第十七回
恵は顔を逸らすことさえできないままに、己に近付く死を見つめた。
「逃げろ、恵!」
いきなり強く体を突き飛ばされた。転げながら目の端で捉えたのは、斧を持った男が獣の前に立ち塞がる姿だ。
「恵、逃げるの! 早く!」
地面の上に四つん這いになった恵を女が背後に庇う。
どうして自分のいる所が分ったのかと、ことさら驚きはしなかった。
母だ。星がさやぐのを聞き、風がきらめくのを見る母が、恵の魂が揺らぐ場を感じ取ったのに違いない。
「とうさまっ! かあさまっ!」
母と父が来てくれたのなら怖いことなど何もない。
石のように硬くなっていた体が再び息をすることを思い出す。
恵は我知らず震えてしまうのに抗いながら、頼もしい助けの存在に力を得て振り返った。
──え?
獣が父に喰らいついていた。
漆黒の影に蔽い尽くされ、叫び声すら上げえずに崩れ落ちる。
呆然と目を見開く。意味が分らない。
厚く積もった落ち葉の上に倒れて、深い眠りの淵に沈んだように動かない父の体を踏み越え、黒く禍々しいものが近付いてくる。
「……ぐむ、めぐむちゃん!」
「あ……かあさま、とうさまが……」
有無を言わせず母は恵を抱き締めた。恐ろしい光景が遮られ、馴染んだ温もりにくるまれて、恵は全霊でしがみついた。
「めぐむちゃんはだいじょうぶ……だから安心してお眠りね。こわいことは全部わすれて……おやすみ、めぐむ……いつまでもしあわせなゆめを見続けられますように……」
かなしいかなしい夢を見た。
床の中に横たわったまま、恵は頬を伝う涙を拭った。
「今のって」
ただの夢、なのだろうか。それとも本当にあったことなのか。
既に夜は明けていた。恵は体を起こすと、冷たい水で洗うように両手で強く顔をこすった。朝の気に身を馴らすため、大きく息を吸って吐く。
山の中で地滑りに巻き込まれて両親は亡くなった。
恵はずっとそう聞かされて育ち、今まで疑問を抱いたことはなかった。全ては恵が眠っている間の出来事であり、だから何も憶えていなくても当然だ。
嘘、だったのかもしれない。
恵の心に傷を残さないための、優しい嘘。
ならば無理に真実を知る必要などはない。
もし祖父母や里の人達が何かを隠しているとするなら、それは誰より恵のためであるはずだ。
皆の気遣いを無にしてまでわざわざ恐ろしい記憶を掘り起こして、一体誰が得をするというのだろう。
(いつまでもしあわせなゆめを見続けられますように……)
恵を最も深く愛してくれただろう母が、最期に願ったこと。
「このままでいい、よね。だってぼく今幸せだもん。だからずっとこのままで」
──本当か?
胸の奥が波打った。声は頭の中で響いた。確かに昨日聞いたのと同じものだった。
──我が主よ、汝は本当に幸福でいられるか? 汝自身を知らぬままで?
やはりあの〈蒼の剣〉が語りかけているのだ、と恵は幼子のように信じ込んだりはしなかった。
たぶん正体は自分の心だ。山の中で拾った不思議な剣に託して、思いを言葉に移しているのに違いない。
「でも」
だとすれば、それこそ自分の正直な気持ちだということになる。
「よし。行ってみよう」
確かめるのだ。勇気を出して。