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その3

「あの宵の月は、それはそれは大きかった。煌々と輝く月の光は荒野をあまねく照らし、迷子の子ヤギの姿が影に溶け込むのさえ許さなんだ。だからわしもそのイタズラ坊主を、苦もなく捕まえられたのじゃ。

 怖いなどとは思わなんだ。なにせ辺りも明るかったし、無事に子ヤギも捕まえたでのう。あとは村まで連れて戻れば叱られたりせんはずじゃったから。そもそも村の衆の様子は変で、子ヤギがおらんようになったことにも気づかぬほどだったのじゃ。むろん小さかったわしに、森に脅える皆の気持ちを想像できようはずもなかった。

 村へ急ぎながらも、わしはほっとしておった。だからだったのじゃろう。荒野の村寄りにある小高い丘まで戻ったとき、いつの間にか人影が2つ丘の上で向き合っておったのに、さして驚きもせなんだのじゃ」


「それが姫と、白い忌み子……」

 つぶやいた女の子に、おばあさんは頷きました。

「むろんそのときは、そんなことなど知らなんだがの。ともあれ幼かったわしには、この目で見たことがすべてじゃった。それがたいそう美しく、幸せそうだったことだけが」

 再びおばあさんのまなざしが、いずことも知れぬところへ向けられました。


「冴え冴えとした月の光が姫様の髪に散乱し、二人は金色の光に淡く包まれておった。更けゆく宵闇のなか、そこだけ陽がさしているようじゃった。わしに魔性を感じさせなんだ、確かにそれも理由の1つではあった。

 だが、なにより大きかったのは表情じゃった。かたや黄金の髪と緑の瞳の丈高き美姫。かたや色素を欠いた白き髪と赤き瞳持つ痩身の若者。容姿も顔立ちもまるで違っておるのに、顔に浮かぶ微笑みだけは同じじゃった。合わせ鏡でも見ておるように思うたほどじゃ。いちばん優しいときの母さまにしか見たことのない、慈しみに満ちた微笑み。それが互いに映り合い、なんともいえぬ幸せな空気を醸し出しておった。丘の下から見上げておったわしまで胸が暖こうなったほど」


 女の子の瞼にも、亡くなった母親の面影が浮かんでいました。もう夢や記憶の中でしか見ることのできない、この上なく優しい笑顔でした。失ったことで思い出の中で純化された、かけがえのない微笑でした。おばあさんが見たのもこんな笑みだったのだろうかと思ったとたん、瞼がうるみ面影が溶けそうになりました。あわてて涙をこらえつつ、ただ二人で立ってただけなんて変よと女の子は精一杯おばあさんに強がっていいました。おばあさんはその顔をあえて見ないように女の子を抱き寄せ、背中をなでてくれました。

「むろん立ってただけではなかったぞ。いささか離れておったで最初はようわからなんだが、言葉を交わし合っておった。だが、話をしていたわけでもなかったのじゃ」


 おばあさんは女の子の両肩に手を置くと、とまどったおかげで涙の引っ込んだ顔を見つめていいました。

「まず姫様が自分の冠を指さした。髪止めのような銀の輪っかの冠じゃった。正面に赤い宝玉が1つはめ込まれておった。

 白子の若者が冠といった。すると姫君も繰り返した。耳慣れぬ発音と抑揚じゃったが、たしかに冠とな。

 次に指さしたのはマントじゃった。群青色の身の丈ほどもあるマントじゃった。若者がマントというと、姫様もまたそれを繰り返した。

 そんなふうに互いに身に着けているものや、果ては森や小川や月までもがそれに続いた。白い若者は姫様に言葉を教えておったのじゃ。わしはたいそう幼かったから、母さまに言葉を教わったときのことをまだ覚えておった。今はもう忘れてしもうたがの、そのとき自分が覚えておったということだけはよう覚えておる。母さまとそうしておったときの、嬉しくて幸せな気分も。

 だから幼いながらも感じたのじゃ。二人にとってそれが大切なことじゃとな。抱き抱えておった子ヤギにも鳴かぬようにいうたもんじゃった」


 女の子も思い出そうとしましたが、母を亡くして何年もたっていたので、もうはっきり思い出せませんでした。覚えていないというそのことが悲しみを募らせ、かえって大切なものだったとの思いをかきたてたのでした。そして自分で見たわけではないその情景を瞼に思い描くというよりも、とうにいなくなった二人への憧れとも羨望ともつかぬ気持ちを通じてそのかけがえのなさを、いとおしさをじかに心で感じたのでした。こらえきれなくなった涙がぽろぽろこぼれました。自分を見守ってくれるおばあさんの顔がうるんだ視野に溶けてゆきましたが、女の子にはもう、どうすることもできませんでした。


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