第82話 水底にあるもの
「お、階段が見えてきた。これで一周だね」
とりあえず左手を壁につけた状態でプールの底をぐるりと一周回ってみたけれど、魔物が通れそうな通路どころか小さな穴すら見当たらなかった。ときおり足を止めて、ひっくり返らないように気をつけながら上のほうにも視線を送ったけれどそれらしいものはなさそうだった。
暗くて良く見えなかったと言えばそれまでなんだけどね。
さて、このまま端まで行っても何もなさそうだ。ちょうど今はプールの短辺の真ん中あたりにいる。このまま真っすぐ中央部分に向かってみよう。
左右を見回してぼんやりと見えるプールの壁を見比べる。
だいたい同じくらいの距離かな。
歩きながら歩数を数えてればもう少し正確に分かったんだけど、そこまで頭が回らなかったな。
まあ、今回は練習というか下見みたいなものだから、次回潜るときに活かせばいいよね。
次回の改善点と言えば時計も欲しいよね。
三十分で上がるって言ったけれど、よく考えたら時計を着けてこなかったよ。
部活のためにダイバー仕様の時計を買うなんてのも無理だし、魔法で潜水ヘルメットの中に表示できないかな。
うん、水深計とか方位磁針とか姿勢制御表示とか、いろいろ表示したらコックピットみたいでカッコイイかも。
……とまあ、何も変わり映えのしないプールの底を独りでゆっくり歩いていると雑念が湧いてくるわけで。床に描かれた魔法陣が緩やかに点滅しているのが見えてきたときも、初めは自分の妄想かなと思ったよ。
「ほぉ。これは明らかに怪しいなあ」
ぼんやりと赤く光る魔法陣の縁にしゃがみ込んで観察する。エネルギー切れなのか待機状態なのか、もともと暗めの魔法陣が脈動するように明滅を繰り返している。
ちょんちょん、と指で触れて見てもとくに反応はない。
「魔法陣に詳しい人を連れてくるしかないか」
ひよりの知人のちひろ君の顔が思い浮かぶ。ちょっとつまらないな。
何も起こらなさそうだからちょっとだけ魔法陣に乗ってみるか。
体を起こし、つま先で魔法陣をつついてから意を決して魔法陣の中に入る。
やっぱり何も起こらない。
ふー。自分で思っていたより緊張していたみたいで無意識に息を止めていたようだ。溜め息をつき、深く息を吸う。
少し息苦しい。酸素が足りないのかな。潜水ヘルメットの送気魔法陣を調整しよう。
そう思ってステータス画面を開いたらヘルメットの外に表示された。
うーん、覗き窓からじゃ細かい文字が読めないなあ。
かといってヘルメットの中に表示されたら指で操作はできないわけで、これはこれで慣れるしかないということか。間違えて空気を止めないように注意しないと。
あれ?こんな表示だったっけ?
確かこのへんに……。
***
「おや、コウタくん、ついに壁を離れるようね」
中央部分を調べるつもりかな。
いったん戻ってからにしてもいいんだよ、コウくん。
やっぱりインターコム機能は付けるべきだったな。
「へえ、真っ直ぐ歩くのがうまいわね。だだっ広い場所だと人間はどうしても左寄りに進路を取ってしまうっていうけど。あ、立ち止まった。何か見つけたのかしら」
美宮さんは見えているみたいに言うけれど、実際に観察できる光景はぼんやりとした黄色い光点がゆっくり動いている程度でコウくんの振舞いまではわからない。だけどずっと一定のペースで動いていた光点がピタリと停止している様は何かを検分しているように思える。
「あっ!」
一瞬、赤い光の円柱が立ち上がり、すぐに縮んで消滅する。黄色い光は円柱に飲み込まれたように見えたけれど、円柱が消えたあとには元通りの位置で光続けている。
「動かないわね。何かあったのかしら」
目を凝らしても薄暗いプールの底の様子はうかがえない。嫌な予感がこみ上げてくる。
「どうした。何かあったか?」
どきっ。
プールサイドから離れて魔法陣研究部の面々と何かを話していた石出部長がやってきて声を掛けてくる。美宮さんが少し真剣な表情で応対する。
「わからないわ。少し動きがあったようなのだけれど、そのあとまた動かなくなったのよ。そっちこそ何かあったの?」
「ふむ。私のほうでモニターしていた空気タンクの圧力が急に下がったのでな」
空気圧!
ばっ、と振り返ったわたしに石出部長が特段に表情を変えずに言う。
「空気の供給なら心配無用だ。今のペースでもまだ一時間以上供給を続けられる容量はある」
「落ち着いて、ひよりちゃん。何か思い当たることはあるの?」
「たぶん、エマージェンシーモードが起動したんだと思います。潜水ヘルメットが肩から外れたのを検出すると送気量を自動的に増やすように設計してあります。オペレーターが転倒してヘルメットが外れたとか浸水したケースを想定して」
手元のモニタ画面を確認しても救難信号は発報していない。
設計ミス?故障?それとも想定外のことが起こっているのかしら。
どれが一番悪い想像なのかわからないまま、不安が脳内をぐるぐると搔きまわし、気分が悪くなってくる。
「潜水ヘルメットが外れたのなら、そろそろ水面に上がってくるはずよね」
「ええ」
そういって見守る先にはぶくぶくと大きめの気泡が上がっていた。




