14.魔女裁判
「今日は用事があって一緒に帰れないの。ごめんね」
「ご苦労様」
日誌を提出して戻ってくると、小百合と智哉は不穏な空気を纏っていた。
目の前の机には何かのプリントが載っている。両手を腰に当てて深く溜息を吐いた小百合に心底同情した。また担任から雑用を押し付けられたようだった。優等生を演じているから、やらなくていいことまで任せられる。
智哉も同様に、机の上に紙の束を積んでいた。
「手伝おうか?」
「いや、いいよ。これだけが用事じゃないから」
他にも何かあるのか。手伝いを拒む理由は言いたくないようだったので、訊かないことにした。僕だって、昨日自分の都合で一緒に帰れなかった。
前まで一人で帰っていたのに、今はそれが不自然に感じた。数日で大きく変わった環境。それは急激すぎたのかもしれない。
無意識に救いを求めていたのかもしれない。
「すっかり綺麗になったなー」
足は自然と最初の事件が起こった場所へと向かっていた。あの禍々しい赤は跡形もなく消えていた。血は消えにくいから、かなり苦労しただろう。事故現場の処理みたいで、なんとも言えない気持ちになった。
あんなことがあった場所だけど、それでも僕にとっては安心できる場所だった。あの赤は、呪いではない。あれは智哉が言っていた、心理負担のための手段だ。
この場所はまだ僕のものだ。誰もいないことが一層心を落ち着かせた。
いつもと同じように、溜め込んだモノを発散させるように大きく声を出した。合唱部の練習にでも聞こえているのかな。小百合が言っていた言葉が過ぎった。どんな風に聞こえるか試してみたいと思う。
久しぶりに出した声は思ったよりも伸びた。高音が自然と出る。腹筋を鍛えて出した腹式呼吸の声は、無意識の内にアメージング・グレイスを紡いでいた。昨年優勝した文化祭で歌ったものだった。何度も歌った旋律が喉の奥を震わす。
何かを吹っ切るように歌った。
いつもの帰り道。いつもの光景。過ぎていく景色の中に人の姿は少ない。
駅を過ぎるとそこは工場や大きな会社が並んでいて、少し歩いたところに住宅街が広がっていた。駅付近は学校側が栄えていて、有名なデパートやアーケード街がある。人気のない道は、あと五分ほど続く。
建物が並んでいるため、死角は多い。突然人が現れたように見えたのは、角から出てきたからだった。現れたのは、クラスメイトの志水だった。
「何か用?」
「お前さえいなければ、二人は調和していたんだ。なんでお前があの二人と一緒にいるんだ!」
小百合か智哉の信望者か。確かに二人は並んでいるとお似合いだった。それをうっとりと見ている奴がいるのは知っていた。害はないようだったので放っておいたけど、それがこんな形で影響するとは思わなかった。
志水が怒るのもわかる。僕が入れば二人の関係は変になる。それは表面上だけのことだけど、表面しか見ていない信望者には言っても無駄だった。志水は名前順が智哉の前に位置するため、その思いは強いのだろう。
「それは友達になろうって言われたから」
「あの人たちが? 冗談だろう。真に受けたのか?」
鼻で笑われた。二人が僕なんかを相手にしないと思っていることがその蔑んだ目から痛いほどわかった。
僕だってそう思ったことはある。何故、という疑問は常にあった。でも二人と一緒にいると、そんなことは考えなかった。二人は僕を認めている。
「僕は小百合と智哉の言葉を信じる」
「名前で呼ぶな! お前が呼んでいい名前じゃない! わからないんだったら、わからせてやるしかないな」
志水は学生服のポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。刃が怪しく光る。
魔法陣事件があったときの帰り道、小百合が言っていたことを思い出した。西洋で魔女識別方法として、火やナイフがあったらしい。火に手を入れて火傷をしたら魔女、ナイフで身体を刺して、刺されば魔女。悪しき者が傷付く識別方法だったらしいけど、そんなもの普通の人がやったら火傷もするしナイフは刺さる。聖火なんて、結局はただの火だ。
その魔女識別方法が、今自分を試すために行われる。
「今しかできないことをやる。僕のアイデンティティーを守るために」
どこかで聞いた言葉だった。向かってくる刃を見て思い出した。それは藤田先生の言った台詞にあったものだ。そう考えている間にも、刃は確実に僕に向かっていた。どこを刺すつもりだろう、とぼんやり考えていると、背後から人影が過ぎった。
長い髪がふっと頬に当たった。
「小百合」
僕の前に立って志水と対峙したのは小百合だった。不思議と一瞬で人物の正体がわかった。
志水は小百合の登場に驚いたようだったけど、勢いのついたナイフの動きは止められなかった。刃は小百合に向かう。
小百合は自ら前に進んでいった。後ろからはよくわからなかったけど、刃を鞄で受け止めたようだった。体を少し傾け、翻りながら志水の腕を掴んでナイフを叩き落した。
ナイフが地面に当たって硬質な音がした。
「それはアイデンティティーじゃなくて、エゴよ」
小百合は志水の前に立って、冷たく言い放った。美人が怒ると通常よりも何倍も怖いというのは本当だった。志水は近くでその小百合を見ているため、その怖さは僕よりも大きいだろう。
智哉も僕の背後から現れ、地面に落ちたナイフを拾った。
「正しいことをした君なら、このナイフは刺さらないんだよね?」
智哉はくすくすと楽しそうに笑った。ナイフをくるくると器用に回している。
二人とも、本当に怖いんですけど。
「もう、止めたら。もうどうでも良くなった」
「優しい由宇に免じて、これくらいで許してあげるわ」
「そうだね」
小百合はふっと気を緩めて笑い、智哉は息を吐いた。ナイフを折りたたんで志水に向かって放物線を描いて投げた。志水はそれに反応できずに、ナイフは地面に落ちた。
歩み寄ってくる小百合に、僕は手を伸ばした。小百合は意味がわからないようで、首を傾げた。
あ、何か可愛いかもしれない。
「有難う、小百合。助かった」
感謝に意図するところを理解したのか、小百合は僕の手を取った。女性特有の柔らかい手。それは優しく重なり合った。これなら恋でも芽生えそうだった。でも、それはない。僕の中で小百合は確固として友達の位置にいる。
穏やかな空気が流れる中、智哉は足早に近寄ってきて、手刀で握手を断ち切った。
「小百合」
「良いじゃない。今回働いたのは私なんだから」
また二人で分かり合っている。智哉のこの行動は、嫉妬からきたものなのは間違いなかった。
やっぱり、二人は付き合っているのかな。それとも、片思いの両思い状態なのか。なんか、微笑ましい。こういうじゃれ合いを見ていると、無意識に表情が緩んでいた。言い合っていた二人は、僕の顔を見て困ったように笑った。
「さて、そろそろ終わりにしましょうか」
小百合は面倒臭そうに首の後ろに手を掛けた。智哉も同意を示して腕を組んで頷いた。
何が始まって、何が終わるのか。二人は知っていた。