16.正当化の自己満足
小百合は疑問形ではなく言い切った。その強い口調に、教師二人は明らかに動揺した。
志水と同じく不自然に緊張していたのはこの二人だった。騒ぎを引き起こした張本人だから、あんな反応をしたのか。
藤田先生が余計なことをした。小百合は確かにそう言っていた。そういう意味だったのか。
「何を言っているんだ。俺が何をしたっていうんだ」
「『今だからできることをやれ。自分のアイデンティティーを守れ』。これだけ聞くと、綺麗なものですよね。でも、それは裏を返せば正当化の言い訳です。悪いことをする後押しになる」
藤田先生の語気の強い声を飄々とかわし、小百合は調子を変えずに淡々と述べた。その反論に、藤田先生は口を噤んだ。それは意図して言ったことを肯定することになった。
あの言葉に深い意味はないと思っていた。だから、引っ掛かることがなかった。でも、精神が不安定な人が聞けば、それは呪文のように聞こえた。その効果は根岸と志水の行動で嫌というほどわかった。
それを煽ったのは担任の朝の報告だ。曖昧に情報を流して不安を誘う。邪心のある者はそれに乗っかろうとする。今だからこそわかる。全ては意味ある行動で。
「『劣等感と障害は似ていて、誰もが持っている』。これは二年前の事件を再発させようとしたからですね」
担任は胸に光る十字架のネックレスを握った。
十字架は、数珠と眼帯と包帯と同列扱いにされていたはずで。
「二年前の再発だから、俺が出てくることになったんだ」
いつの間に居たのか、教室の後ろに学人先輩が立っていた。皆が黒板の前にいる小百合と智哉に注目していたため、誰も気付いていなかった。
学人先輩の登場に、教室はざわついた。万屋は、今でも特別だった。
担任、水野先生は傷付いた顔をした。
「二年前、眼帯と包帯が流行って、それに便乗するように傷害が目立った頃があったんだ。本当の怪我か、ただのアクセサリーかわからないからな。それは万屋で解決したんだけど」
学人先輩はあの冷たい目をしていた。断罪する目だった。二年前のことを知っているからこそ、再発が許せないようだった。どうなるか結果がわかっているから、その悪質さは一層増す。
でも何故、この教師二人はそんなことをしたんだ。
「何故こんなことをしたんですか? 佐藤と真弓を犠牲にして。二年前にどうなったか知っているのに」
「また同じことを繰り返すのかと思いまして。単純ですね。あなた達は私達教師をいつも馬鹿にしていたのに、こんなものに踊らされる。私はただ十字架を持っていただけで、藤田先生は励ましただけ。私達が犯人だなんて、そんなことが言えるのですか?」
僕の問いに、担任は冷静に答えた。声はいつもより硬かった。
生徒が教師を馬鹿にした。それに対しての行動がこれというわけか。頭が痛くなってきた。正当化することに慣れている人ばかりだ。佐藤のことはわからないけど、関係ない真弓を巻き込んで、何を正当化できるのか。
自分が正しいなんて、それは主観じゃ駄目だ。客観的な評価じゃないと、それはただの。
「それは自己満足だ」
「そうだね。由宇の言うとおり、みんな正当化の自己満足だよ。僕は誰も馬鹿になんてしない。そして、誰も利用しようとは思わない」
ふと漏れた呟きに智哉は同意した。
それに救われた。偽善だと思われてもいい。ただ一人でも味方がいればそれで良かった。僕は担任も、藤田先生も馬鹿になんてしていない。客観と主観が同じだなんて、そんなことばかりじゃない。態度が全て内心を表しているわけじゃないのに。
今回小百合と智哉が利用しようとしたのは、状況だ。人を利用してはいない。その差は大きい。生徒を利用した教師。それで起こったことを利用した小百合と智哉。結局二人はいつかは起こることを早めただけで、それは相手も救っていた。
何が正しいかなんて、明確な答えなんてない。ただ、悪いことだけは嫌でも浮き彫りになる。
もうこの場にいたくなかった。こんな空気の中で、正常な思考が保てるとは思わなかった。段々と混乱していくのが自分でもわかる。人がこんなにも汚いものだとは思いたくなかった。負の感情が悪を呼ぶ。皆が皆そうだと思いそうになる。
自分をも疑いそうになる。
「僕は、藤田先生の言葉を励ましだと思っていました。小百合と智哉の友達で、万屋部員でいたい。自分が傷付いたからって人を傷つけて良いはずがないんだ。……月曜にはちゃんと学校に来ますから、もう帰ってもいいですか?」
口から心の声が漏れた。声は擦れていて感情が籠っていなかった。叫びたい衝動が身体を支配しそうになるけど、ここでそれをしても何も伝わらない。それくらいの予想はつく。
脈絡のない言葉が続き、最後は担任に向けて言った。情けない顔をしているだろう。自分では確かめられないけど、担任の無言の頷きがそれを肯定した。
誰も何も言わなかった。真弓が心配そうに見ていて、力無い笑みを返した。
もう、疲れた。それが伝わったようで、夏目は労わるような笑みを浮かべた。
小百合と智哉は無表情で見ていた。
真弓に向けた表情を作ると、小百合は微妙な笑みを浮かべ、智哉は眉を寄せた。
学人先輩は、変わらなかった。変わらないからこそ、安心した。あの冷たい目じゃなく、部活で見ていた目だった。
教室のドアを閉めるとき、背後から学人先輩の声が聞こえた。
「信頼を裏切る。その結果がわかりましたか?」