしだけの秘密になってしもうた。
その後聞かされた言い伝えは、わしの受けた印象とあまりにもかけ離れたものじゃった。それを皆のように信じるには、もはや手遅れだったのじゃ。あの幸せの情景はあまりに深くわしに根をおろしておった。ただただ悲しかった。あれが砕かれ、のうなってしもうたということが。それはわしの初めての、なにかをなくした体験じゃった。そしてあんなに小さかったのに、なんとなく皆としっくりいかん気がするようになってしもうた……」
おばあさんの話を聞きながら、女の子はふと思いだしました。村人たちのおばあさんに対する、なんだかよそよそしい態度を。村長はいずれ村で暮らすよう勧めてくれましたが、今から思うとあれはおばあさんといっしょにというのではなく、一人になってしまったらという話のようでした。気だてがいいと誉めてくれた村人にもそういえば、おばあさんを難しい人だといっていた人が確かにいました。そこまで思い出したとき、女の子は気づきました。5年前おばあさんに引き取られることになったとき、自分が怖がっていたことを。実際に会ったおばあさんが優しかったので今まで忘れていましたが、出会う前は確かにおばあさんのことを怖いと思い込んでいたのでした。なぜだろうと思いかけたとき、おばあさんの声が聞こえてきました。話を少し聞き落としたのを悟り、女の子はあわてて注意を戻しました。
「……その後は誰一人、姫様の姿を見たものはおらなんだ。ただ森だけが、じりじりと村へ迫りくるばかりじゃった。姫様がおる限り闇の森はどこまでも広がり、果てはこの大地を覆い尽くすといわれておった。皆の怖れはいや増すばかりじゃった。
やがてわしの背が少し伸びたころ、旅の勇者たちが村へやってきた。そして姫様を討ち滅ぼし、村を呑まんとしておった森から魔性の闇を祓ったのじゃ」