撞球
「ハスラー2」の映画が公開されるとビリヤー ド場が増え始めた。その頃
の僕は、青春のすべてをテニスに捧げていて、ビリヤードは友人達と暇をつ
ぶす手段の一つにすぎなかった。
そこは外と切り離されたような空間だった。整然と並ぶプールの台、BGM
のジャズの曲、目がチカチカするほど溜まった煙草の煙。球の弾ける乾いた
音、壁にはビール銘柄のネオンサインが揺らめいている。若々しいミカンの
ような緑の羅紗。その上には、八つの色に十個の色分けされた球が散らばっ
ている。
僕はこの遊びのビリヤードに後々、テニス以上に心奪われ、やがて、ビリヤ
ードが僕の世界の中心になっていくとは、その頃一つも考えていなかった。
僕は一人でビリヤードの練習している。厚みの練習で的球に白い手玉を
当ててポケットに入れる基本的な練習をしている。ブレイクショットで球を散
らばす。 一番近くて入り安そうな 球から順に入れていく。同じ練習を繰り返
す。
少し飽きてくる。今度はポケットの前に的球を置き、手玉との角度を変えて
みる。手玉から的球を正面ではなく、少しずらした位置に置くことで、撞いた
ときの角度が、どう変わるかを確かめる。的球に当たる「厚み」の感覚を養う
練習だ。これを理解できなければ、ビリヤードは成り立たない。球の配置を
変えながら、もう三ヶ月もこの練習を続けている。厚みを正確に判断できるよ
うになるには、数をこなして慣れるしかない。
店のスタッフたちは、殆ど休みなく球を追い続ける僕を、奇異に見えるよう
だ。時折、遠巻きに僕の様子をうかがう、その視線が突き刺さる。いたたまれ
なさに、彼らの視線を切って、僕は台の球に視線を移す。
最初は、一人きりの練習にどこか居心地の悪さを感じていた。だが、今は
慣れた。
僕の隣の台では派手に着飾った若いカップルが遊んでいる。すごく下手で、
たまに球がポケッ トに入ると喜んでいる。彼らは数有るビリヤードゲーム
の中のナインボールをしている。難しいゲームなのでなかなか球が入らない
。良く見 ると女は左手の指輪が邪魔でブリッジが出来ない。握り拳でシャフト
を摘まむようなバランスの悪いブリッジをしている。それでもまぐれで球が
入ると、両手を上げてキャッキャッと喜んでいる。男は耳にピアスが付いてい
る。スーツを着たまま球を撞く。男はキューを持つとタップ にチョークを付け
た。チョークは何人もの人が使って彫り込んで小指の先が入る程の穴が空い
ている。男も同じように穴にタップを入れて、まるで原始人が火を起こすよう
にチョークを擦り付けた。タップの後ろの白い先角【さきづの】に傷が付いて
しまう。男は構えて手球を的球に向けて力の限り打ち込んだ、手玉は弾かれ
ポケットテープルの外に飛び出してしまう。女が「ファーハハハ」と大笑いす
る。僕も聞こえないように笑いを押える。男は笑いながら手玉を探しに行く。
この場合、ルール上はファー ルだ。男は一応ルールを知っているみたいで、
女と交代した。女は男から手玉を受け取ると自分の撞きやすい所に置いた。
ゲームは台の上の最小数字を当てて落す、または、最小数字に当てそれから
他の球に当て落とす。いずれにしても9番を最後に落とした人の勝ちで、例え
1から8まで続けて落しても9 番で失敗すれば相手の勝ちになる。従って、勝負
は最後までどちらが勝つか分からない。
今度はキューを縦 に高くそびえ立たせ、男が高度な技、マッセの構えをした、
力の限り手玉を上から突き、弾かせた。どの的球にも当たらずクッションに跳
ね返って止まった。チョークの青い粉が打った所の羅紗に付いた。
一度、台を組み立てている所に出くわした事がある。ビリヤードの球は硬い、
