第37話 抜け出せた者たち ~触覚だけの世界へ~
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「ま、待って—!」
横道に入った途端、全速力で走り出した男に女が縋りつく。
一人取り残されてなるものか!
鬼気迫る形相だ。
「うるせぇ! 邪魔なんだよ!」
自分の身を守ることしか考えていない男は振り払うように脚を振り上げた。
女の視界が一瞬白く弾け、置き去られる。
男はそのまま、わき目も振らずに逃走していく。
これ以上モンスターと遭遇する前に、63階層へ戻ろうというのだろう。
すぐに、『オオサソリ』さんと相対してしまったが。
「チッ! 今度は59階層のフロアボスかよ! ツイてねぇ!」
運不運の問題ではないのだが、彼にそんなことはわからない。
「おい! 手伝え!」
鼻血を大量に噴き出している女の手を掴んで引っ張った。
ポーションを取り出そうとしていたようで、手にしたばかりの腕をだ。
まずはポーションを飲むのを待つべきだろうに。
「ざけんな」
短い言葉。
感情のない平坦な声が応じる。
「あ?」
男は上下逆さまになって飛んでいた。
女は拳闘士、近接職なのだ。
素手での戦いに特化している。
男は奇麗な放物線を描いた。
「ガハッ! く、クソがぁー!」
投げられ、床に落ちた男の腹にサソリの毒針が迫ろうとしている。
「このぉ!」
死に物狂いで剣が振り回される。
ガキン!
渾身の一撃は甲殻に弾かれた。
『大百足』ほどではないにしても、物理耐性が高いのだ。
「クソが! ナメんな!」
剣を握ったまま、力を溜める。
「喰らいやがれ! ジャスティスソード!」
頭上に光り輝く大剣を召喚、突き下ろす。
毒針のついた尻尾が切り離され、転がった。
「見たか、正義の剣! 聖騎士の一撃だぜ!」
自信満々胸を張っている。
「ただの神聖騎士でしょうが、サショウすんな」
女がぼそりと呟くが聞いちゃいない。
「ハハ! とどめを刺してやんぜ!」
勝利を確信し、吠える男。
その手に剣は握られていないのだが・・・。
「あ?」
自分の腕を見下ろして不審な顔になる。
その顔がみるみる青褪めていく。
恐怖だろうか、歪んでもいた。
腕に傷がついていた。
なにかに引っ掻かれた痕だ。
転がっている尻尾を見る。
鉤のある毒針が付いていた。
「げ、解毒剤を寄こせぇ!」
女を振り返って怒鳴るが、「ハン!」。
返答は素っ気ないモノだった。
「女の顔を本気でケルようなクズにくれてやるものなんかない!」
恵んでくれとでもいうなら同情もできるが、「よこせ」と来た。
1ミリも心が動かない。
顔へのケリが女性に与えた痛みと屈辱は、サソリの毒以上に効果を発揮している。
「仲間を見捨てる気かぁ?!」
正義を標榜していた奴に似合いのセリフが出た。
ツゴウのいいときにだけ連発される類のものだ。
あまりに軽い。
「いまさらね」
だから、女の反応も軽く、冷たかった。
「あたしら全員。昨日一人見捨てて殺してるよ? 一人も二人も変わんなくない?」
「ぐッ、そ、それは!」
それこそ自分だけじゃない。なんならおまえもだろ!?
男が言い返そうとするが、女は待たなかった。
「まして、あんたは個人的に恨みがあるし」
ギルティ! と首を切るジェスチャーをしながら、血の付いた腕を見せる。
ポーションで折れた鼻は治っているし痛みもないが、蹴られた事実が消えることはない。
「て、テメェ・・・ッ!」
ガン!
何か言おうとしていた男が口を閉じた。
顔面に、サソリのハサミが裏拳でキマっている。
奇しくも、さっき女を蹴った、その場所だ。
鼻を潰され、歯も数本折れたようだ。
意識も飛んだのだろう。
床に崩れ落ちる。
「ハッ、ざまぁ!」
心の底からの侮蔑が贈られた。
「じゃーねー! サソリのエサさん!」
サソリがカシャカシャ音を立てて男の元へ歩み寄るのを見て、女は背を向けた。
男が食われている間に逃げる腹積もりだったのだ。
蹴られたのが顔でさえなければ、63階層までは一緒に行動することもありえたかもしれないが、顔はない!
