第三十回
「……む……ぐむ……めぐむってば!」
強く肩を揺すぶられ、恵は大きく目を見開いた。深雪が心配そうに顔を寄せている。
「恵、もしかして辛いことでも思い出しちゃった? だったら今日はもう戻ろ。そのうち気持ちが落ち着いた頃にでも、また都合付けてくればいいじゃない」
「みゆきちゃん……本当に、あれって」
深雪の言葉はほとんど耳を素通りしていた。頭が混乱している。過去は既に失われ、取り戻せたのは漠然とした心象の断片だけだ。それでもただの夢や空想として退けてしまうことはできなかった。
胸の真ん中に手を当てる。ちっぽけな鼓動が拍を刻む。母の声は聞こえない。深い眠りについているのだろうか。それとも最初からいはしないのか。今の恵に知る術はない。
しかしなお確かに存在しているものがあった。己の最も奥深く、恵と世界とが結び付く始まりの極点で、それが震えた。
(来るぞ)
疑問を感じるより先に、恵は背に負った剣の柄に手を伸ばしていた。そして一挙動で抜き出す。驚く深雪を押し除けるようにして洞窟の外に向かう。
周りを覆う森の中で、不自然に大きく枝が擦れる音がした。
「気をつけろ。何かいる」
豪太が緊張を孕みつつも落ち着いた調子で警告する。腰に下げていた長大な山刀を取って両手に構える。
「恵、大人しく引っ込んでろとは言わん。だが絶対に勝手に飛び出したりはするなよ。剣は防御のためだけに使え。まずは自分の身を守るのが第一、仲間を守るのはその後だ。危ないと思ったらすぐに逃げろ。いいな」
「うん、分ってる。でもごうくんも同じだからね」
豪太は返事をしなかった。おそらく恵達さえ無事なら自分は怪我をしても構わないと考えている。
だがそれでは駄目だ。ここまで仲間達を引っ張り出してきたのは恵だ。だから皆を無事に帰す義務がある。
だからといって犠牲になるつもりはない。打ち身擦り傷ぐらいまでは覚悟する。少しぐらい痛くても、最後に笑っていられればいい。
祈りを込めるように恵は剣の柄を握り締めた。
「猪でも来たかな」
獣の匂いが流れてくるのを探ろうと文音が鼻をひくつかせる。
「でもそれにしちゃ生臭過ぎるような気が……ん?」
ひときわ大きく下草が揺れた。間を割って黒く尖った口吻が突き出される。
“チューーッ”
獣の獰猛な唸りとは似つかない、甲高い鳴き声が上がった。
「あはは、なんだネズミかよって、うわ、でかっ!」
文音は頬を緩め、だが次の瞬間身を仰け反らせた。




