封鎖線
封鎖線
朝の鐘と同時に、港区の主要路に封鎖柵が立ち並んだ。軍警備隊は「沿岸設備保守のため」とだけ告げ、下層区画への出入りを許可証制に変える。
荷運び組合の車列は門前で止まり、魚箱は日の上がる前から腐り始めた。
「保守って顔じゃないね」
メラが唾を吐くように言う。
「締め出しだよ。人も情報も」
イオナは封鎖線の向こうを見た。監察局の職員章をぶら下げた者まで止められている。局内ですら統制が効いていないのか、それとも最初から局ごと切っているのか。
昼、三人は組合倉庫の二階を臨時作戦室にした。
机の上にはデルガ港の手書き地図。メラが荷運び網の実経路を赤で書き込み、ガルムが封鎖兵の巡回時間を青で重ねる。
「正規路は全部死んでる」
ガルムが指で叩く。
「生きてるのは潮路だけだ。干潮二回、満潮二回。使える窓は短い」
「避難を始めるなら、下層の西区画から先」
イオナは即答する。
「地盤が低い。波形が跳ねたら最初に呑まれる」
メラは腕を組んだ。
「でも公式は『異常なし』だ。今避難を呼びかけたら、うちがデマ元で捕まる」
わかっていた。証拠が足りない。
導体片ひとつでは「偶発事故」で押し切られる。必要なのは、命令系統が見える文書だ。
「ローデンの署名が入った指示書を取る」
イオナが言うと、ガルムは短く頷いた。
「場所は工廠の内務庫。見取りはある」
「あるの?」
「昔、護送で入った。嫌でも覚える」
メラはため息をつき、地図の隅を指した。
「内務庫へ行くなら、荷運び組合の古い通気坑を使いな。今は誰も使ってない。崩れかけだけど、封鎖柵よりはまし」
その日の夕方、封鎖線近くで騒ぎが起きた。
下層区画の女が、病人を抱えて門を通せと叫んでいる。警備兵は規則どおりに首を振るだけだ。
「通行証がない」
「子どもが熱を出してるの! 医者は向こうにしかいない!」
女の声が裂ける。周囲の群衆は足を止めるが、誰も線を越えない。
越えれば拘束されると知っているからだ。
イオナは歯を食いしばった。神罰より先に、人為の封鎖で人が死ぬ。
夜、通気坑の入口へ向かう前に、イオナはメラへ紙束を渡した。
「もし私たちが戻らなかったら、これを明朝の市場で配って」
紙束には、沿岸ノード異常の簡易説明と、最低限の避難持出品リストを書いてある。
メラは受け取らずに言った。
「戻ってこい。配る仕事は本人がやるもんだ」
紙束はそのままイオナの鞄へ戻った。
通気坑は、噂どおり崩れかけていた。石壁は湿って脆く、膝をつくたび砂が落ちる。
ガルムが先行し、イオナが続く。
「距離は」
「百五十歩。途中で二回曲がる」
狭い空間で声は最小限になる。
内務庫の床下へ出たとき、上から書類をめくる音が聞こえた。見張りが一人いる。
ガルムは指を二本立て、三拍数え、床板を押し上げた。
軋み。
見張りが振り向く。
その一瞬で、ガルムの腕が喉元を押さえ、声を潰す。気絶させるまで三秒もかからなかった。
「急げ」
イオナは棚の綴りをひたすらめくる。保守指示、搬入計画、人員配置――違う。違う。
最下段の黒表紙に、ようやく目が止まる。
沿岸負荷調整計画(限定区画対応版)。
開いた瞬間、背筋が冷えた。
文面は明快だった。下層西区画を「緩衝被害区」と定義し、神罰波の初撃を受け止めることで港中枢の被害を減らす。避難優先は中枢区画、下層は「誘導保留」。
末尾に署名。
ローデン。
共同承認欄には、監察局上席の印まで並んでいた。
イオナは紙を複写用薄紙へ転写し、原本を元に戻す。抜き取れば即座に発覚する。
「取れたか」
「最悪の形で」
そのとき、廊下の先で鍵束が鳴った。交代見張りだ。
ガルムは見張りの身体を棚裏へ滑らせ、出口を指す。
「戻る。走るな、音を残す」
通気坑へ潜り直す直前、イオナはもう一度黒表紙を見た。
紙の上の文字は乾いているのに、そこにいる人間の体温だけが完全に欠けていた。
地上へ戻ったころには、夜半の風が強くなっていた。
メラが入口で待っている。
「顔見りゃわかる。ろくな紙じゃなかったんだろ」
イオナは複写紙を差し出した。
「下層を切る計画だった」
メラの表情が固まる。ガルムが低く言った。
「もう『避難の是非』じゃない。『いつ始めるか』の段階だ」
イオナは頷く。
「明日、公式の場でぶつける。逃げ道を消す」
潮風の中、遠くで鐘が鳴る。四日前が終わる音だった。
通気坑へ入る前、ガルムは手袋を外して掌を見た。
古傷が白く走っている。護送隊時代、扉破りと鎮圧ばかり任された手だ。
「どうしたの」
「癖だ。入る前に指が動くか確認する」
イオナは短く頷き、複写紙を胸元へ差し込む。
今夜の目的は奪取ではない。転写して戻す。気づかれず、しかし隠されない形で証拠を持ち帰る。
通気坑の中で、ガルムが不意に言った。
「昔、似た案件があった」
声が壁で反響する。
「沿岸じゃない。内陸の貯水都市だ。堤防を守るために、外縁居住区を放棄する計画だった」
「……実行されたの?」
「された。報告書には『被害最小化』と書かれた」
ガルムはそこで黙った。
それ以上を言わなくても、結果は伝わる。
「だから止めたいの」
イオナが問う。
「止める、じゃない」
ガルムは狭い坑道を進みながら答えた。
「二度と“当然の判断”として通らない形にする」
内務庫で黒表紙を開いた瞬間の冷たさは、イオナの手首に残り続けた。
文章は整っている。整っているほど、そこに暮らす人間の顔が消える。
転写後、撤退中に鍵束が鳴ったとき、イオナは鈴袋を握っていた。
鳴らせばメラ班が外で動く。鳴らさなければ静かに抜けられる。
迷う時間は一拍。
彼女は鳴らさなかった。
理由は単純だった。
今夜必要なのは、成功した潜入という事実だけだ。不要な接触は全て切る。
地上へ戻ったあと、メラはその判断を聞いて短く言った。
「よし。ようやく観測士の顔になった」
イオナは理解する。
観測士は、正しいことを全部やる職業ではない。
限られた時間で、落としていい情報と落とせない情報を選ぶ職業だ。




