8.悪意の連鎖
放課後はいつもと同じように見えた。でも、どこか不自然だった。教室が、朝の空気を引き摺っている。
教室にいるのに耐え切れなくなったのか、佐藤は五時間目が始まる前に早退した。それは賢明な判断だ。こんな状況では悪化するだけだ。
また、僕に対して変な視線が付き纏っていた。不躾な、嫌味の籠った視線。
別に気にしないけど。
「由宇、特別棟に寄ってもいい?」
小百合は荷物を入れた鞄を肩に掛け、帰る用意をして机の前に立った。智哉もリュックを背負って待っていた。悪意の視線を気にすることなく、二人は僕の領域に入ってくる。それは、確かな友情だった。
「いいよ。今日は帰りに荷物を運んでもらうことになるけど」
「それは予定の内」
こんなとき、智哉の素っ気無い返事が嬉しかった。荷物持ちなんて嫌な顔をされるものの部類に入るのに。智哉と目が合ったので、笑顔で嬉しさを伝えた。
智哉はすっと視線を外し、小百合の方へと向いた。もしかしなくても、智哉は僕の笑顔が嫌いなのだろうか。普通に話しているときはしっかりと目を見るのに、笑顔や表情を緩めると変な反応をする。それは小百合も同じだった。二人は僕の笑顔が嫌いだという結論に達してしまうのは仕方がない。
また機会があったら訊いてみよう。嫌な気分にさせるのは僕だって嫌だ。
僕の準備が整い、クラスメイトの奇妙な視線を背に教室を出た。
「音楽室に教科書忘れちゃって」
小百合は音楽室のある特別棟へと繋がる渡り廊下を目指してすたすたと歩いた。背筋はきちんと伸び、自然と綺麗な歩き方をしているところが小百合らしい。智哉は小百合のような上品さではないけど、姿勢良く歩いている。後ろから見ていると、歩き方の見本のようで気持ち良かった。
自信があるように見えるのは、背筋を伸ばしている影響が大きい。それに見合うものを持っているのだから、人の目を惹いて当然だ。友達になって近くで見ると、それははっきりとわかった。
だから、一層自分とは違う、遠い所にいるように感じた。
「由宇と智哉は選択は書道だったわよね? 由宇、書道が得意なの?」
渡り廊下を過ぎて特別棟の二階に入ったところで、小百合は顔だけ後ろを向いて話しかけてきた。二階には書道室がある。三階には美術室があり、目指す音楽室は四階だ。
「得意というより、好きなだけ。墨の匂いが好きで小学生の頃から続けてるんだけど」
「謙遜だね。由宇の字は綺麗だよ。真弓くんと並んで、クラスでトップだから」
なんて褒め方するんだ。智哉は説明するように淡々と言ったが、それでも内容は僕を喜ばせるのに充分だった。
得意と好きは違う。しかし、それに実力が伴っていて認められることは、素直に喜べた。それが友達、智哉だから余計に嬉しい。顔が緩んでしまいそうになった。でも、僕の笑顔が嫌いなのかもしれないという懸念があるから、笑顔は抑えよう。
「ありがとう、智哉。君だって綺麗な字を書くけど」
智哉の真似をしてさらっと言ってみた。小百合はおや、という表情をして笑みに変え、智哉は意地悪そうな笑みを作った。
だからなんでそんなに素の表情を出すかな。僕は特別だって自惚れそうになるじゃないか。
「あー良いわよね、智哉は。私も書道にすれば良かった」
仲間外れの気分なのか、小百合は不満そうに顔を顰めて先に階段を昇って行った。智哉は自然と僕の隣にいて、小百合の拗ねている様子に仕方ない、というように苦笑した。僕もそうだな、という意味を込めて眉を上げた。この距離感は悪くない。二人の間は心地良かった。
特別棟に人は少なく、部活をしている生徒以外は滅多に見かけない。特別棟を使う部活は書道部と美術部と吹奏楽部で、書道部と美術部の活動している二階と三階は静かだった。
四階に上がると吹奏楽部が練習している音が微かに聞こえた。音楽室は防音設備が整っているので、微かに漏れているのは隙間が空いているからだろう。小百合はゆっくりとドアを開けて中へ入って行った。
音楽室の隣には図書室がある。図書室の入り口には掲示板があり、そこには新刊や入荷した本の紹介が載っている。小百合を待つ間、その掲示板を見ていた。智哉も隣に立って同じようにしていた。
そのとき、近くから悲鳴が聞こえた。昨日と同じような恐怖が滲んだ女生徒の声。それは昨日の出来事を甦らせた。
声は図書室を過ぎた階段の方から聞こえた。