魔王様
「やぁ、アッシュ君。久し振りだね」
ーー朦朧とした意識が、その声を聞きゆっくりと覚醒されていく。
同時に寝起きに似たような気だるさ、頭に響くような鈍痛を覚える。久方振りの倦怠感に嫌気が差し、再度微睡みへと堕ちたくなる。
それを堪えつつ重い瞼を抉じ開けてみれば、己が周りは薄暗く、夜闇の中にあるようであった。
ーー己が姿すら視認出来ぬ。ここは何処か……。
黒い霧の中を漂うような感覚に包まれながら、先程の声の方へと意識を向けてみる。
目を凝らしていれば、何もなかったそちらから徐々に薄明るい光が生じた。
倦怠感は薄れ、光と共に意識が覚醒していくーー。
不可思議なその光の中央に黒い点が浮かび、その大きさを増して、終には人の形を成した。
ーーその姿には、どこか見覚えがあった。
「おーい、聞こえてる?それとも、もうくたばっちゃたのかなー?」
耳に手を当て、こちらの応答を待つように男は首を傾げた。見目の良いその男の、短い黒髪に何故か違和感を覚える。
もっと長かったように思うのだがなぁ……それに、何か足りぬような。
いつぞ、こいつを目にしたのだったかーー思い出そうとするも判らず、それどころか見れば見る程、腹立たしいような思いばかりが募るのだった。
正体が様としないのも相まり、何とも存在が気にくわぬ男だ。
「……返事がない。まるで屍のようだ」
訳の分からぬ事をほざいたその口が、にやりと弧を描いた。
「そっかそっか、それじゃあしょうがないよね。ーーさようなら、アッシュ君。滸の事は僕に任せて、安心して眠ると良いよ」
どくん。
ーーその言葉に、朽ちかけていた己の中の『俺』は激しく揺さぶられ、焚き付けられたように燃え爆ぜた。
(ーーふざけた事を抜かすな、あれは俺の鳥。貴様にだろうと、くれてやるつもりは毛頭ないわ!)
噴き上がる激情をそのままに、思わず声を張り上げ激昂したーーが、その声は音にならず、思念のみが形なくその場を漂った。
ーーどういう事だ。俺は……己は今、どうなっている?
疑問が冷や水となったか、多少落ち着きを取り戻す己に対し、男は頭痛を堪えるように溜め息を吐き出した。
「はぁ……相変わらずむかつく態度だね。八つ裂きに出来ないのが本当に口惜しいよ。滸との約束もそうだけど、今の君は形を成してないから、どっちにしろ無理なんだけどさ」
形を成していない?
詰まる所……己は今、肉体を損なっているという事か。
ーー沸々と、記憶が沸き上がってくる。
段々と殻が剥がれるように崩れていった己の身体。真命により俺を成す部分を壊され、散らされたのだったか……。
だが、同時に思い起こされた事柄に比べれば、そのような事はどうでも良いと思えた。
ーー今、己の心を占めるのは只一つ。
何よりも散り際に想った。己が崩れる様を、自身が裂かれるが如く憂いて漆黒の瞳を濡らした、己の鳥。ーー俺の、愛しい小鳥。
そう、俺は小鳥を喚んだのだ。別たれたあの日の誓いのままにーー。
常に抱えていた心の虚に、それは隙間なくぴたりと填まった。永らく思い出せずにいた……かけがえのない記憶と共に。
「ーーどうやら君も、思い出しちゃったみたいだね……はあぁ。君のせいで、僕はとことん損な役回りをやらされているよ」
ーーあぁ、思い出した。片翼を失えど、その神々しい神気は間違えようもない。
元七翼神であるーー烏滸鳥の親。
そいつは、無形である筈の己をその瞳に定め、恨みがましく睨み付けてきた。
己のせいと言われてもなぁ……。
(心情と情報をただ漏れさせているお前の自業自得であろうよ。ーー『俺』を思い出させ、助けとなったつもりか?損だと言う行いを、何故お前はしているのか)
疑問をそのまま口に……否、思考すれば、そいつに伝わったのか、更に嫌そうに顔を歪められた。
「勘違いしないで欲しいね。別に君の為にこんな所まで出向いた訳じゃないよ。想起を促してあげたのも、こうして説明してあげてるのも何もかも、ぜーんぶ可愛い『僕の』娘の為だから」
しかめ面を綻ばせ、溢れんばかりの慈しみを浮かべて見せるそいつに、得心した。
あの鳥は、態々(わざわざ)元の場所に戻してやったというのに、烏滸がましくも自ら此方に舞い戻る事を選んだのだろう。
その意志を示し、唯一その術を持つ……この厄介な神を動かしてみせた。
ただーー己の傍に在る為に。
なんとその名に恥じぬ烏滸がましさか……。愛い過ぎるだろう、烏滸鳥め。
(そうか。だが貴様のではない、『己の』だ)
だから、それだけは譲れぬなぁ。
