カゲヤン
「濃藍様。お力になれず、誠に申し訳ございませんわ」
待合室のような簡素な一室。その内で深く頭を下げる女に対し、俺は二つの意味で驚いていた。
一つはその絢爛・高貴といった言葉を体現したような姿の、真実貴い存在である聖女から直々にそのような事をされたが為に。
もう一つはーー。
「何故俺の名を知っている?」
そう、他国であるここーークリスティアーノ聖国にあって、俺の名を耳にする事になったからだ。
そも俺がここにいるのは、闇狩りと呼ばれる過激集団ーー闇を悪とし、闇色を持つものを根絶やしにせんとする思想をもつ奴等ーーに拐かされ、あわやという所をこいつに救われ、保護されたからだ。
正規の手段でなくこの地にある俺だ。本人に訊く以外、知り得る手段などあるまいに……。
「あら、わたくし共とてそう無知ではありませんわ。如何に東闇の方を恐れる者が多い我が国といえ……そのお国に連なる方々の名くらいは承知しておりますのよ?東藍国公子、王位継承第三十一位のーー影濃藍様」
恐れ入った。この女の正体を考えれば流石というべきか……。
だが、そんな内心の感嘆を他所に、俺は不敵な笑みを浮かべてみせる。
「ーーどうだか。そんな事まで知っているのはお前くらいのものだろうよ。当代聖女、千里眼のクリスティアンヌ」
こちらとて無知ではないぞと、噂に聞く通り名を挙げて反撃してやれば、何故か聖女はころころと笑った。
「まぁ!わたくしに千里眼などはございませんわ。創世神より賜りし、加護と恩恵の賜物です」
……これは、何とも食えない女だ。
こうして自らを神の愛児と公言しながらも、先のような鼻に付かない謙虚な姿勢を示して見せる。
単に掴み所がないのか、それとも底知れん深淵にその実力を秘めているのか……定かではない。
その先見の明でもって聖国の敵を退かせた実績と、宝玉の如く輝くその美貌を世に騒がせる歴代最高の聖女ーー噂に聞く話は伊達ではないようだ。
「それはさておき、今後の貴方の身の置きようですが……当方にてお預かりさせて頂くには、やはり無理がございますわ」
「だろうな」
申し訳なさそうに眉を下げる聖女に、俺は何でもない事のように返す。予想通りというか、それはあり得んと分かり切っていた事だ。
他国の要人を助けたは良いものの、そこは犬猿の仲。聖国から俺の祖国に渡る手立てなど存在しない。ーーつまり、送還が出来んという事だ。
かといって、不吉の象徴である闇色を身に持つ俺をこの国が篤く遇するなどという事も不可能。
いくら王族に連なるとはいえ、他国のーーそれも忌み嫌う国の者など、誰も迎えたいとは思わんだろう。
ましてここは聖国の中枢。その闇への嫌悪も殊更根強いものだ。
その国の象徴たる聖女の側に東闇の者を置くなど以ての他、周囲が黙っていよう筈もない。
禍を危惧する者、聖女へ不信を募らせる者が増え、いずれ強硬な手段でもって不穏物資である俺を始末しようとする者も現れる事だろう。
お互いに面倒事になるのは明らかだ。
今のこいつらはさぞ、俺の扱いに手を焼いている事だろうな。
「気を遣う必要はない。この聖国において俺に権威などないんだ。元より、祖国であってさえ俺の地位など名ばかりのもの。手厚い待遇なぞ求めんし、される方が居心地悪い」
俺の王位継承権などお飾りも同然だ。たとえ王子の中で最年長だろうと、母親の身分は平民だった。
王宮に入る事もなく、遊牧民のように暮らす日々ーーそれに不満はなく、野心も抱いてなどなかった。
だというのに、俺を王にと推す者も目障りに思う者も少なくなかったようだ。
ーー現にこうして、異母弟の誰ぞの策謀に嵌められ、体よく拉致という形で国外へ追いやられたのだから。
「煩わしい権力争いに呆れ果て、これ幸いと便乗してやった身だ。国に未練もない。ーー俺の待遇に困るのであれば、いっそ俺自らが雲隠れするのはどうか」
元より俺は拐かした闇狩り共を自ら始末し、過去を捨て、連れられた先の地で放浪でもするつもりだったのだ。
聖国としては、仮にも王族を厄介払いなぞ、対外的に出来んのだろう。救済を掲げる信徒としての対応ではないと他国より非難を浴びる事になろうからな。
だが、俺自身が逃げたとなれば話は別。
警備の穴を多少突つかれるやも知れんが、不吉の闇色を抱えるよりはマシだろうし、角もたつまい。
