13.先輩
日直当番が回ってきた。ただの雑用当番で、朝のゴミ出しから日誌提出で終わる。弟も早く登校する予定があったため、駅まで一緒に行き、まだあまり生徒がいない七時半に学校に着いた。早過ぎたかな。
とにかくゴミを捨てようと、焼却炉に向かうところで。
「お前、調子に乗ってんじゃねぇぞ」
嫌な声が聞こえた。体育館と倉庫の間で、薄暗く人通りはない。カツアゲには絶好な場所から声がした。ここで何度かカツアゲの現場を見ていた。
またか。
「大会に出れないようにしてやろうか?」
「いいねぇ。生意気な後輩には指導を、ってね」
ケタケタ笑う声が混じる。
無視して通り過ぎることもできるけど、この場に居合わせたのも何かの縁だ。
ゴミ袋を片手に、角を曲がった。
「何してるんですか?」
誰かが来ると思っていなかったのか、背中を向けていた二人は異常なほど肩を震わせた。それを隠すかのように、勢いよく振り向いた。
「なんでもいいだろ!」
「お前……須賀か」
険悪な顔は見たことがあるものだった。柔道部の三年生だったような気がする。柔道部にも助っ人に行ったことがあった。柔道は得意分野で、今まで部員に負けたことはなかった。
「お久しぶりです。お変わりないようで」
「厭味かよ。お前には関係ねぇだろ」
ダンッと壁を殴り、凄んだ。そんなことで怯むとでも思っているのだろうか。
昨年あれだけ実力を見せたのに。嘗められたものだ。あなたは僕に勝てなかったのに。
その様子を真新しいジャージを着た一年生が怯えた様子で見ていた。
「もう万屋はないんだ。伊集院さんはいないんだ!」
伊集院さん。懐かしい名前だった。伊集院聖。『万屋』創設者で部長だった人。僕を万屋に勧誘した人でもある。僕が万屋部員になるため、僕は親戚だということにしていた。そのため、聖さんと呼んでいた。
あの人の影響は、今でも根強く残っていた。
万屋は三人の精鋭で形成されていて、創設から僕が入るまで変わらなかった。ずっと、『特別』だった。だからこそ、『普通』である僕は万屋に相応しくない、と言われていた。部長である聖さんに気に入られていることも気に入らなかったようで。
僕もいろいろ活動していたんだけど。都合の悪いことは忘れているのか、忘れたフリをしているのか。
「聖さんは関係ないですよね。後輩の前で僕に負けたいんですか?」
「二対一なんだぞ?」
「負けるはずないじゃないですか。あなたたちなんかに」
挑発に乗って、二人は殴りかかってきた。
それは柔道技ではなく、単純な暴力で。避けるのは簡単だった。普通のパンチの方が動きが大きくなり、避けやすい。空を切った腕を掴んで引っ張った。相手の体勢が崩れたのを利用して、殴りかかってきているもう一人の前に突き出した。上手く巻き込まれて二人は倒れた。
勢いよく向かってきたのか、地面に強く体を打ち付けていた。自業自得。視線を上げると、下級生が走り去る背中が見えた。
それが普通の反応かな。
「相変わらずだな、由宇」
背後から聞こえた声に、瞬時に振り向けなかった。
この声は。
ゆっくり振り返った。
「学人先輩」
一宮学人。今年の三月に卒業し、四月からは有名な国立、今は独立行政法人の大学に通っている。昨年まで部活の先輩だった人で、万屋の創設者の一人だった。万屋では主に文化部担当で、たまに学力サポートとして、テスト問題を予想したりしていた。
「なんで先輩が……」
「用事があって来たんだが、早く着きすぎてな。先生が来るまで歩き回っていたところで、由宇の声が聞こえた、と」
楽しそうに口の端を上げた。偶然のように聞こえるが、学人先輩なら計算している気がする。信頼しているけど、信用できない人だ。
いつから見ていたのか。
「一宮さん」