己とそいつの間で、噛み合う筈のない視線が火花を散らす事暫しーー。
ふんっと鼻息荒く腕組みをして、そいつはそっぽを向いた。己も肉体があれば、同様の事をしただろう。
肉体があればーー。
(己はもう、戻れぬか)
唐突に思い知り、絶望に似た諦感が襲い来る。
ーー折角、満ち足りたというのに。手が届いたかと思えば、その手が崩れ落ちるとは……報われぬ。
記憶が戻ろうと意識があろうと、器が無くては無意味だというのに。
ーー小鳥と共に居れぬのであれば、俺の自我など何の意味も成さぬだろうよ。
「……全く。君達は似た者同士になっちゃって。父さん哀しいよ、滸」
何故かそいつまで、己とは違う哀愁を漂わせ始めた。
はあぁ、と盛大な溜め息を吐くと、真っ直ぐ己へと視線を向けてきた。
「一応は、あの子との約束を果たしてくれたみたいだからね。及第点として認めて……なんてやりたくないけど、良しとしてあげる」
変化した態度と話を怪訝に思い見ていればーーそいつを中心に、空気が変わった。
漂っていた靄がぴたりと止まり、大きな力の流れに乗るように渦巻き出すーー。
「あくまで滸の為だけど、こうして君の餞別も使わせて貰ってるしねーーそのお礼返しをしてあげる」
そして、靄ばかりで地のないそこを、足でとんとんっと打ち鳴らした。
ーー途端視界が晴れ、目が眩んだ。
徐々に慣れる目で見遣れば、漂っていた薄暗い靄が消え失せーーそこは、果ての見えぬひたすら真っ白な空間へと変貌していた。
そして視線を流し、気付く。見慣れたカゲ製の衣を纏うーー己の姿が確認出来た。
ーー己の体が、元に戻った。
「どうなっている?黒い靄もどこへ失せた」
己と対峙するそいつに問う。問題なく声を発した己の身を面白くなさそうに眺めながら、男は口を開いた。
「さっき漂ってた靄は漏れ出た君自身だよ。ーー元々、君の人の部分は僕が貰ってあったから、崩れる所なんてほんの薄皮程度だけしかない。……まぁそれでも膜が破ければ、ああやって中身が溶け出しちゃう訳だけど。それを、新たに作った膜に取り込んで器を成してあげたんだよ」
何でもない事のように平然と宣ってくれた。
こんな気に食わぬ奴でも、流石は元翼神と言うべきか。恐るべき御業を扱うものだ。
そう内心で感心してやったというのに、そいつは徐にまた溜め息を吐いた。
そして物憂げな様子でくるりと指を回し、上を差す。
つられて上向いてみても何もない。只の白い空間だが……。
ーーその時、声が降ってきた。
「魔王様、アッシュ様……」
ーー心が、成されたばかりの肉体が、歓喜で震えた。
己の小鳥が、己を……俺を喚んでいる。
「ほら、いつまでうちの子を待たせるつもりだい?……これ以上滸を悲しませるようなら、今すぐ僕が連れて帰るよ」
己をけしかけるようにそいつは言う。
ーーその姿は、きらきらと光を散らしながら溶けている所であった。力を、使い果たしたのだろう。
「その様でよく言う。まぁ、仕方ないなぁーー滸は己に任せ、安心して今のお前の場所へと戻るが良いさ」
口が弧を描くように笑ってみせればーー元神が聞いて呆れるだろう、射殺すような眼差しを向けられた。
「うわっむかつく……!何、意趣返しな訳?とことん君が気に食わない。滸に相応しいとはとても思えないっ!」
光になりつつも器用に頭を掻き毟る。その見覚えのある姿に笑いが漏れた。
「それは己とて同じだなぁ。ーーそも、小鳥には俺が名付けるつもりであったのに、『滸』とは……よくも、良い名付けをしてくれたものだなぁ。腹立たしい」
「ふふん、どういたしまして。あれだけ一緒に居て決められなかった君が悪いんだよ。そもそも、名付けは親の特権だから。ーー譲らないよ」
「まぁ良いさ、己は滸を得られるのだから。それに勝る役得などないなぁ」
今度こそ、かち合った視線が苛烈に火花を散らせた。
ーーだが、それもそいつが完全に光となった事により、終わりを告げた。
「はぁ、もう時間みたいだね。ーー良いかい?肝に命じておきなよ。君が滸を幸せに出来ないようなら、すぐに僕が連れ戻す。また別たれたくなかったら、滸を守り切るように。あと、滸の嫌がる事をしないように。紳士的に、清く正しいお付き合いをしなさい。不本意だけど、任せてあげるよーー灰塵王、アッシュロード・バイシュ君」
そう伝えてきた最後の光が、ふわりと己の胸へと入り込んだ。暖かいような、厳かなような感覚が、そこから全身へと染み渡る……。
ーーそれは加護であり、誓約であった。
