第十三回
「ただいま」
帰宅した恵に答える者はいなかった。よくあることだ。代々の里長の住む古い屋敷はむやみに広く、三人で暮らすには持て余す。
もうずいぶん日も暮れた今時分は、隅にわだかまる暗がりにふと吸い込まれてしまいそうな心細さを覚えたりもする。
「よいしょっと」
しかし背負い袋を土間に下ろした恵は昂っていた。桶に溜めてある水で手足の土埃を落としながら、「ふひひ」とひとり笑いを洩らす。
掌にはまだ文音の温もりがしっかりと残っている。
幼い頃は当り前にそこにあった。毎日のように手を繋いで遊びにいって、手を繋いで帰ってきた。
今も仲がいいことに変わりはない。恵にとっての一番はいつだって文音で決まりだ。けれど文音にとってはどうなのか。
「……またかっこ悪いとこ見られちゃったし」
本当は文音だって共に戦う剣士だったのだ。小枝を振るって見えない魔物と斬り結び、恵が危なくなれば我が身を顧みずに助けてくれた。
──ぼくとふみねちゃんが力を合わせれば、なんだってできる。なんにだって、負けない。
恵は本気で信じていた。たぶん、文音も。
あの頃の文音なら、恵が見つけた剣にきっと目を輝かせていたはずなのに。
「っていうか、あれってどういうものなんだろう」
豪太が首を捻るぐらいだから、古くて珍しい品なのは間違いない。だが型の特異さや骨董的価値の有無などは恵にはどうでもいい。
あの剣には不思議な力がある。小枝よりもずっと重いのに、非力な恵の手にも驚くほど自然に馴染んだ。それこそくっついて取れなくなるほどに。
けれど深雪にはそんな奇妙なことは起こらなかった。
ひょっとすると自分は特別なのではないか。伝説の聖剣に秘められた力を引き出して、自在に操れたりするのかも。もしもそうなら。
「ぼく、またなれるかな」
文音にとっての一番に。
「──何をぼんやりしとる」
恵はびくりと肩を震わせた。
恐る恐る顔を上げると、祖父がいつにもまして険しく眉間に皺を寄せていた。
「ずいぶん遅かったの。こんな時間までどこで何をしとった」
「た、ただいまおじいちゃん、ごめんなさい、すぐおばあちゃんのお手伝いするね!」
急いで手足を拭い土間から上がる。だがもちろん祖父はたやすくごまかされはしなかった。
「恵。儂が訊いてることに答えんか」
「はい……山菜採りの途中で遊んでた。今度から気をつけます」
ぺたんとその場に正座する。
「天堂の倅も一緒にか?」
「ううん、ごうくんはちゃんと真面目にやってたよ。ぼくが悪いの。ぼく……わたしが、一人で勝手にみんなと離れて、んあうっ」
石のように固い拳が頭に落ちる。衝撃に目の前がくらっとする。
「絶対に山の中で一人になるな。儂はそう言わんかったかよ?」
「うう……はい、言いました。ごめんなさい」
痛むつむじをさすりながら涙目で頭を下げる。
「仕方のない奴め。今度やりおったら土蔵の中に放り込むからな。三日は外に出さんぞ」
恵はひたすら神妙にする。祖父はやると言ったら本当にやる人だ。
「それで、なんぞ危ない目には遭わんかったろうな」
「へいき、怖いことは全然」
「怖いことは? 他はあったんか」
「えっと、それは……」
何やら珍しい剣を拾った。別に大したことではないはずだった。祖父は恵の身を心配しているだけなのだから、熊を相手に斬り掛かったとかいうのでもない限り、たぶん張り倒されたりはしない。
「どうした」
白い眉の下の眼光が威圧感を増す。
祖父に嘘や言い逃れは通用しない。それに恵が黙っていたところで、山で剣を見付けて持ち帰ったことは、豪太の父親からいずれ祖父の耳にも入る。内緒にしてほしい、などと今から頼みにいけるはずもない。
それでも恵は打ち明ける気にはなれなかった。
あるいは魔物と戦うための武器だったかもしれない物に、自分が触れたことは。
「恵」
恵は下唇を噛みしめた。物心がついて以来、一度も憶えのないことをしようとしていた。
「何があった。正直に言わんかい」
「や……」
やだ。面と向かって祖父に背く。
「あら恵ちゃん、おかえり。疲れたでしょ。もうすぐご飯できるからね」