「まだ万屋ブランドが残ってるんだな。……まだ、由宇を苦しめているんだな」
まだ痛みに呻いている二人に冷たく言い放った。二人はこの場に学人先輩が現れたのが信じられないような表情で見上げていた。僕だって、このタイミングで現れたのにビックリしている。
何を言えばいいかわからない。そこに、聞き慣れた足音が近付いて来るのが聞こえた。
「何やってるんだ! ってまた須賀か」
語気荒く、武藤先生が学人先輩の後ろから現れた。
「一宮もいたのか」
「ご無沙汰しております。今日は水野先生に用があって来たんです」
「そうか。おい、そこの二人! 見逃してやるから早く部活に戻れ」
武藤先生の一喝に、二人は素早く身を翻して去って行った。
その様子を学人先輩は冷めた目で見ていた。
「一宮。ちょうど昨日、須賀に陸上部の練習に付き合ってもらったんだ。須賀は変わってなかったぞ」
「そうですか。まあ、由宇も万屋部員ですから」
ふっと優しい表情に変えた学人先輩は、前と変わらなかった。みんなの前で作る表情ではない、部活で見せる顔だった。さっきのあの冷たい目は嘘のようで。
前に一度だけ見たことがある、あの目は怖かった。同時に、嬉しかった。
あれは本気で怒っている目だ。それも僕のために。
「一宮が学校に来た理由に、二年前の事件は関係あるのか?」
「あります。二年前、万屋が鎮静化させたあの事件を知るのは先生方と三年生だけです。それが今になって再発したのは」
「誰かがきっかけを作った、か」
また理解できない会話が目の前でされていた。前は小百合と智哉、小百合と真弓で、今は武藤先生と学人先輩。
二年前の事件。小百合が言っていた気がする。昨日ポケットの中に入れたものを取り出した。
「眼帯、ですか?」
手の平に乗せた眼帯を学人先輩は取った。
「由宇、知っているのか?」
「二年前にドラマの影響で流行ったことだけは」
あからさまに二人はホッと息を吐いた。知らない方が良いみたいだ。知らなくて良い、が正解かな。
武藤先生は苛々と頭を掻き、学人先輩に真剣な眼差しを向けた。
「一宮、須賀を巻き込んだのか?」
「これは予定外でした。関係ないことまで再発しています。だから、俺が来たんです」
学人先輩は眼帯を握り潰した。プラスチックがパキっと壊れる音がした。
貰い物だけど、先輩の手で壊されて良かったのかもしれない。この学校での眼帯の意味を知る先輩なら。
「なんでみんな認められないんだろうな」
「努力したくないからです。だから、努力して成功している人を見たくないんです。それは努力していない『自分』を否定することになりますから。聖のように、初めから持っていなくてはいけないんです」
聖さんのように。容姿端麗、眉目秀麗、成績優秀などの言葉がピッタリな人で。加えてお金持ち。初めから全てを持っている人なら、認められる。
僕のように努力して手に入れたものは認められない。
「実際、須賀が万屋部員として活躍していたのが気に食わない奴もいたからな」
「はい。だから文化祭で由宇を主役にして優勝したんですけど。それでも認めないんですね」
学人先輩は、二人が逃げた方を見た。
皆に認められようなんて思っていない。この場にいる二人が認めてくれているなら、それで良かった。認めなくていいから。
放っておいてほしかった。
「由宇、ゴミを出しに行かなくていいのか?」
ゴミ袋を持っているのを忘れていた。ずっと持ったまま柔道部員に勝ち、先生と先輩と話していた。それだけ、非日常な状況だった。
汗ばんだ手でゴミ袋を握り直して、お辞儀した。
「まだ日直の仕事が残っていますので、失礼します」
「またな、由宇。俺もそろそろ職員室に行かないと」
「ああ、俺も部活に戻る」
笑顔で別れた。自然な別れ方だった。




