第九回
泊瀬の杜は禁域である。
一つには、蒼の宮が存するための警固上の理由だ。
もしも許可なく森の中に立ち入っているところを発見されれば、容赦なく捕らえられ、厳しい詮議を受けることになる。その結果として君に害意無しと認められても、なにがしかの処罰を受けるのは必至である。
そして法の咎めがあろうとなかろうと、ただの良民が足を踏み入れることはない。たとえ朝議に参じる資格を持った高官達といえども、表通りと宮門とを繋ぐ参道を行き来するのみである。
その故は如何に。
この一帯は古来、神が降りると伝えられる聖地なのだ。いわば現世と隠世とが重なる境界であり、不心得な俗人が迷えば忽ちにして魂を散ずると恐れられている。
そのような泊瀬の杜の深く、宮門の裏手に当たる場所だ。あるいは神を斎くという意味では、むしろこちらこそが表かもしれない。
およそ人の姿などあるはずもない塀の外から、こつこつと拳を打ちつける音がした。
しかし番についていた涼白が、すわ盗賊か妖魔の類か、などと驚き怪しむことはない。
「何者か」
威圧するかのごとき強い調子で誰何する。
「千真でございます。お召しにより参上しました」
外から返された声は、優美な名の響きにも似ず低く掠れていた。涼白は忌々しげに息をつくと、重い閂を持ち上げて潜り戸を開けた。
使い女らしき者が身を屈め、狭い入口を通り抜ける。地味ながら上等な衣を纏い、顔は笠で隠している。
涼白は入れ違いに戸の外に身を乗り出し、不審な気配がないかを確かめた。蒼の君に直に従う者のみが知る踏み分け道だ。余人の姿があっては事である。
「異常は?」
涼白の問いに、千真なる仕え人は深く笠を被った頭を左右に振った。
「本当だろうな。もしあんたのヘマのせいで奥宮にちょっとでも被害が出たら、骨の一本や二本じゃ済まさねえぞ」
身の丈六尺(181.8センチ)、目方十八貫三百匁(68.6キロ)の女傑が気迫を込めて念を押す。並の男兵が相手であれば、鼻歌交じりに蹴散らせる武勇の持ち主である。ましてただの女官風情なら張り合えるはずもない。
恐れ入りました、というように千真は腰を低くする。
涼白はなおも不満そうに睨みつけた。
「清乃が待ってる。来い」
肩をそびやかせながら踵を返す。千真も大人しく後に従う。
途中でほとんど誰とも擦れ違わないまま殿舎まで辿り着く。ことさらに身を潜めた結果ではない。そもそも奥宮には人影が希薄である。
「ようこそ。お待ちしておりました」
濡れ縁に座していた女官がたおやかに頭を下げる。慎み深い様子ながら、千真へ向けるまなざしには心からの歓迎の意が表れている。
それが涼白にはかえって不満であるらしい。
「清乃、くれぐれも気をつけろ。私はずっとここで控えている。こやつが少しでも怪しい動きを見せたらすぐさま呼べ。必ずや不埒な真似に及ぶ前に駆けつけて叩き出し、いやその場で叩き潰してくれる」
目の色が本気である。もし許されるならいっそ今すぐここで、と思っていかねない。
「ええ、頼りにしています。では千真様、参りましょう」
荒ぶる涼白を清乃は軽く受け流した。千真に手を差し伸べる。
千真は助けを借りることなく縁に上がった。清乃は残念そうに己の手に息を落とした。
「千真様は誇り高いお方ですものね。手をお貸ししようなどと考えたわたくしがあさはかでしたわ」
清乃が嘆いても千真は黙したままである。笠に隠されて表情も窺えない。
清乃も気落ちした様子を引き摺ることはなく、身軽く腰を上げると千真を先導して歩き出した。
涼白の傍にいる時こそ際立たなかったが、清乃と比べると千真も相当の長身だった。腰の立った姿勢の良さと、足元の滑らかさは、廊下を行く二人に共通している。しかしあくまで淑やかな清乃に対して、千真の歩みは力強い。
やがて清乃が足を止めたのは、御座の間の前だった。他ならぬ蒼の君の居室である。
「御君、お客様が参られました」
清乃が襖の前に膝をつく。
「兄様!」
途端、部屋の中から女が勢いよく飛び出し、千真めがけて飛びついた。
千真の被った笠が跳ね落とされる。あらわになった面は、美形ではあるが到底女には見えない。麻太智である。
片や抱きついた女はといえば、午前の朝議で仲立ちを務めていた女官に間違いない。