3.魔法陣
女性の金切り声が尾を引く。
「どこから!?」
「プールの近くよ」
小百合は僕と智哉の間を通り過ぎ、玄関とは反対方向に走って行った。それに間髪入れずに続いた。
小百合がプールの近くだと言うのだからそうに違いない。あの確信を持った声は信用できた。
何が起こったのか。ホラー映画でしか聞いたことのない叫び声は、恐怖を感じているのが嫌でもわかった。前を走る小百合は迷うことなくプールに向かっていた。
体育館とプールを繋ぐ渡り廊下に続く道へと角を曲がったところで、それは視界に入った。
コンクリートの上には赤いペンキのようなもので円状の何かが描かれていて、その中心に生徒が二人いた。ガタガタと震える女生徒と、それを支えるように肩を抱いている男子生徒。よく見ると、二人はクラスメイトだった。
「真弓くん、何があったの?」
「僕もさっき着いたところです。叫び声を聞いて走ってきたら、佐藤さんがここで倒れていたんです」
クラスメイトの真弓夏目はいつもと変わりなく、丁寧に話した。冷静に見えるけど、この状況で冷静でいられるわけがない。佐藤真美の肩に添えられた手が震えているのは、佐藤の震えだけではないだろう。
人が集まり始め、辺りは騒然とした。まずここで優先するべきことは、佐藤を保健室に運ぶことだ。騒ぎが大きくならないうちに、避難しないと。
真弓に手を貸そうとした。
「真弓くん、佐藤さんを保健室へ運んであげて。根岸さんも」
小百合は野次馬が騒ぐ中、よく通る声で指示した。声を聞いて集まった人だかりの中に佐藤の友人の根岸裕子を見つけ、付き添うように言ったのも判断も的確だ。
真弓は佐藤の脇に手を回し、体を支えるようにして立ち上がった。制服にはべったりと赤い液体が付いていた。まだ液体は乾ききっていない。反対側で、根岸が背中に手を当てて宥めていた。
真弓と佐藤が離れたため、コンクリートに描かれたモノがはっきりとわかった。印象だけで言えば、禍々しいとしか言えない。明らかな悪意に吐き気がした。思わず口元を押さえた。乾いていない液体が、光っている。
赤いペンキのようなもので描かれた円状の中には星のような形があり、周りに文字らしきものが見て取れた。
「これは……」
「魔法陣」
数学の『魔方陣』でないことは、この状況を考えればわかる。しかし、小百合の口から漏れた言葉は現実からかけ離れていた。
魔法。ファンタジー。非現実的。口に当てていた手を降ろした。
これは、現実だ。
智哉は小百合に同意するように頷き、コンクリートに片膝を着いて赤い液を人差し指で掬った。
「血だ」
その言葉に周りで様子を見ていた生徒達はどよめいた。変に低い、小さな声で囁く声が耳に煩わしい。小百合はただ「そうね」とだけ返し、図形を検分し始めた。小百合と智哉は平然としているけど、僕は目を逸らしたかった。
気持ち悪いのは血ではない。この状況だ。
血だと言われてみれば、その色からして納得できた。鮮やかな赤は静脈からの出血だったか、と曖昧な知識が脳裏に浮かぶ。確かに鼻を掠める臭いは生臭かった。
生臭い? 人の血ってこんな臭いだったっけ?
「人の血じゃない。魚?」
「その辺りね。鶏かもしれない。ただ、これは人の血じゃないことは確かね」
小百合は満足したのか、人垣を割って現場から離れた。智哉も小百合の後に続き、僕は智哉に袖を引かれてついていった。持っていることを忘れていたゴミ袋が足に当たった。そういえば、この中も赤で溢れている。でも、あの赤とは違う。
集まった生徒は状況が理解できないようで、ただ立ちすくんでいた。僕が向こうの立場なら、きっとそうなっている。
女生徒の悲鳴。佐藤と真弓。奇妙な図形の『魔法陣』。何かがわかっているような小百合と智哉。何故か二人と一緒にいる僕。これをどう整理すれば、理解できるようになるのか。
智哉に袖を引かれながら、当初の目的のとおり、靴箱へと辿り着いた。何もなかったかのように先に着いて靴を履き替えた小百合は、固い表情で振り返った。
「早かったわね」
「そうだね」
智哉も靴を履き替えて爪先をトンッと蹴った。
二人だけでわかっている。何が、とはもう訊かなかった。二人は何か事前情報を持っている。それがわからない限り、二人の会話にある隠された主語は見つけられない。
何も言わずに帰る準備をして、近くにある花壇に花弁を撒いた。花壇が赤く染まっていく。今日は赤ばかりだ。
「問題が起こったのが予想より早かったってこと。……早すぎる気もするけど。それよりも由宇、私が言わなかったら、私が言ったことを言うつもりだったでしょ」
本当に何故わかるのか。確かに、誰も言わないなら指示しようと思っていたことは、小百合が言ったことと同じだった。野次馬が集まって来てからでは遅い。でも、僕が言って従ってくれるかが問題だった。だから、小百合が言ってくれたことにほっとしていた。
指示は命令に似ている。そこには従おうという意思の形成が前提だった。小百合なら、皆が従おうとする。それくらいの影響力を持っている。
何でもお見通しのような小百合はにっこり笑い、その後にすぐ顔を引き締めた。
「あの魔法陣、悪意を感じたわ」
「加えて血。呪いのつもりでやったんだろうね」
あの禍々しい図形は『呪い』と言われれば、それが一番適当だった。血で描かれたそれは悪意以外の何ものでもなく、強い思いが伝わってきた。
その中心で倒れていた佐藤。何故あんなところにいたのか。制服は人ではない何かの血で塗れ、まるで佐藤自身が血を流しているように見えて。
身体は傷付いていないのかもしれないけど、震えていた佐藤は心が傷付いている。
「小百合、結構詳しいわけ?」
「まあね。ただの趣味よ。一時ブームになってたときに釣られてね。魔法陣とか陰陽師とかの本は結構見かけるし」
それだけでこんなに詳しくなれるわけない。でも、本当の理由を聞こうとは思わなかった。その類のことに詳しくなるほどの何かがあったことは容易に想像できる。
魔法。どこかで聞いた単語だと思っていたけど、思い出した。昨年の今頃、陰陽師などの『不思議な力』関連のものが流行っていた。その頃、小百合は一部の女子から陰湿ないじめのようなものを受けていた。小百合の容姿は良くも悪くも目を惹く。女子のいじめは執拗で、しかも隠蔽されることが多い。
いじめを知ったのは偶然だったけど、そのとき小百合は悠然としていた。臆することなく、屈することなく、小百合は笑顔でいた。笑っていられる。それは重要なことだった。「何かできることはあるか」と申し出ると、小百合は首を横に振った。誰も巻き込まないで、一人で何とかしようとしていた。
その後、小百合が紛い物の呪術には正論で対抗して、いじめは一応治まった。
今回の出来事は、きっと小百合が一番理解できるだろう。