匿名観測塔
匿名観測塔
塔は古い。窓枠は歪み、階段は潮で削れ、記録机の脚は一本だけ長さが合っていない。だが計器は生きていた。銀針は細かく震え、沿岸ノードの負荷を夜ごとに吐き出す。
外套の人物が一人、計器盤の前で紙を差し替える。
灯りは最小。窓には布を掛け、海側から見えないようにしてある。
紙へ走る波形線は、自然潮位の曲線からわずかに外れていた。
最初は誤差に見える。だが誤差が同じ時刻で積み上がるなら、それは手順だ。
「……やっぱり前倒し」
人物は低く呟き、デルガ沿岸の符号欄へ丸をつける。
丸の横に短く書く。
七日。
机の引き出しから、旧規格の記録紙を取り出す。監察局内でまだ使われていた形式だ。今は廃版になったはずの書式。廃版の書式ほど検閲をすり抜けやすい。
筆先が止まる。
宛先をどう書く。
監察局は使えない。
行政も遅い。
現場だけが速い。
人物は最終的に、個人名を書いた。
イオナ。
三年前の議事録改ざんで追放された観測士。
追放されたからこそ、今は動ける。
封筒へ記録紙と短いメモを入れ、差出人欄は空白のまま閉じる。
封蝋は使わない。目立つ。
塔の外で郵便鳥を放つと、羽音はすぐ闇へ溶けた。
人物はもう一度だけ計器を見て、次の沿岸符号へ視線を移す。
デルガだけではない。
同じ波形が、北へ、東へ、点のように広がっている。
灯りを消す直前、人物は紙端へ符号を残した。
N-3。
誰にも読めないような、読める者には十分すぎる印。
海は暗く、まだ静かだった。
静かな海ほど、準備された災害に向いている。




