17.それは言葉の代わり
涙が出るかな、と思った。でも出たのは溜息だけだった。
人の悪意を目の当たりにするとそれが他人に向かってのものであっても苦しくなる。自分に問題があるのではないかと、自分を責める。
いつもの逃げ場である家の近くの公園は、休日を楽しむ親子で賑わっていた。それに少し救われる。ベンチに座って項垂れていると、地面に影が差した。二つの影が伸びている。
「有難う。小百合、智哉」
「どういたしまして。由宇、大丈夫?」
小百合の声は優しかった。思わず縋りたくなる。でも、それはできなかった。それは本当に逃げることになる。そんなことで二人を必要としたくなかった。
顔を上げると、僕を心配する二対の瞳に出逢った。その瞳にふっと気が抜けた。知らない内に気が張っていたようだ。
「もう大丈夫。君たちがいて良かった」
ちゃんと穏やかな笑みを作れたはずだ。その証拠に小百合は嬉しそうに笑い、智哉は照れたように口元を緩めた。
僕が教室を出てここに来てから数分しか経っていないけど、どうやって終わらせたのか気になった。収拾はついたのだろうか。
それを察したのか、小百合は笑顔のままで言った。
「先生たちは形だけでも謝ったわ。皆はなんとか気持ちに決着をつけたみたい。すぐに解散して、一宮さんもそのまま帰ったの。由宇の言葉が導いた結果よ」 それは買いかぶりだ。僕は逃げた。あの場から逃げても何も変わらないのに、あの場にいるのは耐えられなかった。
もっと感情をぶつけていれば楽になれたのかな、と思ってみても、それは混乱を招く恐れもあった。これは黒井の言う弱さだ。
「由宇は優しいから辛いんだよ。それに比べて僕たちはそこまで優しくなれないから、ある程度のところで諦めがつくんだ」
智哉の柔らかい声に、思わず手を伸ばしてしまった。それは自覚して引っ込める前に智哉に捕らえられた。手から伝わる優しい温度は。
もう、無理をする必要なんてない。そう、心から思えた。
前に智哉がやったように、小百合は繋いだ手を切り離すつもりはないようだった。
「あの花弁の意味、わかった?」
小百合から何の前振りもなく発せられた問いに、思い当たるものは一つしかなかった。僕を囲むように一面に散りばめられた赤い花弁。あの禍々しさは、今回の出来事を表すのにぴったりだった。
未来を確信していた小百合からのヒントということかな。
「意味があったんだ?」
「まあね。花弁を片付けるの、大変だったでしょ? 出すのは簡単で、消すのは難しい」
「……そうだね。言葉は発してしまうとなかったことにはできない。そして、悪意を消すのは難しい」
思い出したくなかった。あの悪意に満ちた空間。濃密な日々が続いたのが、知らない内にかなりの負担になっていたようだ。赤が目にちらつく。
そういえば、あの花弁の量は異常だった。
「あの花は貰い物だよね?」
「やっぱり貰い物ってわかるわよね。あれは自称ファンクラブ会員から。ちなみに薔薇よ」
「貰い物をばら撒いたんだ……」
小百合はただ笑みを浮かべただけだった。酷いことをする、と思ってみても、気持ちの押し付けに丁寧な対応をする必要性はなかった。最後には花壇に植えられた花の栄養になった花弁。それに込められていたものは何なのか。善意なのか悪意なのか。
悪意を発散させる方法なんてあるのかな。
「そういえば、なんで由宇はよく放課後、教室で寝ているの?」
少しは気になっていたということかな。智哉の疑問は、あのとき言われなくて不安になったものだった。気にしていてくれたということが、今は嬉しかった。
「解放、かな。この自由を縛る学校、教室で寝るという行為は反則だよね。だからこそ、その反則行為で身体の中に溜め込んだ悪意が発散される気がするんだ」
「授業中に寝るなんてことができないから、ね。由宇らしいわ」
そう、授業中に寝ることなんてできるはずがなかった。それを見た教師に悪意が湧くのは当然のことだ。今回の事件の教師を見ていたらそれはわかる。その悪意を受けるくらいなら、眠気を我慢する方が楽だ。それに伴って授業態度は良いと評価されるし。
今回のことは教師二人が起こしたことだけど、最後の事件は二人と友達にさえならなければなかったことだ。あの状況では、小百合も刺される危険があった。
そこまでして僕を引き入れた理由は何か。僕は恋人のカムフラージュではないのかな。
「君たちって付き合ってるんだよね?」
「何言ってるのさ」
智哉が呆れたように顔を顰めた。かなり的外れな答えだったらしい。じゃあ、今回の事件のリスクに見合うものは何なんだ。
「もしかして、私たちが付き合っているのをカムフラージュするために由宇と友達になったと思ってたの?」
「そう」
あからさまに失敗した、という顔をした小百合は智哉を見た。智哉は小百合の言いたいことがわかったのか、ただ頷いただけだった。
何が二人の間でわかったのか。
今までの状況だと、それ以外の結論は導けない。
「これも良い機会かもしれないわね。由宇、ちゃんと聞いてね」
小百合が真剣な表情に変えたのを合図に、智哉は繋いでいた手を離した。今までずっと手を繋いでいたのに気が付かなかった。それほど自然になっていた。温もりがなくなり、手持ち無沙汰になった手を握ったり開いたりして紛らわせた。
「私は由宇が好きなの」
「僕は由宇が好きだよ」
続けてされた告白に、思考が固まった。その台詞は前に聞いたことがあったけど、それとは違うことはわかる。
僕が何かを言わない限り、嫌な沈黙は続く。周りの明るい声が遠くに聞こえた。何を言えばいいのかわからず、とりあえず確かめた。
「それって、恋愛感情ってこと?」
二人は揃って頷いた。偏見ではないけど、智哉が僕を好きというのに戸惑った。小百合が僕のことを好きだというのも、充分に混乱するものだったけど。
「僕と恋人になりたい、そういう好き?」
また二人は揃って頷いた。
友情さえ疑ったのに、それが本当は恋愛感情だったなんて。信じるけど、実感できない。でも、今までの二人の行動に説明がついた。
僕の笑顔に変な反応をしたのは照れ隠しで、今回の事件を利用して僕を仲間に引き入れたのは一緒にいるきっかけを作るため。そんな特別な理由があるなんて、思いもしなかった。裏付けの行動は、その気持ちが本当であること以外は示していない。
でも、今は答えを返せなかった。
「悪いんだけど、今返事はできない。まずは友達から、ということで」
「うん、わかってるわ。だから、友達から始めたのよ」
智哉も頷くのを見て、ほっとした。答えを延ばしただけで、何も変わっていない。でも、新しい何かが始まるような気がした。
まずは友達から。ゆっくりと知っていこう。今は二人が僕のどこを好きになったのかわからないけど、それも追々わかるはずだ。
あの紅に沈んだときから、未来予想図は描かれていた。
「『愛の告白』。初めからしていたんだけどね」
赤い薔薇の花言葉は『愛の告白』。なんだ、二人の気持ちはもう表されていたのか。それも、貰い物の花での告白。鮮やかな赤は禍々しさを感じたが、それ以外にただ純粋に綺麗に見えた。
僕の気の抜けた笑みに、二人は偽らない笑顔を返した。