紋次郎転生ス。
「話を聞いているんですか? 刈谷紋次郎さん」と、その女神は言った。
「は、はい、すみません」
我に返った俺はあわててそう答える。
「あの、やっぱりこれは夢じゃないんですよね」
「ええ、もちろん。お気の毒ですが、あなたはスマートホンを拾おうとしてトラックにはねられ、そのまま亡くなりました」
確かにそのことは俺も覚えている。そして今こうして、異世界に転生するか、この世界で輪廻の輪に入るかの選択を迫られてるってわけだ。俺だって四十九年間の人生で数々のゲームやアニメにはまってきた身として、異世界転生のシーンになじみがないわけじゃない。
「それで、その……、女神様はなぜそのお姿なんでしょう?」
そう、俺が気になっているのはそこだ。女神の容貌も衣装も、かつて俺がプレイしていたソーシャルゲーム『女神聖戦(略称メガセン)』のSSRキャラクター、第七使徒フィデリアそのものなのだ。
「あなたがそれを尋ねるのですか?」と女神は苦笑しながら言った。
「超越者である神には、そもそも姿・形などありません。人間の前では、その者が最も尊いと感じる姿で顕現するのです」
「なるほど……。だから、元のキャラクターが女神ではなく使徒であっても矛盾しないんですね」
「あなたにとって、この姿こそが至高なのでしょう?」
「ええ」
四年前の十月から約二年間、俺は『女神聖戦』をプレイしていた。その後半の一年、フィデリアはまさに俺のイチバンであり、すべてだった。メガセンでは使徒(すべて女性)と彼女等をサポートする聖獣、計十体の部隊を作って、個人のランキング戦や団体戦「ラグナロク」を行う。全員SSRの使徒の中でも、激レアの二属性持ち(火と水)である第七使徒のフィデリアは、リリースされた瞬間から俺たちを虜にした。完全体を手に入れるためのガチャと育成アイテムの購入で、どれだけの課金を余儀なくされたことか……。そして、ついに俺は、彼女の唯一の弱点である地属性を補完する第九使徒システィナとの究極のコンボ、エレメンタル・ヌリフィケーションを完成させ、闘技場の頂点に立った。しかし、栄光の時はあまりにも短かった。十日後、彼女達のスペックをはるかに上まわるSSR四体の連続リリースが発表されたのだ。
ライバルが登場するのは別に構わない。重課金者が課金を止めたらたちまち行きづまる世界だってことも理解している。でも、なぜフィデリア達の能力をブーストするキャラなりアイテムなりをリリースしないんだ? 俺はそれが当然だと信じ、ただひたすら待った。だが、何も起こらない。新SSRが二体投入された時点で、フィデリアとシスティナは完全に過去の遺物になった。育成途中の新キャラにすら易々と倒される二人の姿に俺の心は折れ、ゲームから引退した。残されたのは〇百万の借金と、会社の窓際の席だけだ。
運営は俺達の心を読み違えたんじゃないだろうか? 同じ頃、俺のサーバだけで少なくとも二人、重課金者が引退している。プレイヤー満足度ナンバーワン(オ〇コン調べ)を謳っていたゲームだが、あの時、潮目が変わったように思う。
そのフィデリアが今、女神として俺の目の前で微笑んでいる。八・五頭身のしなやかな肢体、流れるようなブロンドの髪にエメラルドグリーンの瞳……。まさか最期に等身大、3D仕様のフィデリアと対面する機会に恵まれるとは!
