第81話 水中散歩
「ねえ、ウェットスーツとかそういうものはないの?」
「ダンジョンの水だから装備品以外の服は濡れないよ。ジャージで十分だから」
「靴も?足ヒレとかさ」
「ヘルメット潜水では泳がないからもともと足ヒレは着けないよ。プールの底は尖った岩とかないし、裸足でも大丈夫」
うぇ、他人事だと思って簡単に言うなあ。まあ泳がないっていうなら素足でもいいか。
プールに片手を突っ込んでみる。確かに肌には水のひんやりした感触があるが、ジャージが濡れて重くなったりはしない。水から上げた腕からは水が少し滴るけれど、服は乾いたままだ。前回泳いだときもそうだったけど、違和感が半端ない。
「こちらにプールの底まで降りる階段があるのよ。これを降りていくのが安全ね」
もとが何かの広場だったそうで、底のほうまで降りる石の階段がプールの左側の壁面沿いに下に伸びているのが見える。ここだけ切り取るととプールというより水没した遺跡みたいでちょっとわくわくする。プールサイドから下を覗き込むと、水の透明度は高いはずなんだけど照明が足りないせいで階段の先は青い闇に消えていた。
「水深は十メートルから二十メートルくらいのはずよ。昔の記録にも正確に測ったデータが無かったからちょっと幅があるけど、ヘルメット潜水で行けない深さじゃないわ。まあ、何か不都合があったら戻って来なさい」
美宮先輩は細かいときと大雑把なときの落差が大きいんだよね。とはいえ、調査じゃなくて冒険だと思えばこんなものかもしれない。正直、誰かに変わってやるつもりは無いし。
ジャージ姿のまま胸まで水が浸かるところまで階段を降りる。
「うひゃー、ひんやりしていて変な感じ」
体は濡れているのに服は乾いたままでまとわりついたり空気をはらんで浮き上がったりしない。両手をお椀にして持ち上げるとざばっと水をすくえるのに、とっても不思議。
「水温は二十五度以上あるから大丈夫だと思うけれど、あまり長く浸かっていると低体温症になるリスクもあるから三十分を超えたら上がってくること」
「はい」
倉庫番同好会の先輩方が二人がかりで保持した潜水ヘルメットをゆっくりとかぶせてくれる。肩の上に乗せただけだとまだ重くて保持できない。
「コウくん、痛いところはない?」
「問題ないよ。空気を送る魔法陣を起動するね」
「うん」
「『エア』」
あらかじめ登録しておいた音声コマンドを起動する。シューッという音が微かに頭上から聞こえる。オッケー。
「それじゃあ、少し水に入るよ」
そのまま数歩階段を降りる。ヘルメットの天辺まで水に浸かると浮力のおかげで重さの負担が無くなる。むしろ体をいい感じで押さえつけてくれて心強い。特に水漏れもなく、空気の供給も安定している。ボクは一旦上に戻って首だけ水面に出した。
「オーケー、行けそうだよ。次はこのまま潜ってみるね」
「無理しないでね、コウくん。不具合があったら直すから、すぐに戻ってくるんだよ」
「わかってる。試運転を兼ねた本番だからね」
こんな人体実験まがいのことができるのも、ダンジョンの利点だよね。
軽く手を振って水中に戻る。通話する方法がないからここからは一人旅だ。
「『ライト』」
完全に水没したところで潜水ヘルメットの外側に装着された照明用の魔石を点灯する。それほど明るくはないけれど、水の透明度が高いので割と遠くまで見通せる。石段は真っすぐに壁面を降りていき、対岸の壁に突き当たったところで直角に折れてさらに先へと続いている。
転ばないように左手を壁につけながら慎重に足を運ぶ。歩いて降りるというより、足を出して一段分沈むのを待って次の足を出すという感じでゆっくり進む。
次第に水中歩行のリズムにも慣れてきて、前方だけでなく右手、プールの中心方向にも視線を送る余裕が出てくる。
魔石ランプの明かりは黄色味がかっていて水中での通りが悪いみたいだけれど、十メートル先くらいまでは見えているんじゃないかな。なお、水中には今のところ何もない。生き物の気配も構造物も見当たらず、ただただ奥のほうまで続く奇麗な水と、潜水ヘルメットの裾から立ち昇る細かい泡が光を反射して銀色の粒の連なりを形作るのが見えるだけだった。
直角に曲がる階段の踊り場に着くころにはプールの底にまで光が届くようになっていた。
黄色い光源がモノトーンの風景を描き出す。でもそこには特に変わったものはなく、整然と敷き詰められた石畳が広がっているだけだ。生き物が生息していないきれいな水。水苔も生えていない。
「水清ければ魚棲まず、か」
死の世界。
死骸すらないきれいな水なのに、何故かそういう印象がある。いや、死骸がないからこそかな。
水と言えば生命を連想するものだけれど、ここではそれが成り立たない。水中というより宇宙空間のような静かで命を感じさせない世界だ。つくづく、このダンジョンは人が作った人工物なんだなと思う。
「さて、どこから調べようか」
最後の石段を下りて水底にたどり着いた。自分の息遣いしか音がない世界で、ちょっと不安な気持ちになりかけるのをごまかすように声を出す。
やっぱり通話機能はあったほうがいいよね。あとでひよりに報告しよう。
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「上手くいっているようね」
「はい。泡の放出量も問題なさそうですし、魔石ランプも水中で正常に動作していますね」
プールサイドでゆっくりと階段を降りていくコウくんを美宮さんといっしょに見守る。
「意外と深いところまで見えるのね。明かりさえあれば水上からでも底の様子が目視できそう。これから魔物が湧くようになるのだとしたら、生徒会の予算でプールの底に照明を設置することを検討したほうがいいかもしれないわね」
「その場合は青色の照明を調達したほうがいいですよ。やっぱり水中だと波長が長い光源は遠くまで届かないようです。失敗したなあ、横着しないでコウくんの潜水ヘルメット用にも青色を用意するんだった」
自分の考慮不足を悔やんで無意識に親指の爪を噛む。
だんだん深いところに潜っていくコウくんの姿が小さくなる。潜水ヘルメットの額に取り付けた魔石ランプが照らす範囲が思ったより狭い。あれでは青緑色の鱗をまとったマーマンが忍び寄ってきても気づけないかもしれない。悪い想像が意識に登ってくるのを振り切るように頭を振った。
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