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七日後に神罰が落ちる。上層部は「下を切り捨てろ」と言った——私は全員を逃がす  作者: 蒼月よる


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七日予報

 七日予報


 その数字を見た瞬間、イオナの喉は乾いていた。


 潮と魚の匂いが濃い、夜明け前のデルガ下層市場。石畳の隙間にたまった海水を踏みながら、イオナは荷札の束を抱えて歩いていた。

 三年前まで、彼女は港湾監察局の潮位観測士だった。今は荷運び組合の記録係。潮位ではなく、干魚の入荷数と破損箱の数を数える仕事だ。


「イオナ、第五倉庫の帳面、朝のうちに回しておいて」


 組合長メラの声に、イオナは短く頷く。

 頷きながらも、視線は無意識に海を探していた。濁った灰色の海面。防波堤を叩く波の間隔。風向き。癖で覚える情報は、追放されてからも消えなかった。


 三年前の誤報以降、「波を見るな」と何度言われても、身体のほうが先に見てしまう。


 昼前、組合詰所に郵便鳥が降りた。

 足環の封筒は、差出人欄が空白だった。封蝋には監察局の紋章も、軍の印もない。


「お前宛てだよ」


 メラが無造作に放ってよこした封筒を、イオナは受け取った。紙は新しい。だが中に入っていた記録紙は古い計測フォーマットだった。

 潮位変動、魔素波形、沿岸ノード負荷率。三年前まで彼女が毎日読んでいた形式だ。


 ありえない、と思ったのは最初の三行だけだった。


 四行目で、呼吸が止まった。


 沿岸ノード負荷率、九十二。

 予測遷移、七日後に閾値超過。

 附記――「自然波形ではない。人為増幅の痕跡あり」。


 紙を持つ指が白くなる。

 数字が正しければ、デルガ沿岸は七日で神罰圏に入る。港の全区画が消える規模ではないかもしれない。だが下層区画は確実に呑まれる。


「顔色、悪いよ」


 メラの低い声が背後から落ちた。


「……監察局に連絡する」

「監察局?」


 メラは片眉を上げる。


「お前を切った連中に?」

「だからこそだ。これは私情で捨てられない」


 詰所の通信端末は、監察局向け回線だけ通話制限がかかっていた。

 呼び出し音が三回鳴って切れる。四回目も同じ。五回目で、ようやく機械的な声が返った。


「監察局受付。要件を」

「元潮位観測士イオナ。沿岸ノードの緊急波形ログを受領した。七日後――」

「登録照会。……該当者は監察対象外です。正式報告権限なし」

「権限の話じゃない。記録を見れば」

「通話を終了します」


 無機質な断線音だけが残った。


 イオナは受話器をゆっくり置いた。

 怒りより先に、既視感が来る。三年前と同じ手順だ。報告前に権限を剥がし、数字そのものをなかったことにする。


「切られた?」


 メラが聞く。イオナは頷いた。


「なら、こっちで動くしかないね」

「こっちで?」

「荷運びは港の血管だ。どこが詰まってるかくらい、私らのほうが知ってる」


 メラは机の端を指で叩いた。


「ただし一人で突っ走るなら、止めるよ。お前、数字を見たら自分を捨てる癖があるから」


 痛い指摘だった。

 イオナは返事を作る前に、封筒の中をもう一度確かめた。記録紙は一枚だけではなかった。折り畳まれた小片がもう一つある。


 開く。短い手書きだった。


 ――監察局の中はもう使えない。

 ――護衛役をそちらへ送る。信用はするな。使えるなら使え。


 その下に、時刻だけが記されていた。


 今夜、二十二時。旧灯台裏。


「護衛役?」


 メラが覗き込む。イオナは紙を畳み、胸ポケットへしまった。


「罠の可能性が高い」

「行くの?」

「行く。行かない理由がない」


 夜の旧灯台裏は、人の気配が抜けた場所だった。

 ひび割れた石段、潮で錆びた欄干。見張りに適した陰が多い。罠を張る側には都合がいい。


 約束の時刻ちょうど、背後で靴音が止まった。


「元観測士イオナだな」


 振り向くと、長身の男が暗がりに立っていた。短く刈った髪、軍払い下げの外套、右頬に古い裂傷。

 彼は名乗る前に、イオナの手元の封筒を見てから言った。


「ガルム。護送隊あがりだ。今日からあんたの監視役でもあり、護衛役でもある」


 監視役。

 最初から穏やかにする気はないらしい。


「誰の命令?」

「答えるなと言われてる」

「じゃあ何を答えられる?」

「一つ。あんたの受け取ったログは本物だ」


 ガルムは短く続ける。


「そして、波形は自然発生じゃない。誰かが増幅してる」


 イオナは息を止めた。

 紙に書かれていた最悪の仮説を、初対面の男が同じ順序で言った。


「証拠は」

「明日見せる。デルガ港湾台帳の原本だ。欠落がある」


 ガルムの視線は、旧灯台の先――暗い海ではなく、港湾管理区画の方角を向いていた。


「七日しかない。信じるかどうかは、歩きながら決めろ」


 潮風が強く吹き、灯台の割れた窓が小さく鳴った。

 イオナは返事をしなかった。代わりに、一歩だけ前に出る。


 歩いたという事実が、答えになった。


 旧灯台を出たあと、イオナはまっすぐ詰所へ戻らなかった。

 潮風の強い坂を一人で登り、かつて監察局で夜勤明けに必ず立ち寄っていた崖端の観測柵まで歩いた。錆びた手摺りに触れると、金属はまだ夜の冷たさを残している。


 三年前、誤報と断じられた朝も、同じ手摺りに両手を置いた。

 あの日は海が異様に静かで、逆に怖かった。波形は明らかに跳ねていたのに、会議室では「誤差だ」の一言で片付けられた。議事録には、彼女が示した導関数の式が丸ごと削られ、「若年観測士の過剰判断」とだけ書かれた。


 式が嘘をつかないことを知っている人間ほど、あの議事録を読んで笑う。

 それでも笑ったまま、署名する。


 イオナは胸ポケットの匿名メモを取り出し、夜露で湿った紙端を伸ばした。

 ――監察局の中はもう使えない。


 その一文が、今になってようやく実感に変わる。

 使えないのは建物ではない。仕組みのほうだ。報告書が上に行く前に、都合のいい形へ成形される仕組み。誰かを守るためではなく、誰かの責任を薄めるために働く仕組み。


 それでも、彼女は観測士だった。

 観測士は、怖いものに名前をつける仕事だ。


 下で市場の鐘が鳴り、夜明けの仕分けが始まる。

 イオナはゆっくり紙を畳み、掌で一度だけ強く押した。


「七日」


 声にすると、数字は輪郭を持つ。

 輪郭を持った恐怖は、まだ処理できる。


 彼女は柵を離れ、坂を下りた。

 戻る先は監察局ではない。だが、動かすべき港は同じだった。



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