第八回
再び鈴の音が届く。だが今度は女官の手によるものではなかった。
響きもまるで違っている。
あたかも御簾の内より清らかな風が吹き寄せたかのように、参内した者達の心を柔らかく惹き付ける。
常の人ならぬ蒼の髪と蒼の瞳を持つという貴き君が、俗界の者どもと意を通ずるために用いる天の鈴だ。
「君の仰せである。申し伝えたき儀がある者は、ありのままに申し述べよ」
鈴の合図を受け、女官が壇下と御簾の奥との仲立ちとして言葉を繋ぐ。
殿上人達を前にしながら些かの臆する色もない。普段は奥宮にあって君の側近くに仕える高位の巫でもあるのか、壇上から見下ろす漆黒の瞳は怖いほどに澄んでいる。
「蒼の君に申し奉ります」
御簾に最も近い位置に座す初老の男がおもむろに進み出た。
太政大臣の西園寺有恒だ。人臣の最高位にあり、かつ地位にふさわしい実力を備えると目される重鎮である。
「天の下は平らかに安らぎて、民は日々を健やかに営んでおります。今も末も蒼の国は弥栄に恙なく」
慣例に従った非の打ち所のない言上だった。しかしただそれだけだ。もはや全てを伝え終えたというように、西園寺は元の座に戻る。
居並ぶ者達の間で幾人かが身動ぎをする。
西の地の変事の「噂」が、この老獪な人物の耳に届いていないとは考えづらい。にもかかわらず話頭に上せる気振りもないのは、一体どのような存念によるものか。
少なからぬ関心が麻太智へと寄せられる。荒城殿には物申すことあらずや、そう考えているのに違いない。
だが西園寺を憚ってか、実際に口を開く者はなく、当の麻太智も沈黙を保つ。
「諸卿、何事か」
御前に生じたさざめきを女官が咎める。続いて御簾の内からも鈴が二度鳴らされた。
「君は御不審であらせられる!」
女官は語勢を強めた。
「太政大臣、あるいは余の者でもよい、君の治に障りとなること有りと思わば忌憚なく申せ。諫言なりと禍言なりと苦しゅうない。真率なるこそ忠の道である」
再び西園寺が前にいざった。
「申し奉ります」
大臣の挙措には髪の毛一筋の乱れもなく、あくまで恭謙な態度でありながら、同時に重々しい威厳を纏っている。
「天の下は平らかに安らぎて、民は日々を健やかに営んでおります。今も末も蒼の国は弥栄に恙なく」
針が落ちるのも気付けるような静寂が、堂上に落ちかかった。
──侮られた。
女官がそのように受け取ったとしても不思議はない。
気位の高そうな秀麗な顔立ちからは、もはや怒りを発することさえ忘れたかのように、表情が白々と抜け落ちている。
鈴が鳴った。
天の鈴だ。
人の世を超脱したかのごとき澄んだ音色が、緊迫した場を通り抜ける。
女官は己の立場を思い出したようだった。ゆっくりと息を整える。
「……これにて今日の朝議を閉じる。蒼の君、御退出」
自らが手にしている鈴を短く二度振った。一堂が平伏し、御簾の内側で微かに人の動く気配が生じて、やがて消える。
「位の上下は問わぬ。君に奏上すべき由のある者は、随時取次役へ申し出るように」
女官は淡々と告げると背を向けた。去り際に深い視線を向けた先は、間違いなく麻太智の面上だった。