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ホームにて

作者: 夏川龍治

 雨、結局降りだしちゃいましたね。今朝の天気予報では今日いっぱいは何とか持ちこたえるようなことを言ってましたが。まったく、科学技術はいつの時代もあてにならないものですな。

 いや、失礼。何のご挨拶もなしに見知らぬ男から声をかけられて、あなたもさぞ戸惑ったでしょう。いやいや、ご心配にはおよびません。私は何の特徴もない、ごく平凡なサラリーマンでございます。つい三十分前まで近くの居酒屋で部下たちと飲んでいましてね。ついつい飲み過ぎて、終電に乗り遅れてしまったのです。タクシーを拾ってもいいのですが、余計な出費は女房に怒られますからねえ。失礼ですが、あなた奥様は……いや、失敬。つい先ほど会ったばかりだというのに、ぶしつけな質問でしたね。酔っ払いの戯言だと思って、どうかお許しください。  雨、やみそうにありませんね。この分だと当分は降りつづきそうだな。タクシーを拾うわけにもいかないし、今日はこのホームで夜を明かすことにしましょうか。濡れて帰るよりも、ここで始発を待っていたほうがマシでしょう。

 ……おや、あなたもここに泊まるおつもりですか。ちょうどよかった。五十を過ぎて一人で駅のホームに寝泊まりするのは、さすがにみっともないものがありますからねえ……。

 そうだ。せっかくの機会ですから、私が以前遭遇した、ちょっとこわい体験談をお聞かせしましょうか。どうせこのままじっとしていても、すぐには眠れそうにありませんから。えっ、怪談の類は受け付けない? 大丈夫ですよ、ご安心ください。この話はべつに、幽霊やら呪いやらが出てくるものではありませんから。

 あれは確か、三十年ほど前のことだったかな。私もちょうど働き盛りで、勤労意欲に燃えていた頃でした。季節はおそらく、冬だったと思います。今日よりもずっと寒い一日で、その前後には雪も舞い散るという予報が出ていたくらいですから。

 その日も、今日と同じように会社の同僚と居酒屋で飲んでいました。三時間ほど経ったでしょうか。会もお開きになり、居酒屋の前で機嫌よく同僚たちと別れて、私は一人で自宅へと帰っていきました。居酒屋から家まではそれなりに距離がありましたし、寒空のなか、それも真夜中に一人で家まで歩いて帰るのも嫌だったので、どこか適当なところでタクシーを拾うつもりでした。細長い裏通りを抜けて、もう少しで大通りに出ようかという時、突然、背後から何者かに声をかけられました。

 それは、男でした。私よりもひとまわりほど年上に見える、くたびれた感じの中年男。アルコールが多少入っているのか、頬を薄い朱色に染めて、人のよさそうな笑顔を浮かべていました。

 ほんの少しだけ、お金を貸してもらえませんか――男は言いました。帰りのタクシー代がないから千円だけ貸してほしい、と。私だって鬼ではありません。貸してあげられるものなら貸してあげたいと、財布の中身を確認しましたが、あいにくその時は、千円札が数枚と、小銭がいくらかしか入っていませんでした。それはちょうど、タクシーで自宅まで帰ればきれいに消えてしまう金額でした。

 私は丁重に断りました。申し訳ないが、今あなたにお貸しできるお金はない、と。こちらが誠意を見せれば、相手も納得してくれるだろうと、私は思っていました。

 しかし、相手は引き下がりません。気味の悪いほどの笑みを浮かべて、お金を貸してくれと頼み込んできます。それでも、私は断りました。丁重に、頭まで下げて。

 しかし、なおも相手は食い下がります。人のよさそうな笑みはいつしか消えて、語調にも脅迫じみた響きが滲むようになりました。私はこわくなって、彼に背をむけて懸命に走りだしました。全力で走れば何とか逃げ切れるだろうと思ったのです。

 けれど、運命というのは残酷なものです。男はその風貌には似つかわしくないほどの脚力を発揮し、私に追いつきました。その時の男の眼は、今でも忘れられません。まるで獲物をしとめにかかる野獣のような、獰猛で血走った眼……。

 それでも、私は抵抗しました。背広の胸ポケットをまさぐる男の手を振り切って必死に逃げましたが、野獣と化した人間にはかないません。そして、顔面に鈍い衝撃が一発――。

 気がついた時には、男はもうそこにはいませんでした。財布を確認すると、千円札はもちろん、わずかな小銭さえもきれいに抜き取られていました。あの時ほど、寒々しく、寂しい夜を過ごした日はありません。

 いかがです。背筋がゾッとする話でしょう。この体験から私が学んだ教訓は、人にお金を貸せと言われたら断らない、ということです。どんなに穏やかそうに見える人でも、いざとなれば何をするかわかりませんからね。

 雨、やんだみたいですね。これならタクシーで帰れるかな。女房に怒られても、かまうもんか。実は私、部長への昇進が決まったんですよ。さっきの飲み会も、その祝賀会でしてね。それでは、私はこれで失礼します。またどこかでお会いする日まで……。

 あれ、おかしいな。いやいや、あなたには関係のないことですから。いやしかし、これは非常に困ったぞ……。

 あの、実はですね。財布に小銭しか入っていないんですよ。これじゃあタクシーで帰るわけにもいかないし、かといってここで夜を明かすのも惨めだし……。

 恥をしのんでお願いしますが、ほんの少しだけ、お金を貸していただけませんか。ねえ、後生ですから……。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読み終えた時、不思議な感覚でした。 もう一度初めから読むと、語り手の口調が作り物のように思えてきて、それがまたいい意味で怖く感じました。 終わり方・構成も個人的に好きですが、この物語のような…
[一言] 書き方が斬新ですね。 途中、「だから?」と思ったのですが、最後の最後にやられました。 とても面白かったです。
2011/01/02 16:38 退会済み
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