そうした俺の提案に聖女は、申し訳なさを全面に出しつつ、どこかほっとしたような表情を浮かべーー。
ーーなどはしなかった。
「そう言って下さると思っておりました」
にっこりとその晴れやかな笑みを見て、嫌な予感を覚える。まるでーーこいつの掌の上で踊らされているかのようだ。
「……何を企んでいる?」
「嫌ですわ、企むなど。わたくしはただ言質が取れーーごほん、同意を得られた事が嬉しいだけでしてよ」
「待て、何の言質だ。同意した覚えもないが?」
何か都合良く曲解されたかーー侮れない相手なだけに、俺は警戒心も露に聖女を睨め付ける。
「ほほほ、まさか。怖い顔をなさらないで下さいませ。ーーわたくしはただ、貴方の意思を尊重させて頂こうと思っているだけですわ」
これほど信用ならん尊重があるのかと逆に感心した。
そんな俺の呆れを通り越した心境を分かっているのかいないのか……。聖女は笑うと、一つしかない扉へと視線を向けた。
ーーコンコン。
外からのノック音が室内に響く。
「よいタイミングで来て下さいましたわ。……どうぞ、お入り下さい」
聖女が立ち上がり扉を開けると、そこには若い男が佇んでいた。
「お忙しい中、よくぞお越し下さいましたわ」
「ーー全くな。そうと知りつつ呼びつけるとは、相変わらず、良い性格をしているようだ」
招かれるまま室内に入ってきたのは、濃茶の髪と瞳を持つ身なりのよい男だ。
それだけならばどこかの貴族子息かと思う所だが……その雰囲気が、俺の知る下衆な貴族共とは異なった。
何だ?こいつはーー。
席に座す物腰はまさに貴族のそれ。ーーにも関わらず、俺を見る目に若い貴族特有の見下しや傲慢さは含まれていない。どこか気怠気に、構えるでもなく泰然としている。
ただ、その目の力は強い。爪と牙を研ぐ獣を思わせる、底知れない光を内包する瞳だった。
そんな得体の知れない男を訝しみ観察していれば、そいつに茶を出しつつ聖女が紹介をしてきた。
「濃藍様、彼はバイシュ候子息のアッシュ様です。アッシュ様、彼がお話しておりました濃藍様ですわ。宜しくお願い致しますね」
「あぁ、分かっているさ。こちらの件も努々(ゆめゆめ)忘れるな?」
男はその目を鋭く光らせ、茶を掲げてから一気に飲み干すと、徐に立ち上がって俺を見た。
「さて濃藍殿、済まぬが俺には時間があまりないーー早急に発つ準備をしてくれ。俺は先に厩舎にて待つ」
「は?」
一方的に告げると男ーーアッシュとやらは立ち上がり、さっさと部屋から出ていってしまった。口を挟む隙もない早業だった。
「おい、どういう事だ?」
当然その疑問は聖女に向けられる。
何が面白いのか、にこにこと……いや、にやにやと笑みを浮かべていたがーー問いを投げた瞬間、それは完璧な聖女の微笑みへと切り替えられた。
……大した化けの皮だ。
「先程、濃藍様も仰られた雲隠れの件ですわ。お隠れ頂くのですから場所くらいは……と此方で確保させて頂きました。ーー貴方は今までの身分を捨てて、存分にアッシュ様の元で働いて下さいませ」
何だそれは。唐突に過ぎる展開に、理解など及ばんのだが。
聞けば、闇を忌避せず、ある程度安全な環境を持つ者ーーこの条件を満たせるのは件のアッシュとやらだけだそうだ。
丁度人手を欲していた彼と利害が一致したので、俺を紹介したのだとか。
ーーこの国にそんな奇特者が居るとは驚きだ。
しかしながら、折角面倒な柵から逃れたばかりだというのに、陰謀渦巻く貴族社会の下で暮らすというのには、些か抵抗があった。
それにあいつーーいくら本人に抵抗がないとはいえ、闇色を引き受ける事に何の得があるというのか。デメリットしかないだろうに。
「ご安心下さいませ。アッシュ様には貴方の身分は伏せて、真に信頼の置ける働き手として紹介してあります。些細な事など気にならない程こき遣って下さいますわ」
「……その台詞のどれを取って安心しろと?詐欺紛いな真似を聖女がするとはどういう了見だ。俺は貴族などに仕えて喜ぶような性質ではないんだが?」
そう一つ一つ丁寧に指摘してやったのに、聖女は深く笑みを湛えてみせるだけで、答えない。
そこへまた叩扉の音がした。
今度は荷物を抱えた聖騎士が入ってくる。ーーどうやら、俺の荷を用意してくれたようだ。
なんと根回しの良い……つまり、反論は受け付けんという事か。
