第72話 プールの歌声
ダンジョンの第二階層、闘技場に隣接する位置に競泳プールがある。
もちろん、最初からプールとして作られた施設ではない。
四角くて深い縦穴といえるような構造の広場が水没して透明な水を湛えた溜め池になっている。そこを水泳部が競泳用のプールとして使用しているのだ。
一辺が五十メートルあって公式ルールに合致していること、ダンジョンの特性で水の循環がなくても清潔な水質を保っていることが好まれたためだ。
水深は十メートル以上あって競泳用のプールには向かない。
だがそこはダンジョンの中ということで、万が一の水難事故があったとしても後遺症が残ったり生命に危険が及ぶことはない。
そのため、深すぎる水深に関して部員たちから不満の声は出ていない。
いや、出ていなかった、というべきか。最近までは。
宗形正美はこのプールが少し怖かった。
小学校に入る前から地元のスイミングスクールで毎日のように泳ぐ生活をしているのだから、プールの水が怖いとか溺れる恐怖といった感情は持ったことがない。
足が届かない水深だとしても体の力を抜いて浮き上がるすべは心得ていたし、もとより十キロメートルでも泳げる体力と技術を持っている。
だが、ここのプールからはそういったものとは別種の畏怖を感じることがある。
水は限りなく透明に澄んでおり、水温はどの季節でも心地いい冷たさを保っている。
プールの底は深すぎて見えないが決して底なしということはなく、石造りの平坦な床になっているらしい。
このプールはどこにもつながっておらず、水が入る口も出る口もない。
水がいつも一定の水位を湛えており、循環していないにも係わらず清潔さを保っているのは魔法だからというほかない。
だからこそというべきか、宗形にはこの底の見えないプールの深部に得体の知れない何かが潜んでいるのではないかという畏怖の念が拭えないのだ。
普段の練習のときはそれでも速く泳ぐことに集中しているのでそのような思いに囚われることはない。
だが、ふとした拍子に意識が深い水底に向いてしまうことがある。
夏休みが明けて一週間ほどがたったその日、宗形は遠泳の練習をしていた。
ゆっくりというほどではないが競技のような百分の一秒を削る泳ぎではなく、長い距離を泳ぐための一定のペースで流していく。
泳ぐ動作は次第に自動的になり、意識が広がっていくようなリラックスした状態になる。
ふと青く暗い水底に視線がいったとき、宗形の意識の表層にいつもは見ないようにしている畏怖の感情が混じりだす。
それがきっかけだったのだろうか。
広がった意識の端のほうから女性の歌声のようなものが聞こえてきた。
一度意識した歌声は宗形の思考をからめ取るように大きくなり、あっという間に飲み込んでいく。
はっ、と現実に意識を戻したとき、水面を掻いていた腕は深い水の中にあり、どちらが水面かわからなくなっていた。
必死で前後左右を確認しても、どちらも同じ水の青に塗りつぶされている。
意識を戻した時点ですでにかなり長く水中に潜っていたようで、鍛えた肺活量でも残された時間は少なくなっていた。
酸欠で目の奥がチカチカとする中、耳元では誘うような女性の歌声がはっきりと響いていた。
地上階にリスポーンした宗形正美は、先ほどまでの意識混濁が嘘のように回復して明晰な思考を取り戻した。幸い、溺れた後遺症はなく重い倦怠感があるだけだった。
***
「で、そのことを他の男子部員に話したら、同じような女の歌声を聞いたってやつが何人もいてさ」
「うわー、何それ。ちょっと怖いね。底の見えない深い水って絶対何か出そうな感じするもん」
「だろ?だけど水泳部の男子部員の悲劇はこれだけでは済まなかったんだ……」
ヨギが目を伏せ、さらに低い声でつぶやく。ごくり。
「水中の声を聴いた女子部員はいなかった。同じ時間にプールで練習していたにも係わらず、だ」
「男子だけを狙うってこと?」
「そうだ。男子部員からは原因がはっきりするまで練習を中止しようという声が大きくなり、女子部員からは反対の声が上がった。
そのうち女子部員の誰かが男子はサボりたいだけじゃないのかと言い出し、男子は女子が嫌がらせのいたずらを仕掛けたんじゃないかと言い返した。
もちろん、お互い本気でそう思っていたわけじゃない。だが、売り言葉に買い言葉で口喧嘩はエスカレートし、今や水泳部は男子と女子で分裂寸前の仲違い状態らしい。
おまえ、口喧嘩で女子に勝てるか?」
ぶんぶん、と首を振る。
「だろ?男子部員は完全にやり込められたが意地でも謝りたくない。女子は横のつながりが強いから水泳部以外のクラスメイトも連携して男子部員達をシカト中。というわけで、水泳部男子は今や八方ふさがりの四面楚歌状態ってわけさ」
コワイ。七不思議とは別の次元で怖すぎる話だったよ、ヨギ。
「他人事だと思っているようだな、コウタ」
目を伏せた低い声のつぶやきは終わっていなかった。
「えっ?」
「オレが七不思議の調査を進めていたことは知っているな?」
「うん。この話もその成果ってことでしょ?」
「ああ。だが情報を得た対価は大きすぎるものだった」
「対価って、情報料を請求されたの?」
ゆっくりと首を横に振るヨギ。
「オレは情報収集においては、一方に偏らずに必ず両方の立場の意見を入手するようにしている」
それはいいことだ。情報源が偏ると誤解が誤解を生んだり、正義の側を間違えたりする危険性があるものね。
「絶賛冷戦中の男子グループと女子グループそれぞれに接触したオレは、双方から頼まれたんだ。この件をどうにかしてくれ、と」
「へっ?」
顔を上げたヨギは泣きそうな顔になっていた。
「どぉしよー、コウタぁ。これ、何とかしないと両方から恨まれちゃうよ。とくに女子のネットワークからヘイトを買っちまったら、残りの高校生活は真っ暗闇だよぅ」
「だから、あまり余計なことに首を突っ込むなとあれほど……」
「言ってねぇよ。そうやって自分だけ逃げきれると思うなよー。七不思議調査班は一蓮托生だぁ」
ヨギにガシッと両肩を掴まれる。
「そんな班、名乗った覚えはないよっ。それにボクはしがない助手なんでしょ。責任はリーダーがとるものだよ」
「そんな冷たいこと言うなよー。頼むよー、いっしょに考えてくれよー」
「わかった、わかったから、抱きつくなって。しっしっ」
「オトコ同士、仲良いわね」
「白井さん!」
「あんた、水泳部の男子に謝らせるんだって?しっかりやりなさいよ。ヘタレたりしたら、うちのクラスの女子だって黙っていないからね」
ふんっ、と鼻を鳴らして行ってしまった。
ヨギと二人で目を合わせる。
「どぼじよぉ~、ごぉだぁ~」
「と、とりあえず競泳プールに行ってみようか。ね。現場を確認するところから始めようよ」
「うん、そうする。コウタ、頼りにしてるよぉ」
あー、これいったいどうすればいいのかなぁ。




