第83話 地底湖のセイレーン
ごががぼぼぶほ……。
急に真っ暗な水中に放り出されてパニックになる。
これ以上空気を吐き出さないように慌てて鼻をつまむ。
つまむ!?
潜水ヘルメットが跡形もなく消えちゃった?
急いで足元を見回す。
周囲の様子は一変しており、砂利に半分埋もれたようになっている石床で頼りなげに明滅する魔法陣以外に明かりはない。
何が起こったか考えるのはあとだ。とにかく水面に上がらなきゃ。
周囲は真っ暗で上下も前後もわからないけれど、幸い水底に足を着いていた状態からのスタートだ。床と反対方向が天井。これ常識。
浮き始めた体をいったん沈めて床を蹴り、必死に腕で水を掻き足を動かして真っ直ぐ水面を目指す。周囲を観察する余裕なんてないけれど、水に流れがあり、水草が繁茂していることは感じ取れる。明るくはないけれど水面が揺らめいているのが見える。
あと少し。何とか息は続きそうだ。
少し余裕ができたからだろうか、耳の奥に細く歌声が届いていることに気づいた。
「ぶはーっ」
なんとか水面にたどり着いた。助かったー。
「なになに?ここどこ?」
立ち泳ぎしながら周囲を見回す。
もちろんプールサイドは見当たらず、ダンジョンの壁も見えない。競泳プールも大きな体育館のような開けたところだったけれど、いま目にしているのはもっと広い大空間だ。遠くに見える壁面はごつごつとした自然石で出来た岩壁だ。高い天井も同様につらら状の岩が突き出た洞窟のそれだった。
「地底湖……」
溶岩洞窟か鍾乳洞か、どのようにしてできたかはわからないけれど、ここは天然の地下洞窟にできた湖に見える。ところどころに淡い光を放つ結晶やヒカリゴケの群生のようなものがあって岸がある方向が分かった。とにかくあっちに向かおう。
「うふふふ」
「あはははは」
ふいに女性の笑い声が聞こえてそちらに体の向きを変える。岸より少し近い位置に岩礁があり、そこに三人ほどの人影が見える。
あっちに向かったほうがいいかも。
いや、待って。こんなところに人がいる?
「キャハハハ」
「ギャーッ、ギャーッ」
ひえー、あれは人じゃない、魔物だ。
女性と見間違えていた魔物が一斉に翼を広げる。
「キィィィィ」
一体が耳が痛くなるホイッスルのような奇声を発すると、水面に複数の鱗のある頭がぽかりぽかりと現れた。
やばい、これはヤバいぃぃぃ。
くるりと百八十度向きを変えて全力のクロールで岸を目指す。
水泳は苦手じゃないけど魔物とスピード勝負をできるほどではない。唯一の救いは岸までの距離がヤツらの半分ってことだけ。
振り返って確かめたい気持ちを抑えて一心不乱に泳ぐ。もう自己ベストどころじゃない。まさに死に物狂いってやつだ。
シュン。
ひぃぃぃ。打ってきた。銛を打ってきたよぉ。追い付かれるぅぅ。
水中っていうこともあるけど、こっちは武器を持ってきていないんだから反撃のしようがない。とにかく岸を目指して泳ぐのみだ。
あと少し。あと五メートル、いや、三メートル。
ぐぁッ!
痛い。右の太腿の裏にマーマンの銛が命中したみたいだ。もう泳げないっ。
泳ぎが乱れた両手が砂利で出来た水底に触れる。いつの間にか手足が付く浅瀬まで泳ぎ着いていた。
「くそっ、負けるかぁ」
みっともない姿勢だけれど誰が見ているわけじゃない。四つん這いで右足を引きずりながら手負いの獣のように陸を目指す。
何とか陸に上がり、這うようにして岩陰に転がり込む。
「はあッ、はあッ、はあッ」
大きく喘ぐように息をする。いまさら気配を断ってもこちらの居場所はバレバレだ。
「うぐっ」
太腿に刺さった銛は先端にかえしが付いているようで、引き抜こうとしたけれどびくともしない。こいつを武器にしようと思ったのに。
ここがどこかは分からないけれど、幸いなことにダンジョン内の扱いのようだ。こんな銛が刺さっていても、赤い光のダメージエフェクトは出ているが、物理的に出血はしていないし痛みも気絶するほどではない。じっとしていれば刺さったままにしていても何とかなる。いや、もちろんすんごい痛いんだけどね。死ぬほどじゃないってだけで。
手負いだからそれほど岸から距離を取れたわけじゃない。マーマンが陸に上がって追跡してきたら一巻の終わり。そういう覚悟を決めて岩陰でしばらく待ったけれど、連中は追ってこないようだ。岸に上がった時点であきらめてくれたってこと?