「あの、女神様」
「何でしょう?」
「フィデリア様とお呼びしても?」
「ええ、構いませんよ、フェイユン。あなたはいつも私をそう呼んでいましたものね」
「その名までご存じで……」
フェイユン(飛雲)というのは、俺のプレイヤーとしてのハンドルネームだ。パソコン通信の時代から使っている。今こそ受肉は果たされた! 俺の胸の中で何度も『ハレルヤ』が鳴り響いた。
「フェイユン、フェイユン!」
「は、はい」
「あなた今、輪廻の輪に入りかけていたけれど、もう一つ選択肢があることを忘れないでね。わたしとしては、そちらを選んでくれたほうが助かるのだけれど。もちろん加護もつけてあげるわ」
「異世界転生でしたね。それで一つわからないことが。普通、そういう特別待遇って、何か良い事をした者に与えられるじゃないですか、でも、俺の場合はスマホを拾おうとしただけで……」
九月二十九日、午後七時四十五分。ソシャゲ『カプリシャス・ウィッチ』一三七サーバの同盟「アウロラ」の盟主を務めている俺は、軍師マカロン氏とのチャットを終え、団体戦「ワルプルギス」に向けた宣戦布告を行おうとしていた。朝一つだけ行なった布告は陽動で、締め切りの八時直前に布告する二城が、本命の攻略対象だった。
「あんた!」
突然の声に振り向くと、嫁がものすごい形相で俺を睨んでいた。
「また課金したわね。二度としないって約束したから目をつぶってやったのに……」
「いや、あれはゲームの懸賞が当たったから、メンバーにおすそ分けのジェムを配ろうと課金しただけで」
「うるさい! 課金は課金でしょ。毎日、同盟、同盟って、仕事も家族もそっちのけ、バカじゃないの?」
嫁はそう言いながら俺からスマホをひったくった。
「わかった。俺が悪かった。な、少し落ち着こう。家事も、お義母さんの世話もちゃんと手伝う。だから、とにかくスマホは返してくれないか? 今日の布告だけは俺がやらないと、メンバーのみんなに迷惑をかけてしまう。明日からは誰かに頼むから」
「これだけ言っても、その口から出てくるのは、同盟、メンバー……、もういい、スマホを使いたけりゃ、外でやれ、帰ってくんな!」
「やめろ!」
嫁が何をするつもりなのか気づいた時にはもう遅かった。あいつは俺の脇をすり抜けると、部屋の窓からスマホを投げ捨てた。俺は追い討ちをかけるような怒鳴り声を背中に浴びながら階段を駆け下りた。
「出てけ! もう帰ってくんな!」
スマホは車道の真ん中に落ちていた。俺の部屋は二階だが、フタ付きの保護ケースに入れていたおかげで、そこまでひどいダメージは受けていないようだった。布告まで残り三分といったところか……、とにかく、まずは布告だ。言い訳を考えるのはそれからでいい。とその時、猛スピードで飛ばす大型トラックが目に入った。
言っておきたいのは、俺が我を忘れて道に飛び出したわけじゃないってことだ。俺もそこまでバカじゃない。ギリギリだが、スマホを拾って渡り切れるはずだった。ところが、焦っていたのか、俺は歩道と車道の段差に足をとられて、車道の真ん中に倒れ込んでしまった。ものすごい衝撃とともに何千という針で全身を刺されるような痛みが押し寄せ、俺は意識を失った。やがて、気がついてみれば、目の前には等身大のフィデリア様がいたってわけだ。
「意識していたわけではないけれど、一応人助けはしているのよね」
「?」
「あのトラック、私の予知では二キロほど先で信号無視をして、横断中の男子高校生を死なせてしまうはずだったの」
「その高校生が本来の転生者……」
「ええ、わたしが管理している世界に召喚して、ある仕事をしてもらう予定だったんだけれど、彼の寿命、今回の一件で少なくとも六十年は伸びたわね」
「代わりにその任務を?」
「ええ、もし引き受けてもらえるのなら。わたしが予知した未来を変えたくらいだから、資質はあると思うわ。そうそう、あの運転手、スマートホンでゲームをしながら運転していたの。あなたがやっていたものとは違うけれど。かなりの額の慰謝料が支払われるから、残された方々のことは、心配しなくても大丈夫」
俺には子供がいない。嫁と義母は俺のことをソシャゲにはまった厄介者としか考えていないから、俺の借金を背負わされることがないというなら、これでサヨナラだ。
「任務の内容をうかがう前に、ひとつ確認させていただいても?」
「どうぞ」
「フィデリア様の世界で任務に当たるとなれば、今後もこんな風にお目にかかる機会があると考えてよろしいのでしょうか?」
「必要なアドバイスや加護はいつでもあげるから安心して。あ、もちろん、あなたの達成感を奪わない範囲でね」
