鉛色の朝
鉛色の朝
昨夜見た焦げ跡を、イオナはもう一度測っていた。石畳のひび割れ幅、壁面の剥離高さ、熱の抜けた方向。数字に落とせば、感情は暴れにくくなる。
ガルムは路地の入口で見張りに立ち、メラは荷運び連中に口止めを回していた。
「ここだけ焼け方が縦に伸びてる」
イオナが指で示す。
「通常の炉爆ぜなら横に散る。これは上から熱束が落ちた形」
「上、ってのは?」
ガルムが視線を上げる。路地を跨ぐ古い補助導管が走っている。
「試験増幅の漏れ」
イオナは断言した。三年前、監察局で嫌というほど見た痕だ。
そのとき、路地奥の倉庫扉が軋んで開いた。中から出てきたのは、まだ十代の荷運び見習いだった。肩に巻いた布が焦げている。
「……昨日の夜、また光ったんだ」
少年はおびえた目で言う。
「どこが?」
「東の封鎖区画の壁。鐘が二回鳴ったあと、白い筋が走って、ドンって」
鐘が二回。港の時刻鐘なら、二十二時。
イオナとガルムは同時に顔を見合わせた。
「定時試験だ」
ガルムが低く言う。
「毎夜同じ時刻に負荷を上げてる」
イオナは胸の奥が冷えるのを感じた。七日後の閾値超過は偶然じゃない。増幅を積み上げれば、予定どおり到達する。
昼前、三人は封鎖区画外周へ回った。
高い柵の向こうで、軍工廠の煙突が白煙を吐いている。門前には警備兵が二重に立ち、通行許可証のない者を機械的に弾いていた。
「正面は無理」
ガルムが即断する。
「裏導管は?」
「干潮時だけ通れる。今夜なら入れる」
メラが地図代わりの荷札裏へ線を引いた。
「ただし一人しか通れない狭さ。荷運びでも嫌う道だよ」
イオナは線を見て頷いた。
「行く」
「誰が?」
「私が」
ガルムがすぐに首を振る。
「却下。あんたは波形を見る人間だ。捕まったら終わる」
「あなたは波形を読めない」
「読めなくても、捕まるのは慣れてる」
皮肉にも聞こえる言い方だったが、事実だった。
結局、二人で入る案に落ち着いた。メラは外で荷運び網を動かし、見張りと退路確保を担う。
夕方、監察局から公式通達が出た。
掲示板に貼られた紙には、太い字でこう書かれている。
――デルガ沿岸ノードに異常なし。虚偽情報の流布を禁ずる。
通達の末尾には、警告条項まで付いていた。無許可避難誘導は処罰対象。
路地で紙を見上げたまま、イオナは唇を噛んだ。
「先に『異常なし』を出した」
「住民を動かさせないためだ」
ガルムが短く返す。
「今夜、証拠を取る。言い逃れできない形で」
夜。干潮。
海藻の匂いが濃くなったころ、二人は外周の崩れた石積みから導管裏へ潜り込んだ。
膝をついて進むしかない狭い隙間。潮水が手首まで上がる。
導管の奥で、かすかな駆動音が響いていた。
金属が規則的に脈打つ、人工の鼓動。
曲がり角を抜けた先に、小さな監視窓があった。
イオナは泥を拭い、覗き込む。
工廠内の中央架台に、沿岸ノード補助柱が三基立っていた。作業員が計器を合わせ、責任者席には見覚えのある横顔がある。
ローデン。
彼は時計を見て、淡々と命じた。
「第二段階。負荷六十から八十へ」
計器盤が跳ね、白い火花が架台を走る。
イオナの脳内で、見慣れた遷移式が勝手に組み上がる。今の上げ方は、閾値まで最短で積む手順だ。
そのとき、背後で石が鳴った。
警備兵の灯りが、導管裏の隙間を舐める。
「誰だ、そこ!」
ガルムが即座にイオナの肩を押した。
「退け、今すぐ」
二人は泥水を蹴って来た道を戻る。叫び声と足音が追ってくる。狭すぎる通路で振り返れば詰む。
外へ転がり出たとき、メラが荷車を横付けしていた。
「乗れ!」
荷布の下へ潜り込む。荷車はそのまま市場方面へ流れ、追跡の灯りが角を曲がる前に視界から消えた。
息を整えたイオナは、握りしめた手を開いた。
導管裏で無意識に引き抜いた金属片が、掌に残っている。工廠刻印入りの導体片。試験現場由来の物証だ。
ガルムがそれを見て頷く。
「これで『異常なし』は崩せる」
「まだ足りない」
イオナは暗い海の方角を見た。
「次は、命令書そのものを取る。誰が、どの区画を切るつもりか」
風が強く吹き、遠くで鐘が一つ鳴った。
六日目が終わる。
夜の潜入前、メラは詰所の裏で荷運び見習いたちを集めていた。
年嵩の女が地図板を持ち、若い連中が油灯を囲む。イオナが近づくと、会話が一瞬止まる。
「止めないで。聞かせて」
メラは頷き、地図板を立て直した。
「今夜、東封鎖区画の外周で見張りが増える。うちの役目は二つ。ひとつは追跡灯の方向をずらすこと。もうひとつは、帰ってくる道を開けておくこと」
見習いの少年が手を挙げる。
「追跡灯をずらすって、どうやって」
「騒ぎを作るんだよ」
メラはあっさり言った。
「荷崩れ、口論、通行印の照合ミス。兵は規則の匂いに弱い。規則案件を目の前で起こせば、視線はそっちへ寄る」
イオナはその段取りを聞きながら、胸の奥で小さな痛みを覚える。
自分の観測ミスとされた事件の尻拭いを、いま下層の人間が命懸けで担おうとしている。
「無理はしないで」
思わず口にすると、メラは苦い笑みを浮かべた。
「今さら無理の線引きかい。下層で暮らすってのは、毎日が線引きだよ」
言葉に返せない。
メラは声を落とした。
「でも勘違いするな。これはお前のためだけじゃない。うちの区画が“なかったこと”にされるのが気に入らないだけだ」
その台詞で、イオナは救われる。
罪悪感だけで支えられた協力は長続きしない。利害が一致しているからこそ、動ける。
夜更け、潜入へ向かう直前。メラはイオナへ小さな布袋を渡した。
中には細い鈴が三つ入っている。
「撤退信号だ。一本鳴ったら伏せろ、二本で進め、三本で即撤退」
「子どもの遊び道具みたい」
「兵はその音を港猫の首輪だと思う。だから使える」
イオナは布袋を握りしめ、短く頭を下げた。
「戻る。必ず」
メラは肩をすくめる。
「戻ってから言え。港の約束は、帰還後に有効だ」