その硬い球を受け止める羅紗の下にはスレートと呼ばれる平らの黒い石があ
る。その石を三枚並べて置いて繋ぎ合わさせている。その繋ぎ目の僅かな隙
間を埋めるために、白い石膏の液を流し込む。余分な盛り上がりを、紙鑢で削
って平にならす。 一回で埋まる事は出来ないらしく何時までもその作業をやっ
ていた。 羅紗の張り方には驚いた。あの大きな繊細なテーブルにピ ンと張ら
れているのだから、 羅紗はテーブルの裏で巾着袋の口みたいに紐で絞って
張ったり、 あるいは機械的な仕掛けがあると思っていた。 が、以外にも単純に
ホッチキスを一回り大きくしたようなタッカーでスレートの下の木の台に無
造作に羅紗を留め始めた。
ビリヤードは上手くなるほど台の個性が分かり始める。台の個性は組み立
てる時に出てくるようだ。
男のフォームは少し頭の位置が高くスタンスも狭すぎる。下手なくせに素
振りに時間を掛けずに撞いてしまう。結果、球はコントロールされずゲーム
は組み立てられない。
僕は以前とは格段に良く見えるようになっていた。彼らはビ リヤードで楽
しんでいる、それはそれで、良いのだ。
僕は高校卒業の後、会社勤めをしていた。
仕事で知りあったKのビリヤードは強烈だった。的球を木製のトライアング
ルでひし形に囲い並べた後、ブレイクショットを打つ。このブレイクショット
のフォームも全身を弓のようにしならせて手玉へのインパクトの瞬間に全て
の筋力を集中させる。
ラックされた的球に当たる瞬間、手玉は勢いあまって空に三十センチ位も
飛び上ってしまう。しかも、ブレイクショットだけで2個も球がポケットに落ち
た。Kはキューのタップにチョークを丁寧に塗り付ける。難しい球の配置は少
し考えるものの一度もミスする事もなく球は台の上から全て片付けられてし
まった。 そして撞き終わるのに時間が10分程度しか掛らなかった。
「すごい! 全部撞き切っちゃった」
「久々、全部撞きった、めったに出来ない。マスワリっていうんだ」
「途中から、難しい5番を落した時に撞き切っちゃうかなと思ったんだ」
「リズムが出来てたからな」
それまで僕は、派手に球を走らせるのがビリヤードだと思っていたが、以外
にもソフトタッチにキューを振りぬき、手玉をコントロールして、次の的球の
狙い易い位置に手玉を持っていく。体の動きも無駄が無い。一度フォームを
決めると迷う事なく手玉を撞く。そこには遊びではなく洗練さたものを感じさ
せた。
Kは僕のあまりにひどいフォームを見兼ねて、 一から手ほどきをしてくれた。
「いいか、シャフトの先の方を台に引っかけて、 右手はキューを軽く握る。
そう、卵を握るように軽く」
僕はKがするようにバットの糸が巻いてある所を持った。実際の所、キュー
の重心より10センチほど後ろを握る。まるでヤジロベエのように、絶妙なバラ
ンスを取る。この位置もキューの重さや自分の体の癖によってわずかに違っ
てくる。
Kは自分のキューを持っている。キューのバットにはシャープなハギの模様
がある。シャフトの先を台の木目の外枠に引っかけながら、Kはフォームを構
える。
「スタンスは左足を一歩踏み出して、体重は均等に分けて、かがんで構える」
Kのフォームは頭の位置が低く右腕からキュー先にかけて、くさび型に鋭く見
える。このフォームは球の厚みを真後ろから正確に狙う。 フォームに決まりは
ない、頭の位置を高くして腰からキューを振る人、お尻を左に突き出して首を
キューに合わせて曲げる人。さまざまあるが、いずれにしても体が安定してい
なければキュー は真っ直ぐ出ない。
「右肘を頭の後ろに持ってくるんだ」
