11 過去の出来事
その後、私はミトアさんと他のメイド達に誘導され、バスルームへと向かった。
まずは湯の張られていないバスタブの中で、体や頭をお湯や石けんで洗われた。
洗い終えたあとは、隣に用意されていた、水面にピンク色の花びらがたくさん浮かべられたバスタブに入れられ、身も心もリラックスさせてもらった。
お湯につかっている間は、閣下に嫁いでくれる事に対して、これでもかというくらいの感謝の言葉を述べられ、髪や体も乾かしてもらった。
自分で持ってきたワンピースに着替えると、服のサイズを聞かれた上に、後日、寸法を測りたいと言われて、それについては素直に了承した。
その後、お腹は減っていないかと聞かれ、減っていないと伝えると、マオニール公爵閣下の自室まで連れて行かれた。
そこまでは、私の中ではあっという間の出来事で、現在は彼の自室にある真っ黒なソファーに座り、これまた真っ黒なローテーブルをはさんで閣下と向かい合っていた。
閣下の自室は本棚に並べられている本や、部屋に備え付けられている白の洗面ボウル以外、服と同じ様に殆どが黒で、無駄なものは置かない主義なのか、花を飾ったりもしていないから殺風景に感じる。
私は花を見たら落ち着くけど、閣下はそうでもないのかしら?
そんな事を思っていると、閣下が話しかけてきた。
「色んな意味でお疲れ様。えーと、アイリスと呼んでもいいかな?」
「もちろんです。お好きなようにお呼びくださいませ」
「ではアイリスで。改めて、マオニール邸へようこそ。来てくれてありがとう」
「こちらこそ、迎えていただきありがとうございます。皆さんに歓迎していただいた上に、とても良くしていただいて、少し驚いています」
「どうして? それ、さっきも言ってたよね? そんなに歓迎されないと思ってた?」
「はい。私は閣下と今まで面識もないですし、しかも男爵令嬢ですから、身分のことで良く思わない方だっていらっしゃるかと思いまして」
特に昔から仕えていらっしゃる、ミトアさんの様な方は、そういう事に厳しいかなと思っていたから、余計に優しくしてくださったことには驚いた。
「そういうことは気にしなくていいよ。そういうような人間は、うちの家には置いていない。それより、せっかくだし、お茶はどうかな? 珍しいお茶が手に入ったらしいよ」
「お茶ですか? いただけるなら嬉しいです」
突然の話題転換に驚いたけれど、まさか、ノマド家で出されるお茶みたいに悪戯で虫が入っているとかいう事はないはず。
安心した気持ちで頷くと、閣下はメイドを部屋に呼び、お茶をいれるように伝えた。
メイドがお茶をポットにいれてくれると、毒見役の人がポットからいれたお茶を飲み、少し経って、毒見役の人に何事もないことがわかってから、メイドが私と閣下の前にお茶の入ったティーカップを置いてくれた。
「いただきます」
私の家は裕福ではなかったので、あまりいい茶葉のお茶を飲んだ事はないけれど、カップを口に近付けただけで、花の香りがふわりと香り、口に含むと、少しだけ甘くて、とても美味しかった。
「とっても美味しいです。お茶の温度もちょうど良くてホッとします」
「そうか。それは良かった」
閣下は微笑み、後ろに立って、緊張した表情をしていたメイドの方を見た。
メイドは閣下の視線を受けて、その表情を緩める。
「あの、どうかされたのですか?」
気になって聞いてみると、閣下が苦笑して教えてくれる。
「実は、僕も1度だけ見合いをした事があるんだ」
「そうだったのですね。それは存じ上げませんでした」
「相手は公爵家の令嬢だったんだ。だから、あまり公にしなかったんだよ」
閣下はお茶を一口飲んでから話を続ける。
「そのご令嬢はとても気の強いお嬢さんで、うちのメイドが入れたお茶のいれ方が気に入らないから、嫁いできたら自分のメイドにお茶をいれさせると言い出したんだ。しかもメイドに聞こえるようにね。そんな話は、そのときにすべきじゃないだろう。嫁いで来てから言えばいい話だ」
「そうですね。お見合いの席ですし、お茶のいれ方も好みがありますから、その場で口に出すべきものではないですね。しかも、好みを伝えたら、メイドだって、その通りにいれてくれるはずです」
人の好みは色々とあるから、普通はお客様には一般的ないれ方をするはず。
だから、たとえ美味しくないと思ったとしても、客として来ている以上、そんなことをその場で言うだなんて、公爵令嬢だからって言っても良いことだとは思えない。
「よっぽど酷いことをしたならまだしも、メイドのいれたお茶が気に入らないなんて、僕を侮辱しているようなものだろう? だって、僕はそのお茶を美味しいと思ったんだから。一番腹が立ったのは、人を傷つけることに対して、何とも思っていないような態度だけど」
「そうだったのですね……」
頷いたのはいいものの、疑問がすぐに浮かんだので聞いてみる。
「なんといいますか、もし、私がお茶以外でもメイドのやることに何か文句を言っていたら、どうされるおつもりだったのですか?」
「君はそういうタイプじゃないだろう?」
「それはそうですが……」
「それに、あんなワガママな令嬢はめったにいないと思ってる」
ソファーにふんぞり返って、不満そうに言う閣下が、少し子供っぽく見えて、つい笑ってしまう。
「好みはあるとは思いますが、初めて会ったばかりの人間に、自分が美味しいと思ってるものをどうこう言われたくないですよね」
花の絵が描かれたカップをソーサーに戻し、私が頷くと、閣下は苦笑する。
「仲の良い人物ならまだしも、初対面だし、人様の家のメイドに文句をつけるなんてありえないだろ」
「それは私もそう思います。あの、本当に美味しいです。ありがとうございます」
メイドにお礼を伝えると、とても嬉しそうな顔になったあと、深々とお辞儀をした。
――もしかして、この人がその時のメイドで、自信を取り戻させるために、閣下はこのメイドを呼んだのかもしれない。
「ありがとう。じゃあ、早速、本題に入ろうか」
そう言って、閣下はメイドを部屋から出させると、一枚の紙をテーブルの上に置いた。
「結婚前の契約書だよ。あと、正式に君とデヴァイス卿の婚約は破棄されたから安心してほしい」
「ありがとうございます!」
ロバートが駄々をこねたらどうしようかと思ったけれど、すんなりサインしてくれたみたいで良かった。
もしかしたら、閣下の圧力もあったのかもしれない。
そんなことが頭の片隅にも浮かんだけれど、まずは、閣下との話に集中することにした。