さすが、よくお分かりになっている。チートスキルで無双して楽しいのは、ままならない現実とのギャップがあってこそだ。俺としては、地道な努力を重ねながら、折に触れてフィデリア様の姿を目にし、この澄みわたった美しい声が聞けるというのなら、それ以上望むことはない。
「わかりました。ではこのフェイユン、フィデリア様の御心のままに、誠心誠意努めてまいります」
「ありがとう。あなたならきっとそう言ってくれると思っていたわ。それじゃ、任務の内容を説明するわね」
俺の心中を察した女神フィデリアは、俺の顔を見つめて優しく微笑んでから話を続けた。
「あなたの任務はソラノ公国という小さな国を再建すること。わたしの世界は四つの大国が覇を競っているのだけれど、そのすべてと国境を接しているという厳しい立地条件の中で、巧みな外交術と人材発掘の才で公国に飛躍的な発展をもたらした名君がリルケ大公だった。ところが最近、大公の弟のライプニッツ公爵と、大公の懐刀と称された宰相、ハンス・シューリヒトが不慮の事故と急病で亡くなってしまい、ソラノ公国は今まさに存亡の瀬戸際に立たされているというわけなの」
「目標はわかりましたが、具体的には何をすればよろしいのでしょうか?」
「それはお任せします。フェイユン、あなたが有益だと思うこと、試してみたいことをどんどんおやりなさい。そうそう、あの世界の科学のレベルは、あなたがたの世界で言うと五百年前くらいかしらね。ただし、魔法があるから、生活水準にはそこまでの差はないわ。それと、転生の方法だけど、あなたの魂をハンスから宰相の座を受け継いだ長男、ヨハン・シューリヒトの魂と融合させることにします」
「魂の融合、ですか……」
「心配することは何もないわ。あなたの中にはヨハンの記憶が、ヨハンの中にはあなたの記憶が生じる、ただそれだけ。肉体はもちろんヨハンのものを使います。二十七歳になったばかりで、あなたの世界の言葉で言うと、なかなかのイケメンよ」
若返った上にイケメン貴族になれるのは有難いが、四大国に囲まれた小国……、確かに過酷な立場だ。リルケ大公というのはよっぽど優秀な君主なんだな。大公が治めているから公国か、モナコ公国って国があったっけ。あの国も確かヨーロッパの小国だった。女優が大公妃になったとかいうシンデレラ・ストーリーみたいなものがあったな。小国だがカジノのおかげで潤っていた。ん? 公国、カジノ、ソシャゲ、女神の加護…… 突然、それらのものが俺の頭の中でひとつにつながり、あるアイデアがひらめいた。
「フィデリア様、お話ししたいことが」
「あら、何か思いついたようね」
この声が聞けて、この瞳で見つめてもらえるなら、何だってやってやる! もしかすると、こんな気持ちで行動する者のことを使徒と呼ぶんじゃないだろうか? 俺はそんなことを考えながら女神フィデリアにアイデアを説明した。
俺のアイデアを聞き終わると、女神はさっそく転生の儀式を始めた。
「むこうの世界のことはヨハンの記憶でわかるから、すぐに転生してもらうわね」
「はい」
彼女が開き気味にした両腕の掌を俺に向けると、そこから放たれたまばゆい光が俺を包み込んだ。
「異世界より来たりし魂を我が民、我が使徒となす。では、近いうちにまた会いましょう」
ヨハン・シューリヒトの記憶が流れ込んでくる時、俺は高速再生されるビデオを観ているかのような感覚を味わった。俺より二十二歳も年下だが、教養や状況の分析力は彼の方がはるかに上だ。幼い頃から英才教育を施されてきたのだろう。女神様の加護と彼の才知があれば、計画の成功は約束されたようなものだ……
「シューリヒト卿、シューリヒト卿、大公の御前ですぞ」
耳元でささやく声とともに軽く左脇を小突かれて、俺は我に返った。ささやき声の主は財務相のカール・チェンバレン侯爵だ。俺たちは公国の建て直しに向けた閣僚会議の最中だった。正面に座ったリルケ大公が好奇の目を俺に向けている。先月六十五歳の誕生日を迎えたところだが、気力・体力ともに、微塵も衰えを見せていない。
「思索にふけっているわけでもなければ、放心しているわけでもない、何とも言えぬ不思議な表情をしておったぞ」と大公は言った。
俺は椅子から立ち上がると、新世界の空気で一度深呼吸してから答えた。
「陛下、並びにご列席の方々、私はただ今、美と芸術の女神、フィデリア様より神託を賜りました。女神様は首都ヘッセに神殿を建てよと仰せです。さすれば我らが公国はこれまで以上の繁栄を享受するであろうと。それから、フィデリア様の使徒としての私のことは、どうかフェイユンとお呼び下さい」