第二十五回
「恵、この馬鹿に腹を立てるのは分るが、一人で山に入るような真似はやめておけ。何かあってからでは遅い。文音、目的の場所は遠いのか?」
「……いてて、少しは加減しろよ、頭が割れたかと思った。まあ、そんな遠いってほどでもないけど近くもないかな。順調に行って二刻(四時間)ぐらい」
地面に座り込んだ文音が殴られた部位をさすりながら答える。
「ならばこのまま行くというわけにはいかんな。いったん家に帰って準備してからだ」
もっともな提案だった。だが恵は少し困った顔をした。
「でもわたしおじいちゃんに知られたくない。絶対心配するっていうか、許してくれない。下手すると家に閉じ込められちゃうかも。だから」
他の人達には内緒にしてほしい、という言葉は呑み込む。恵が祖父の言いつけを破るのに加担するよう、皆に頼むのも同然だ。自分一人が怒られるだけでは済まなくなるかもしれない。
豪太は恵の葛藤など承知の上といったふうに頷いた。
「もともと俺と文音は山に入ることになっていたからな。恵は手伝いについて来ることにすればいいだろう。実際仕事もある。深雪はどうする」
「あたしもそれでいいわ。豪太と恵が一緒って言えばうるさく訊かれたりもしないし」
「では支度ができたら境石に」
ばらばらに別れた後、再び集うのが一番遅れたのは豪太だった。この場所からだと最も家が遠いというのもあるが、色々と用意をしていたらしい。
「すまんな。待たせた」
背中に竹籠をしょっているのは文音も同様だ。しかしあっちがほとんど空っぽなのに比べ、こちらは中に複数の道具類が収まっている。
また文音が腰に下げているのは普通の鉈だが、豪太は長大な山刀を吊るしていた。恵ではやみくもに振り回すのさえ難しいだろう。しかし豪太の力と腕前なら猪だって一撃で仕留めてしまえそうだ。
「ごうくん、それはぼくが自分で持つよ」
恵は籠から突き出している物を指差した。例の錆び剣である。祖父母に見られると差し障りがありそうなので、ここまで運んできてもらったのだ。
「文音、取って渡してやってくれ」
「はいよ。お、鞘が付いてる」
「有り合わせで適当に作っただけだがな。ただ帯に差すよりは大分ましだろう」
革鞘に紐を通して、胸の前で結べば背中に負えるようにしてあった。簡素な細工だが、兵が戦に赴くわけではない。当座の実用には立派に役立つ。
「ありがと、ごうくん、嬉しいな!」
恵は瞳を輝かて早速身に付けた。紐の長さも計ったようにぴったりだ。
「余り前屈みにならないようにしろ。鯉口が緩いから簡単にすっぽ抜けるぞ」
「うん、気をつける。見て、みゆきちゃん、かっこいいよね!」
深雪は渋い気色である。
「女の子がそんな物で喜ばないの……首飾りとか腕輪ならともかく、いくら手作りだからってそんなのちっとも羨ましくなんかないんだから」
途中から独り言になっていたので本人以外の耳には届かない。
境石は文字通り里と山との境を画している。だが先端が丸く膨らんだ腰ほどの高さの棒状の石が道の脇に立っているばかりであり、関所のように越えるのに苦労や手続きがいるわけでもない。普段はろくに存在を意識することさえもない。
「あっ」
だがそこを過ぎる瞬間、恵は声を上げていた。体の中心を鋭く射貫かれるような心地がしたのだ。
単に痛いというのとは違う。自分を覆っていた膜が破れて、外の世界の事物が身の内側に直接触れたような熱さがあった。
「どうかしたの、恵?」
隣を歩いていた深雪が、急に足を止めてしまった恵を気遣う。
恵はまずは落ち着いて深呼吸をした。山の清涼な気が流れ込み、血と混じり合って隅々まで巡るようだ。違和感はすぐに消えた。
「ううん、なんでもない。ただの気のせいだったみたい」
「そう? 体調が悪いとか足が痛いとかあったら、無理しないで早めに言ってよ。後になるほど大変になるんだから」
「分ってる。心配してくれてありがとね」
「よお、何してんだよ。こっちだぞ」
前を行く文音が振り返った。別れ道ともいえないような、森の方へとわずかに下生えが途切れている辺りだ。
「こっちって……」
小走りになって追い着いた恵は覚束なげに呟いた。ぱっと見た限りでは周囲の景色と大差ない。樹木の種類が異なるわけでもなければ、珍しい草が茂っているわけでもない。なのにやけに緑が濃いように映る。
「ねえ豪太、大丈夫なの?」
深雪が案じ顔で尋ねた。
「この方角って北東だと思うんだけど。だとするとさ」
「禁域に入ることになるな」
豪太は肯定した。
会生の里ではもっぱら山の幸によって暮らしを立てている。それだけに山に対する崇敬は深く、とりわけ北東の一帯は山祇の領る地として、狩猟や木を伐ることは元より、薪を取りに入ることさえしない。
「おれはわりと来てるけど今まで罰が当たったことなんてないよ。でも嫌ならわざわざ行かなくてもいいだろ」
どうする、と問う視線を文音は恵に向けた。豪太と深雪も答えを待つ姿勢になる。
「えと」
恵は身動ぎをすると、背中に負った剣の柄に指を触れた。
「行きたい……かも。大丈夫。たぶん。おじいちゃんとかにばれなければ」
深雪はため息をついた。
「それあんまり大丈夫って言わないと思うわ。文音の悪い影響かしら。でも今肝心なのは恵がどうしたいかだもんね」
異論は誰からも出なかった。




