第五話(前) ホールドアップ問題
ハム(私)……この物語の主人公。生まれと頭と性格が悪く、顔は良い。
レオンハルト……ユウシャ。マ王はすでに討伐しており、ハーレムの女たちと暮らしている。
私は考えてみれば、思い切り泣くということをしてこなかった。ありったけの感情をぶつければ、最低限の人間関係すら壊れてしまいそうだったからだ。
だから一人で文學少女のように泣いてみたくなったことがある。また、泣きたい時に泣くことができれば同情を引けるかもしれないと思った。目を充血するまで見開いて、何度も深呼吸を繰り返し、ここぞ、というタイミングで顔に力む。
結果としては、ポツポツと、悟られない程度の涙だ流れるだけだった。
そも、私は誰かに向けて泣けるほどできた人間ではなかった。私はきっと最初の最初で転んでしまったのだ。泣いて親にあやしてもらうという段階を飛ばしてしまった。
前世の話だ。
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夜が深くなり、月が中天に昇った頃。街もこの別荘も静まり返っているのに、ひとりだけで起きている。健常な生活を送っていれば眠くなって当然なのに……そう思うと、ますます目が冴えた。
寝たままでは床ずれを起こし、立ち上がれば体力を消耗する。心身を消費し続けられなければ生きられない世界の仕組み。そこからしてひどく憂鬱だ。
部屋を見渡す。夕食だったジャワティーとハンバーグの匂いだけが残っている。気づかないうちに下げられてしまったようだが、せめて一口だけでも頂けば良かった。いや、そうするとつまみ食いしにくくなるから食べないほうがマシだったのか?
……それよりも。今夜こそは部屋を出ると決めていた。ベッドを這い出て、ドアノブを掴む。
……そこで自分の格好がとんでもないことを思い出し、シーツで体を包む。どうにかお風呂上がりくらいの露出度になると、もう一度ドアノブを掴む。
……なんだかふらついた気がして、一度ベッドに戻ろうとする。しかしやっぱり、扉の前に戻る。
外に出るのが、怖い。というか怠い。前世から引き継いだ学習性無気力だ。扉の先に待つ怪物はおそろしく冷酷で無機質で、刺々したシステムだ。基本、私に対して必要以上の敵意は齎さない。ただ、挑めば挑むだけそのざらついた表皮で肉をこそげ落とされる。棘には返しがついており、時に必要以上の悪意を齎す。
怪物は私以外にとっては怪物ではないから、恨みはしない。私のような落伍者まで受け入れていては、怪物は瞬く間に痩せ細り、崩壊してしまう。仲間に足らないものは排斥、排除するのもきっと……正常な機能なのだ。
『その先には何もないぞ。無駄に傷つくだけ......構造的欠陥というヤツだ。お前は独りで腐っていればいい。』
怪物が、私に語りかける。......知るか。お前がどう言おうと、私は幸せになるんだ!
大きく息を吸うと、叩きつけるつもりで、私は扉を開けた。ドアの向こうにあるのはただの絨毯、冷たい空気。大きく息を吐いた。
以前、日中に抜け出したことがあった。不特定多数の視線に耐えきれず倒れ込んでしまったけれど。気がつくとベッド戻されていたが、どんなことを言われたのかと思うと………。
「はーっ、はーっ......。」
今だって誰かが見ていないかと不安で、息が荒くなる。大丈夫だろうか。社会のみんなはシャンと背筋を正して歩いている。やるべきことをきちんと定めて、まっすぐ前を向いて。それに比べれば、私は地面へ平行に傾きながら歩いていやしないだろうか。
だから息継ぎをしながら闇から闇へ移動する。
ときおり、楽になる瞬間があって。シーツをはだけ、月に向かって全身を広げてみた。裸体は人間にとって恥ずべきもの、覆い隠すべきものだ。少女にとっては極めて。だから、ピンクハーネスのみを纏って、肌色一色のすがたを晒せるのが気持ち良い。みんな、あの月のように黙って私を肯定してくれたらいいのに。
物音がした。夜風だ。驚いて露出をやめ、歩き始めた。......そうだ、こんなに怖い思いをしてまで外出した目的を思い出せ。
私が求めているのは新聞などの最新情報。私はまだ、この世界が汚いことしか知らない。中世の文明レベルなのか?神とかはいないのか?……何一つわからない。そんなままでいる訳にはいかない。しかし部屋から大っぴらに出て交流する勇気はないし、かといってアクアさんやレオンにものを頼む度胸はない。だからこんな夜更けに一人彷徨つくことが、私にとっての社会進出なのだ。
当てはある。ユウシャの書斎___私に与えられた部屋から階段を二つ登るだけ。総勢60段ほど。階段を上るのってこんなにしんどかったっけ?___怖い。いつぶりだ?___怖い。そして、おっそろしく疲れる。ゼエゼエ言いながらドアを開けた。どうしてもキィィィィ____と軋む音が響いてしまう。スニーキング......よくやるが苦手だ。
月明かりに照らされるところで新聞を広げた。最近は教師からの課題も頑張っているから、大体のニュアンスは判読できる。要点をまとめるとこんな感じだ。
- この世界は___我らがレオンハルトこと____ユウシャとマ王、人類とマ族が二項対立している、比較的わかりやすい図式である。なお、すでにマ王は討伐済みである
- でもマ族以外に人類の脅威はいっぱいいるっぽい。むしろこっちにレオンハルトはかかりっきりになってる?