「爆弾男とでも仲良くするがいいさ。もっとも、あたしがアイツなら、やっぱ顔面蹴り飛ばすけどね!」
毒を吐いて踵を返す。
サソリの横を通る気にはなれない。
遠回りにはなるが、反対側の通路から逃げようというのだ。
「イタっ!」
駆けだそうとしたとこで、つんのめった。
「なによ、コレ!?」
変なでっぱりがあることに気が付いて眉を寄せる。
ブヨブヨしているようで弾力のある『ナニカ』だ。
周囲が妙にテカテカしていた。
ネバついているようにも感じる。
「なにかが這った跡?」
首を傾げそうになって頭を振った。
そんなヒマはない。
サソリがエサに食いついているうちに、できるだけ遠くへ逃げなくてはならないのだ。
ネバついているところを避けて走るルートを見定め、走り出・・・せない。
「ぐっぐぅぅぅ」
『ナニか』が背中に覆いかぶさった。
重さと粘り気が、膝を沈める。
圧迫された肺が、呼吸を浅くする。
「ひ、ひゃん!」
服の隙間から冷たい違和感が入り込み、意識を揺らされる。
「あ、クッ、ひゃハ!」
いろんな感情がないまぜになる中、体の震えが止まらない。
逃げなければならないのに、力が入らない。
べちゃ!
ほんの一瞬、完全に力が抜けた。
立っていられず、床に寝そべる格好になる。
『ナニか』に背中を覆われ、体からも心からも温度が失われていく。
「あ、や、ヤバッ!」
立っていたときでさえ、どうしようもなかった。
さらに影響が増していく気配に焦燥感が止まらない。
マズい!
焦って拳打を放つが・・・。
グニ!
柔らかく弾力もある『ナニカ』は衝撃を吸収してしまう。
ヌルヌルも力の分散に貢献しているようだ。
ヤバイ!
そう思うのに・・・。
「あ、ひゃっふぅ!」
頭は焦っている。
体は動けない。
感覚には違和感が張り付いたまま。
口からは笑いに似た音が漏れていた。
目は険しく、全身の筋肉は緊張で強張っている。
なのに、感覚には靄がかかっていた。
ゆっくりとぼやけていく。
視覚は色を失い。
嗅覚は意味を失くし。
聴覚は音を忘れた。
味覚はわからない。
わかるのは、まだ自分がここにいるという存在感。
それだけを触覚が教えてくれる。
それは逃避。
それは諦念。
極限にまで高まった恐怖が、現実から逃げろと囁いている。
「い、いやよ!」
こんなところで!
こんなのに!
やられてたまるか!
絶望を怒りに換えようとするが
「あフ!」
恐怖の誘いは止まらない。
もういいだろ?
力を抜いて目を閉じろ。
結果は変わらない。
もがいても、もがいても、逃れられない。
女の意識はゆっくりと闇に溶けていく。
触覚だけの世界へ。
巨大ナメクジが織りなす影の向こうへ。
感覚が霧に包まれ、世界が遠ざかっていく。
◇
「いやー、見応えがあったね!」
上機嫌にカルマは言った。
ウィンドウで確認した主力たちのことだ。
「緊迫感の中に笑いがある。裏切りの連鎖、ゾクゾクするよ!」
作り出した『わたしたち妖怪』を引き連れて歩いていく。
笑いながら歩くその背中に、誰も声をかけることはできなかった。
彼の狂気は、あまりに静かで、あまりに正確だった
通ったあとには何も残らない。
靴下一枚さえも取り込んで、妖怪に変えていく。
明らかに壊れている。
精神が病んでいるのがわかる。
だけど、わかるだけだ。
『妖怪』として蘇らされたモノには何も言えない。
彼が壊れた理由のほとんどが自分たちなのだから・・・。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




