第十二回
「よろしかったのですか?」
奥宮の裏戸へと歩く道すがら、清乃が麻太智に問い掛ける。先導する涼白の耳を気にしてだろう、囁くような小声である。
「何がだ」
麻太智も低く返した。なにしろ女装の身である。なるべく周りの注意は引きたくない。
「御君とお会いできる機会などそうそうは作れません。もう少しごゆるりとなさっても良かったのではありませんか? 人払いならわたくしがきっちりと務めましたのに」
「いつまでも戯れ言の相手ばかりはしておれん。君の七光の近衛大将といえども、公の仕事がある。堂上の交わりというやつもな」
「ですが本当に戯れ言なのでしょうか。晴花様は素直に気持ちを表されている──わたくしにはそう思えるのですけど」
「事実そうだとしても、ことさら俺に恋焦がれているわけではあるまいよ。宮に閉じ籠もる暮らしに飽き飽きしているだけだ。子供の頃は俺と一緒に野山を駆け回っていたようなやつだからな、きっと持て余した精力のはけ口を欲しがって──清乃?」
突然足を止めてしまった清乃に、麻太智は怪訝な視線を向けた。君に忠実な小柄な采女は、なぜかひどく赤面していた。
「まさか、ご存知なのですか? 晴花様がわたくしに、その、夜伽を……」
「うん?」
なにやら口をもごもごとさせているが、囁き声としてすら届かない。特に最後の方は麻太智には全く聞き取れなかった。
「おい、何をしている!」
だが改めて問い質す間はなかった。逞しい肩を怒らせつつ、涼白が二人の所まで戻ってくる。
「大丈夫か、清乃? さてはこやつが狼藉に及んだのだな。だが安心するがいい、即刻身ぐるみ剥いで外に捨ててきてやろう」
涼白は虎のように獰猛に舌舐めずりした。
「元より奥宮には女人しかおらぬのだ。おらぬはずの者がどうなろうと、誰も気にしはせん。あんたもそう思うだろう、千真よ?」
腰の太刀に手を掛ける涼白に対し、麻太智は当然素手である。しかも慣れず動きづらい女の着物姿、まともに戦うなら勝てるとしても、この場でやり合うのは条件が甚だ悪い。
「違うのです涼白! 麻太……千真様は悪くありません! これは御君の秘事に関ることなのです!」
しかし清乃が決然と麻太智を庇って割って入った。
「どうか時と場所を弁えてください。わたくしが御君に叱られてしまいます」
「……ちっ」
呪詛せんばかりの舌打ちを麻太智に放り、涼白は前に向き直る。
どれだけ麻太智のことを嫌っていようと、奥宮の警固役としての職務を疎かにはできない。裏戸にまで達すると、涼白は異常がないことを確認するため一人先に外に出た。
「千真様」
何やら思い迷う様子で清乃が切り出す。麻太智は黙ったまま笠の下から見つめ返した。
「実は、御君のお……」
しかし清乃はすぐに口を噤んだ。涼白がはやばやと戸を通り抜けて、武人らしい堂々たる体躯を現す。
「ぐずぐずするな、用が済んだのなら疾く出て行け!」
麻太智の着物の腰帯を掴んで突き飛ばす。
麻太智は清乃と目を見交わし、だが一瞬の後には扉が閉ざされ、閂を落とす鈍い音が耳朶を打った。
笠を被り直し、奥宮に背を向ける。
(蒼の君のお告げがあった)
清乃は確かにそう言おうとしていた。
今さら驚くことではない。
晴花はきわめて優れた、おそらく現世で最高の力を持った巫だ。彼女が神憑りするところを、麻太智も過去に幾度か目撃している。
問題はその内容だった。
つまらぬことかもしないし、恐ろしく重大なことかもしれない。
きっと麻太智に知らせるべきか否か、晴花も清乃も判断しかねるような、曖昧な事象に関ることなのだろう。それが何を意味するのか解釈するのがひどく難しい、そう、まるで雲を掴むような──。
先ほどの蒼の君との会話が蘇る。
「もしや蒼の剣か!?」
麻太智は思わず声を上げていた。
あらゆる邪と魔とを打ち破り、しかし御し方を誤れば遣い手のみか人の世をすら滅ぼす力を持った、まさに究極の諸刃の剣。
必要とされる時、そしてふさわしき持ち主が現れる時まで、それは何処とも知れぬ山中にひっそりと突き立っているという。
もしも麻太智が蒼の剣を振るう光景を、君が神憑りのうちに幻視したとすれば。
「この俺が救世の英雄、それとも全てを根こそぎにする破壊神というわけか……馬鹿馬鹿しい、笑える話だ。ははははは、はは……は、ん、んんっ」
考え事に沈むうち、いつのまにか泊瀬の杜を抜けていた。
人の行き来の少ない小道に独り佇み、いきなりわけの分らぬことを言って笑い出した女装の男を、行商の途次と思しき者がぎょっとした様子で眺めている。
麻太智は咳払いをすると、笠で深く深く顔を隠して速やかにその場を歩み去った。