Kは僕の右肘を引き上げた。このフォームでキューを振ると腕が電車のパン
タグラフの様にキューを振り出す。
この時、ただ持っている分には軽いキューが、フォームを構えるとたん、右
の二の腕に重くのしかかってくる。 そして、慣れないためかシャフトを支えて
いる左手のブリッジは汗でうまく滑らない。
Kはブリッジを色々使い分けていた。全て落とした時にも四っは違うブリッ
ジを巧みに使い分けていた。何度かフォームを安定させるため素振りをする。
素振りをしながら白い手玉に神経を集中してショットする。手玉は向こうのフ
ットレールのクッションと手前のヘッドレールの間を二往復して静止した。
Kは更に課題を出した。 今度は的球をテーブルの中央に置き、正面から狙
い、ク
ッションから跳ね返らせ、再び手玉に当てさせる。僕もやってみるが的球はク
ッションから斜めに反射して、外れて手玉を通り過ぎてしまった。
「強く打ちすぎるんだ、撞くんだ。」
もちろん慣れてきたところで、距離を遠くすれば、感覚の精度を上げなけれ
ばコントロールされない。手玉の中央より少し上を撞けば、的球に当たった
後に手玉は的球を追うように走ってゆく、少し下に撞くならば、手玉は手前に
戻ってくる。
Kは左コーナーポケット側の近くにある的球をフォームを構えて何気なく落
とした。よく見ると、鏡に映した様に体を反転させて左手でキューを握ってい
た。
「えっ、左手で落としたの!」驚いた。
利き腕の右でキューを握って撞くと腰がロングレールに当たってフォームが
作れない。そこでKは体を反転させて、利き手でない左手でキューを握ってい
た。確かに安定はよさそうだ。
同じ練習を続けていると、僕は不思議な体験を覚えていた、ある日、まるで、
自分の意思ではなく、どこか上空から糸で操られているような感覚に襲われ
た。キューを構えた瞬間、手玉の行き先が見える。的球が弾かれる軌道がわか
る。まるで、自分がプレイしているのではなく、誰かが自分の身体を使ってプレ
イしているような感覚。何か流れのようなものに乗っている感じだった。試し
に、頭で考えずに撞いてみる。スッとキューが動き、球は寸分の狂いもなくポ
ケットに吸い込まれる。もう一度撞く。今度も入る。まるで、ビリヤード台の
上に見えないラインが引かれていて、それに沿って球が走っていくようだった。
気づけば、僕はただ球を追っていた頃の自分とは違う場所にいた。
ビリヤードの世界の中に溶け込み、何か大きな流れに導かれるようにキュー
を握っていた。
この不思議な体験をKに話してみた、
Kは膝を手でたたき、「それは勘だよ!」
「?---------!」
テニスは、体力が全てだった。 高校三年の八月、 最後の試合。照り付ける
太陽の下、暑さで全ての物は原色に見える。赤いラケット、黄色の丸いボール、
芝生の緑、対戦相手はネットをはさんで陽炎の向こうに僕のサービスを待っ
ている。
コーチは僕に「勝ってこい!」と活を入れた。 テニス部の仲間達も声援を送
る。試合は二対二、最終ゲーム、デュースからア ドバンテージを取った、僕はこ
のサービスで試合を決めたかった。
ベースラインに左足の爪先を合わせる。トスを上げながら体を弓のように
そらす。 太陽光線が鼻筋を掠める。 ボールに回転を与えて打つ。ボールはサ
ービスラインに深く入る。相手はストレートで返してくる。僕は勝つ、そう念じ
るしかなかった。コートいっぱいに走ってやっとボールに追いつく、フォアハン
ドで返した。相手も必死、ボレーで短く返す。ボールめがけてダッシュする。 ワ
ンバウンド、 ツーバウンドする前にラケットが追いつく。 相手のいないアドバ
ンテージサイドにほうり込んだ。
抜けてくれ!