約束を守り続ける限り、もう身を損なう事もないだろう。真命よりも強固な護りと誓いが、己の身を満たしたのだ。
ーー最期まで説教とは、恐れ入る。
……親とは、ああも子を愛するものなのだなぁ。
俺はどうだったかとふとした思いが過ったが、すぐに詮ない事だと振り払った。己は烏滸鳥ではないし、親も神ではない。
情はあった。でなくば俺は働く事などなかったろうし、見限る事も考えなかった。
ーー感謝しているさ。こうして今、己が在れるのだからなぁ。
かけがえのない存在と、出逢えたのだから。
その逸る想いに後押しされるように、己の意識は浮上していく。
狂おしい程待ち望んだ、己の鳥の元へとーー。
「永らく独りで飛び回らせてしまったなぁ。止まり木がなくて、さぞ疲れたろう?ーー己の下で、目一杯癒してやらねば。なぁ……烏滸鳥」
「……苦い」
微かに舌の上に残る余韻をほろ苦く感じた。永らくの空白を噛み締めるように、それを味わう。
その苦みを下せば、残る甘味で脳と舌が蕩けるように痺れた。
「……甘い」
ーー何と表現すれば良いのか。ふわふわと浮わつき、じわじわと拡がるこの想いは。
「……足りぬ」
もっと味わわなくては、判断が着かぬなぁ。
折角、人として容を成してくれたのだから、思う存分に堪能しなくてはなぁ。
この温かさも柔らかさも、全ては己のものなのだから。
誰に咎められる事もなく、されたとて問題ない。跡形なく塵にしてくれよう。
ーーだと言うのに、その当の鳥がじたばたと暴れ、己の行為を阻害してくれる。
己の邪魔立てをするとは……烏滸がましさは健在か。喜ばしいが、今は不粋であろうに。
「……まだ、足りぬのだが?」
「ーーチョコレートはもう無いのですよ!」
チョコレート?……あぁ、あの黒い甘味の事か。
こいつがそれを至高の嗜好品としている事は知っているが、今それを口出す事もあるまいに。
己の想いが汲み取れておらぬようだ……全くなぁ。
「半世紀振りにもなるのに、つれないものだなぁ。俺の小鳥は」
不満顔でいたのだがーー昔の口調で言えば、つい懐かしさで、それは崩れてしまった。
「ーー思い出したのですか?」
鳥が漸く、己が俺だと思い到ったようだ。
己は頷き、あの男からのお礼返しとやらについて語ってやった。
目に余る親の過保護ぶりを目の当たりにするが良い……と思ったのだが。
ーー己が目の前に在るというのに、そのように輝く瞳で父親を知りたがるとは。浮気とは、いただけぬ。
「己の純情を弄ぶとはなぁ。昔はあれ程熱烈に、己を最愛だと囀ずってくれていたのに……なんと薄情な鳥か」
「ぴむむ!アッシュ様こそ、すぐ喚ぶって言ったくせに、僕を半世紀も待たせたのですよ!しかもそれをずっと忘れてた!どっちが薄情なのですかっ!」
恨みがましく言ってやれば、烏滸がましくも反論が返ってきた。
「烏滸鳥とて、それは同じさ」
「同じくないのですよ!」
じいぃっと間近で睨み合う。その瞳には己が在り、また己の瞳にもこの烏滸がましい鳥が在る事だろう。
ーーそれを幸福だと思った事は、教えてやらぬ。
いずれ、己を最愛だと思い知る迄ーー目移りなど出来ぬ程、無我夢中に己を想う迄ーー。
まぁ、心しておけば良いさ。その時は遠くない。
己が至高だと、その鳥頭に徹底して刷り込んでくれるわ。
ーーこれから共にある永劫、忘れられぬようにしてくれる。
己は既に狂った。ならば、お前とてそうならねばなるまいよ。己を想い狂う様を、見せてくれねばなぁ。
なぁ、俺の鳥。
ーー己の愛しい、滸。
これで、魔王様の烏滸鳥は完結です。
ここまで拙作に目を通して下さり、誠にありがとうございます。
初めて尽くしで、自分の表現力が乏しいばかりに、拙い物語になってしまったかとは思います。
ですが、ありったけ自分の好きなものを詰め込ませて頂いたので、書いていてとても楽しかったです。
書きながら自分も色々学ばせて貰い、大切な作品になりました。
もっと書き手として成長出来ましたら、今度は滸がチョコレートを求めて東闇の国へ旅立つ続編も書いてみたいです。いつになる事やらですが……。
次はまた別のお話を書きます。宜しければそちらもお楽しみ頂ければ幸いです。
近い内にお会い出来ますよう、より一層精進致します。
繰り返しになりますが、ここまでお読み頂きまして、誠にありがとうございます。
貴方様にお読み頂けて、これに勝る喜びはありません。この作品は幸せものです。
これからも、気が向いた時にでもまたお読み頂ければ、作り手冥利に尽きます。いつまでも愛でてやって下さい。
ありがとうございました!!