恐る恐る岩陰から顔を出して様子をうかがう。
「ふう。あきらめてくれたか。助かった」
思わず声にしてしまったけど、これって死亡フラグ?
まあ、銛が刺さったままだからそのうち耐久力がゼロになって地上送りは確実だけどね。
「さてどうする。座して死を待つか、死の瞬間まで探求を続けるか」
もちろん探求を続ける、が正解だよね。ここがどこだか知りたいし、できるだけ多くのヒントを持ち帰るべきだろう。
もう一度顔を出して周囲を確認する。
セイレーンはもう歌っていないし奇声を上げてもいない。翼を閉じた姿勢で相変わらず岩礁に居座っている。一体少ない気がするけれど、距離があって確認はできない。マーマンの姿はない。セイレーンの攻撃指令が取り消されたのか、水中で待機しているのか。
反撃手段もないし、魔物のほうはもう放っておくしかないだろう。
反対側の景色を観察する。
地底湖は天井がドーム状になっていて全体に円形の空間になっている。壁面はどこも自然石むき出しの岩壁だけど、一か所だけ平坦な部分がある。地底湖全体は何かの明かりで薄暗いなりに見通しが効いているのだけれど、その部分は特に明るくなっている。どう見ても人工物の臭いがする。
「ちょっと距離があるけど、行ってみるか」
とはいえ、足から銛を生やしたままで移動できるとは思えない。
「あいつらはいなくなったし、戦闘は終了ってことだよね?逃げ切れたのならこの銛は戦利品ってことにならないかな」
物は試しだ。ステータス画面を開いてみる。ストレージを指定してそのまま体をひねり、右手で柄を掴んだ姿勢で空き枠に銛を触れさせる。
すぅっと銛が光の粒子になって消失し、ストレージに銛のアイコンが表示される。
「やった……とれた……」
ずっと苛まれていた痛みが和らいで脱力感に襲われた。
「ふう。これなら何とか移動できるか」
岩陰から何とか這い出す。
「いてッ」
銛が抜けたといっても傷口はそのままだ。プールでの簡単な調査(というより試運転)というつもりだったのでポーションを持ってこなかったのが痛い。今の状態では壁や地面に左手を付きながらゆっくり進むしかない。
「いま魔物に襲われたらイチコロだよね」
物音を立てずに動くなんて到底無理だから声をひそめる必要もない。痛みを紛らわせるように独り言をつぶやきながら壁沿いに進んでいく。
もうさすがに耐久力の残りがないかなあ、という頃合いで目指していた壁にたどり着いた。
「これって……」
見上げるほどの垂直の岩壁。その壁面いっぱいに様々な魔物のレリーフが施されている。これは何かの寓話を描いたものだろうか。それとも魔物図鑑かな。ノアの箱舟みたいに運んできた全種族を描いているとか?
これは扉だ。
ざっと見た限り岩壁に彫られているように見えるし、蝶番や隙間もない。
だけどこれは扉だ。
開かれることを待っている扉だと直感した。
どこかに開けるための手がかりがあるはず……。
「キィァァァッ」
え?
奇声に驚いて真上を見る。そこにあいつがいた。
石扉の彫られている部分よりさらに上のオーバーハングした岩棚にしがみ付いてとまっている大きな鳥。哺乳類にはできない角度で首を回してこちらを見ている。なまじ人間に似た貌をしているから気味が悪い。
「セイレーンって飛べるんだ。一体いない気がしたけれど、あきらめてなかったか……」
「ギィーッ」
高所から翼を広げて飛び掛かってくるセイレーンに成すすべなく身構える。
最後に見たのは、鷹にそっくりな逞しい鉤爪がクロスした両腕越しに迫り、黒曜石の薄刃のように容易く肉に食い込んでいく光景だった。