バックボレーで返そうと相手の体が伸びるが届かない、ボールはシングルス
コートの内側に落ちた。
コーチや仲間の歓声が上がった。僕は三対二で勝った。
試合が終わった後、足首の関節に痛みがあった、夜になって腫れ上って翌日
は歩く事が出来なかった。
この試合の後も何度か友達同士でテニスをした。しかし、みんなに合わせ
てボールをただ打つだけだった。あの試合以来テニスに意欲が沸かない。し
ばらくの間分からなかった、何故これほどテニスに気持ちが集中しないのか。
僕は飽和していたのだ。
殆どの人が進学していく中、僕は就職した。 就職してからはまったくテニス
には寄り付かず、会社の同僚達の後を付いて飲みに行き繁華街を徘徊した。
その日々の中、外注のKと出会った。
Kはプロのビリヤード選手を目指していた。
オープンバーのテーブルで、
「何でそんなにうまいの?」とKに質問をする。
僕が聞きたかった事は、Kは誰にビリヤードを習ったのか、映画でも金を巻
き上げる勝負の駆け引きや、老いからくる老眼で失われた勘を取り戻す、苦悩
を伴った練習はあっても、初心からの練習は無かったからだ。 外の道行く人を
眺めながら Kは、
「練習に次ぐ練習、週に二度はピリヤード場に通う、四、五年前にビリヤード
場の壁に、プロが指導しますて、張り紙があったんだ。受けてみたら、その人か
っこいいの刺繍の黒いベスト着て、 それからかな、凝り始めた」
Kは今までまともに習った事がそれぐらいしか無いらしい。自分で練習して
上手くなった。
K は細い指で水割りのグラスを包みながら、
「トーナメントに出て、賞金をもらってみたい」 僕は飲みながらそれは素晴
らしい事だと納得する。
月に一度二、三千円で誰でも出られる、 ビリヤード場主催のトーナメントが
ある。優勝者には賞金や商品が出る。Kのトーナメントはプロツアーの事で、プ
レイフィーも賞金も格段に高い。
Kも僕も酔い始めた。何かの話からか、
「いや~、無理だよ、 誰かにくっいてて引っ張ってってもらうって、 参考
にはできるかもしれないけど~」だいぶ時間をすごしたが、これだけしか記憶
に残っていない。
バーの前は往復四車線の国道がある、車の窓に、ビルの輪郭が淡く浮かん
でいる。夜も遅いというのに様々な人が歩道に行き交う、彼等は何処に行くの
だろうか。彼等をしばらく眺めていると、Kと僕は、どこか心にぽっかり穴が開い
たような気分になった。彼等が僕らみたいな人を気軽に受け入れるようには、
思えなくなってくるからだ。Kと僕は、社会の隅に居る。
気が付くと僕はKの暗いアパートの板の間にうつ伏せに寝ている。飲みすぎ
て何処を歩いて来たのか分からない。
Kは奥の部屋の畳の上に転がって寝ていた。部屋は何もない殺風景な部屋
だった。ミニマリストとは違う。部屋の隅にビリヤードの技術本と雑誌のビリ
ヤードマガジンが平積みされている。床に日焼けの跡がある、前に棲んでいた
人の食器棚の跡だ。
Kはアルバイト生活で、僕の小さな印刷会社に写植の外注で出入りしている
。いずれはアルバイトをビリヤード場の店員に変えるらしい。 ビリヤードのプ
ロに成ったからといって豪華な暮らしが出来るようには思えない。用具 メー
カーやビリヤード場の社員、あるいは自分でビリヤード場を開くような、試合
をしていない時間の生活設計をしていかなければならない。何よりも試合に
常に勝ちつづけられるとは限らない。
Kはその世界に目標を定めた。Kのテクニッ クならば恐らくプロには成れる
だろう、しかし、 この殺風景な部屋から抜け出す日はるか遠くに違いない。
朝にアパートは冷え込んだ、朝日は眩しく斜めに部屋に差し込んでくる。昨
日の酒で頭がぼやけたままKのアパートを出た。
Kの手ほどき以来時々ビリヤード場に一人で来るようになっていた。球の厚
みに苦労しつつも、ゴーストボールと呼ばれる仮想の球が的球の後ろに現れ
始めた。厚みと角度を測るのに仮想の球を頭の中でイメージさせる、これが
見え始めた。この時からポケットに落す確率が上がってくる。
こればかりは幾らKから教えてもらっても言葉で理解するものではない。僕
は練習の成果が現れて次にバンクショットに手を伸ばし練習をした。球が何
時でも自分の都合のいい場所にあるとは限らない、他の球がじゃまをして直
接狙えない時があ
る。実際の試合では都合の悪い球の配置が殆どだ。
