第四十回
額に汗が滲む。恵は息をひそめるようにしてもう一度左右に視線を向けた。
だがやはりあの化物の姿はない。
するとただの気のせいだったのか。
あんな物凄まじい体験をしたあとだ。獣の鳴き声が、木霊のように耳に残ったとしても不思議はない。恵は自ら納得すると肩の力を抜いた。
「わっ?」
何かが足に触った。痛くはなくて、むしろくすぐったいという方が近い。ともあれ正体を確かめようと下を見る。
「ネズミ……?」
まごうかたなきネズミであった。どこにでもいるようなごく普通の大きさで、特にこれといった特徴も――あった。
尻尾が短かい。まるで半ばから千切れてしまっているかのようだ。
そしてふと少し先の地面を見れば、まさにその残りの半分らしきものが落ちていた。すぐ脇に刺さっている鉈は、さっき文音が大ネズミを狙って投げた物だ。
「じゃあ、もしかして、この子はさっきの」
恵は半信半疑で手を伸ばした。
“チュッ”
ちょっと指先でつついてみるだけのつもりだったのに、ずうずうしくも手に乗ってきたネズミを恵は瞬間ぶん投げたくなったが、ぐっと堪えて目の前に持ち上げる。
禍々しい赤い眼などではない、小さくてつぶらな黒い瞳が恵を見つめる。
悪意や邪気は感じられない。当り前の生あるものの光があるだけだ。
「恵、そいつは……」
立ち上がった豪太が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「ぼくにも分んない。けど……あ、こらっ」
豪太を警戒したのか、ネズミは恵の手から飛び降りて走り出した。