拒み逃げてやろうかとも思ったが、そこまでする意義も見出だせずーー俺は軽く溜め息を吐いてからその荷を受け取った。
「俺に信念が無かった事が幸いしたな」
でなければこのように強引な展開を誰が受け入れようか……。聖女の采配を、誰もが有り難がるとは思わん事だな。
皮肉を込めてそう言ってやったのだが、聖女は尚も笑みを深めるばかりだ。
ここまでくると、人を相手にしている気がしなくなってきた。
ーーまるで、遥か高みから見下ろす神と相対しているような……そんな錯覚に陥る。
「ふふふ。そんな貴方も、これを機に信念を得られますわ。ーー彼に仕える事が、貴方の誉れとなりましょう」
預言めいた言葉を告げ、聖女は外へと俺を誘った。
「……何を馬鹿な。有り得ん話だ」
貴族に仕えるなど、面倒事でしかあるまい。異母弟妹共やその周辺を見てきた俺は確信を持ってそう断じる。
ーーそれなのに、聖女の笑みの前ではそう強く否と言えなかった。
奇妙な畏れを背後に感じながら、俺は聖都を後にしたのだったーー。
よもやと思ってはいたが……もうこれは確定する他ないな。
断言しよう。俺の主ーーアッシュ・バイシュはおかしい奴だ。
この家に勤めて早十日。俺を雇う事からも窺えたが、その異様さは他に類を見ない。そう断じれる信じ難い光景が今、目の前にあるのだ。
「どこの世界に、馬屋で寝る貴族が居るんだ……」
ーー柵の前に積まれた馬用の乾草の上に横たわる侯爵子息など、初めて見たぞ。
そう、ここは俺の仕事場である厩舎だ。馬の扱いが上手いという事で、俺は馬丁として雇われたのだ。
三日程前に主が馬を駆り何処かへと出掛けてからは、小屋の掃除や修繕をしていた訳だが……。今日は出勤早々、俺は夢でも見ているのかと我が目を疑う羽目になった。
「おい……いや、主様。起きて下さい。休むなら部屋でお休みを」
若干不慣れな敬語を駆使し、軽くと肩を揺すってやる。顔にかかっていた髪が流れ、その顔が顕になった。
ーーそこで漸く、異変に気が付いた。
主の顔色は、驚く程に真っ青だったのだ。
「ーーっ!?主、アッシュ様っ!」
「ーーーーん、濃藍……か」
何度か強く呼び掛けると漸く主は目を覚ました。
「あぁ、すまない。起こしてくれて助かった……礼を言う」
そう言って起き上がろうとする主だが、かなり憔悴しているようで、その動作は覚束ない。
ーー思わず手を出し、その体を支えてしまった。
「主よ、何故このように疲弊されているのです。一体、この数日間何を……」
問い掛けながら、俺は何を言っているんだと内心で自問した。
態々貴族の面倒事を訊く必要など無いだろうに……。
「そうさなぁ……領地の視察や経営状況の確認か」
肩を貸しつつバイシュ邸へと向かう。ここでは碌に休ませられん。
主の声は虚ろで、今にも気を失いかけているのに何とか気力で持ち堪えているといった状態だった。
「そのような事、報告に向かわせれば良いのでは。主が自ら赴く事ではありますまい」
各領地に担当者を置き、定期的に上がってくる報告書に目を通す。領主とは大抵そういうものではないか?
「俺は領主の子息ではあるが、領主ではない。そのような命令を下せる立場ではないのさ」
そういえば紹介の際、バイシュ侯爵の子息だと言われたのを思い出した。では領主は侯爵であって、アッシュ様ではない。
「ならば尚更、主は視察などしなくとも……」
父親について経営を学ぶならまだしも、何故領主を置いて子息が領地経営をするのか。
ーーそも、俺はその領主を目にしていない。この数十日厩舎に詰めていたというのに、領主の馬や馬車すら見ていない。これは異常だ。
一雇用人が領主と見える機会などそうはないとしても、俺がその存在を失念する程感知出来んなど有り得んだろう、普通……。
「父上殿は王都に居られる。他にやる者が居ないのさ、俺がやる他にないだろう?」
そうして詳しい事情を聞き、俺は唖然とするしかなかった。
俺の知る中にも、一切の仕事を臣に丸投げし己はその功績だけを得るような下衆は居たが……。まさか、仕事を放棄し再興のみに苦心する権力の亡者がこの地の領主だなどと、誰が想像出来ようか!
没落貴族の汚名を返上すべく本人は必死なのだろうがーー配された領地を蔑ろにするなど国に叛くも同義、本末転倒甚だしい。……その男、正気か?