いや、わざと難しくなるように相手が、手玉と的球の間に邪魔な球を挟んで
位置させる。これをセイフティーと呼ぶ。このセイフティーをバンクショット
で切り抜ける。
バンクショットには紙に三角定規で描くような簡単な図形が必要になる。こ
れも頭の中でイメージする。これを解けずに失敗すれば主導権が相手にわた
る。
練習に没頭していると後ろから誰かが、「試合やりません」と声をかけてき
た。
振り替えると僕と同じような年恰好の人が立っていた。水曜日や土曜日の夜
に常連達が集まる。彼もその一人らしい。彼らは一人でやってきて相手になり
そうな人を見つけて練習試合を申し込む。 僕はビリヤードの練習を始めて日
が浅い、その僕に試合を申し込む事が嬉しかった。
しかし、相 手をするにもまだ自信がない、かといって断るのも失礼な気がし
た。受けて立つことにした。
僕にとって初めてまともな試合になった。バンキング、試合の先攻後攻を決
めるショッ トで二人並んでフットレールに向かって球を撞く。跳ね返った球が、
ヘッドレールに近い方が先攻になる。
彼が先攻になった。
ブレイクショット。
球が一つも入らず僕の番。
1番、あれほど練習したのに簡単な所を外す。
試合の緊張感は手足を震えさせ、練習の殆どを消し去った。
彼、1番から3番まで落す。やはり上手だ、球が落ちた後、手球が次の位置に
滑り込む。
遠くの4番を僕が入れる。一進一退のゲームになった。緊張感が僕の体中に
走って何処に球を描いたらいいかすぐに答えが出ない。
ビリヤー ドは球の華麗な動きとは裏腹に頭の中は台上の 課題を解き、答
えを出す事に専念されている。この思考は将棋に近い。球の先々を読んで手
玉を撞き易い所にコントロールさせる。
1ゲーム目は彼の勝ち。
2ゲーム目、彼、ブレイクショット、1 番が落ちる。3番外す。
僕、3番薄く掠らせサイドポケットに入れる。
そう僕は、あの隣で騒いでいるカップルとは違うのだと言うプライドが、ま
だこの時は残っていた。
3番を入れた後手球は4番の近くに止まる。 難なく4番を入れる。
5番は入れるはずのポケットとは別のポケッ トにまぐれで入った。顔では当
然のような振りする。
6番外す。
試合である以上勝ち負けが存在する。この試合に勝つためには相手より難し
いショットを決めて相手にプレッシャーをかけて行かなければならない。
しかし、僕は彼より経験が劣っていた。
6番、彼も外すが、初めから6番は入らないと読んで手玉を6番から、遠くに
離した。
彼にはゆとりがあった。なぜセーフティにせずに遠くに手玉を運ぶのだろう?
初めは彼のそのやり方に気付かなかった。 本来、試合相手はセーフティを
作り絶対に相手に撞かせないと言う姿勢を現わす。 このセーフティを解くに
は先に練習をしたバンクショットを多様する。
彼はそんな繊細な撞き加減が要求されるセーフティが出来ないので手玉
を遠くに離した。この方法ならば、彼にとってもわざわざ難しいセーフティにし
なくてすむ、と、僕は思い込んでいた。
いやいや、彼は球の運びは悪くなかった。 彼はセイフティーをいつでもで
きる。
そんなんではなく、彼は僕に、「チャンス」を与えていたのだ。
彼は試合の運び方が分かっていた。 彼は少しず リズムを取り戻してきて、
一方的な試合になってくる。
僕のプライドもそれと共に崩れさってゆく。 2ゲーム目も彼の勝ち。
3ゲーム目、三回位球を触る。 後は見ているだけ。殆ど相手にならない。 彼が
落すたび拍手を送り、早く終わってくれないかと思う。
あの球を魔法のように動かす事が出来るなら、 そのためには今までにない
集中力が必要になっ てくる。 Kの持っているその集中の世界、 凛とした崇高
なその世界に彼も辿り着いた一人であろう。 僕はその世界に辿り着けるだろ
うか。
彼は最後の9番を落す。僕と彼は短く言葉を交わす。 握手をし、別れを告げる。
ビリヤード場の外に出る。
暗い駐車場の車に向かう。
ドアを開け、シートに座る。
エンジンを掛けてアクセルを踏み込む。
---------------------負けた。
耳の後ろで、タイヤがけたたましく悲鳴を上げる。
-------------------------------------------------------------負けた!
僕は拳で、ハンドルを殴りつけた。
日本文芸同人会「脚光114号」掲載