- また、ユウシャが死亡した場合次のマ王が選ばれる。そのためユウシャはいのちだいじに。
……壮大だなあ。世界を救う戦いってトコロか??うん、すごーく立派。
私が細々と金を稼ぎ、死にかけていた交易都市なんて世界からすればちっぽけな一部だ。生まれの場所である小さな村なんてどこの地図にも載っていない。愛着など微塵もないのに、何故か悔しい。
閑話休題、特に重要なのは最後に記したところか。
『ユウシャが死亡した場合次のマ王が選ばれる。』言葉通りに解釈するなら、マ族にとってユウシャは鬼札であると同時に、起死回生の一手にもなりうる。私がマ族ならどうにかしてユウシャを暗殺しようとするだろう。
……何だ、それは。
レオンハルトの近くにいれば、壮大な暗殺劇やら何やらが起こるかもしれない。レオンのことは、好きだ。だから、私にとってはとても怖く、恐ろしいことで……
胸が、高鳴ることだった。
トキメキを自覚して瞳孔が開く。
待て、今私は何を想った?必死に胸のうちを否定する。好きな人の死を願ってしまう。そんな人間が生きていていいはずないからだ。でも否定すればするほど、『怪物』は高らかに私を罵倒する。
『無理もないだろ。いいか、この世界には岩をバターのように斬るようなファンタジー人間がウヨウヨしている。お前もそうだったらよかったのになあ?活躍のチャンスなんてないはずだった。惨めに!無意味に!死ぬはずだった。』
ぎゅうっと、乳房を握りしめた。胸の奥がズキズキと痛む。
『それが......もしかしたら歴史に名を残すチャンスだ。嬉しくないはずがない。それがお前。無能なだけじゃなく、邪智を湛えたヘドロの産物。』
血が滲むまで強く握りしめて、内の声を掻き消した。
……正直。また名前もない脇役として死んでしまうのはごめんだ。だって私はまだ___まだ_____
「まだ…やらなきゃいけないことが…」
英雄になりたい。全ての人から褒められたい。自分の力で。自分の意思で。いや、褒められなくてもいい。貶されてもいい。肖像がパブリック・エネミーになってもいい。誰かのナカに、私の居場所が欲しい。
(それは、好きな男を殺すことになってでも……?)
彼に見初められてから、物質面では夢のような生活を手に入れた。豪華な家、豪華な暮らし、豪華な男。どれ一つとしてケチの付け所がないのに。最高のひとなのに。心の裡にある暗い火が燃えている。そしてそれを燃やし切ることも飲み込むこともできないまま、苦しんでいる私がいる。
カビ臭い書斎に荒っぽい呼吸音だけが響く。自分自身と永遠に一人で格闘している。思い詰めすぎたことによる、よくある発作だ。ずっと抱えてきた発作。でも、助けてくれる人は何処にも___
不意に、何者かが後ろから抱きついてきた。
「どじゃあああああん」
「グエッ」
そのまま押し倒されて肺が押しつぶされる。否応なしに過呼吸も止まった。
血液が届かず、下半分が黒くなった視界で誰かをとらえる。
それは......凶悪なくらいに桃色の少女だった。
小説を書くのって難しいですね。よろしくお願いいたします。