それならそれでさっさと息子に家督を譲れば良いものを……。
主は「幾度となくそう進言しようとも『お前にはまだ早い』と相手にもして貰えぬなぁ」と言い、自嘲気味に笑った。
こんな身内の醜聞を晒せる訳もなく、姿を見せない領主に不信感を募らせる領民からの信用も得られない。
ーーこれでは、完全な板挟みではないか。
「権限もなく領主の真似事をする没落貴族の若造に従おうなどという酔狂な者はなく、俺を出し抜き甘い汁を吸おうとする嘗めた輩は後を断たぬ。故にこれは妥協出来ぬのさ」
だから休む間もなく、働き通しているというのか。そんな苦境の中、この主はひたすら独りで仕事をしていたというのか……。
「あぁ、そこだ。……済まぬが四半刻休む。時間になったら起こしてくれ」
館の奥、示された比較的大き目な扉を開ければ、そこは茶系で統一された落ち着きのある部屋であった。
ーーその執務机の上の、膨大な書類の山を見なければ。
ベッドに倒れ込む主を横目にしながら、俺は茫然とその場に立ち尽くしてしまった。
「……これ程迄に、貴方は何故働かれるのか?」
思わず漏れ出た疑問だったが、律儀に応えがあった。
「何故?異な事を言うな。これが領地を得た貴族の義務だろうよ」
「ですが……主に得があるように思えません」
こんな貴族は知らない。奴らは損得を嗅ぎ分け、必ず見返りを求める生き物だった。この男は違うというのか。
認めたくない。……だが、否定されたくない。矛盾した想いが胸中を暴れ回った。
「報いて貰おうなどとは思わぬよ。この地にある者はすべからく、俺の庇護すべき対象というだけだ」
「それは……まさか、俺もですか?」
だから、孤立無援の俺を雇い入れてくれたのか。庇護を義務とするその姿勢に則って……。
「まぁ、お前に関しては民として受け入れる為に聖女との取引があったがなぁ。引き受ける代わりに、奴には俺の茶の流通の援助をして貰う契約を交わしている。今度、この領の新たな収入源としてハーブティーを取り扱う、その先駆けとなる」
あの時出されて飲んだハーブティーがそれらしい。清涼感のある旨い茶だった。
あの場はそのような取引が成された後の席だったのか……。
このお方は、案外抜け目ない貴族らしい計算高さも持ち併せているようだ。
「聖女の後ろ楯があれば、多くの信者がこぞって買い求めるであろうし、定期的に大聖堂に卸すから安定した収入源となる。ーー濃藍の働きはかなりでかい。お前は、この領に成功をもたらしてくれた……。これからも、宜しく頼、む……」
とうとう限界を迎えたのか、そのまま主はすぅっと眠りに就いた。
やはり相当疲れていたようで、上着とブーツを脱がせ上掛けをかけたが、微動だにせずに眠り続けている。
「このような人間が居るとは……な」
机の上の書類を手にしてみると、領主の採決待ちの物が大半のようだった。父親が不在の今、それが滞るのは当然だろうな。
ーー気が付くと、俺は書類の整理をしていた。
……別に、聖女の言葉通りにこの男に仕える事を良しとした訳ではない。
ただ、この主は誰かが手を貸さねばひたすら独りで抱え、その内押し潰されそうな危うさを感じるからーーそう、仕方なく手伝ってやるだけだ。
決して、宜しく頼むと言われたからでも、ましてや役に立てた事を光栄だと感じてしまったからでもない。
俺自らがこれから生きるこの地を快適にしてやろうという、そういう思惑あっての事だ。
馬丁の本分を逸脱していようが知った事か。出来るから、やるだけだ。
……傍迷惑だった持ち上げ組からの熱心な教育が役立つ日が来るとはーー皮肉なもんだが、無駄ではなかったと思っておくか。
この男が、いつまでその姿勢を貫けるか見物だ。近く側で控え観察する為に、精々役に立ってやろうじゃないか。
ーー有り得んとは思うが、その内、忠誠心とやらも芽生えるかも知れんしな。
文字通り味方がいないこの主には、俺くらい付いていてやっても良いだろう。
そういえば、約束の四半刻は過ぎたか。ーーだが、俺は時計を持っていないのでよく分からんな。
取り敢えずこれが片付く迄は寝ていて貰おう。作業の邪魔だからなーー。
それから数ヶ月が経った頃には、人に振るのが苦手な主も、俺に対しては大分馴れてくれたようだ。
少しずつではあるんだが負担が減り、休む時間が取れているように見える。
顔色も良くなってはいるが……欲を言えばまだ足りん。
ーー主にはもっと、烏滸がましい程に付きまとい世話をやくような物好きがいたら良いんだ。
きっと、誰の手も借りようとしないこの主にとって、そいつはかけがえのない存在になり、その心の支えとなるだろう。
それまでは、俺がその一端を受け持つ。主が姿勢を保ち続けられるよう、その存在を見落とさんように。
俺は待ちわびながら、今日も主の為に仕事をこなす。
俺の凝り固まった認識を氷解させてみせた、この貴族らしからん貴族の鏡こそが、俺の主。
俺が生涯仕えるーー唯一無二の、王。