一章②
「やらかしたあ……」
あの後、何度も魔術具を通しての魔法詠唱をやってみたが、謎の光が出るばかりで何の成果も得られなかった。魔術具を何個も壊してしまったし、なんだか申し訳ない。いつもの癖で、嫌われていないだろうかとついビクビクしてしまうが、あの優しい人たちなら大丈夫だろうと自分に言い聞かせる。
ニナの専攻は魔法である。しかし元々所属していた大学での研究に行き詰まり、新たな刺激を求めて魔術の研究室に移籍を申し込んだのだ。向こうも新たな試みとしてニナを指名してくれたので、これくらいで嫌われたりはしないだろうが、息巻いていた手前この失敗は恥ずかしい。
研究室の人と別れたのは日が沈む前だったが、色々と手続きを済ませていたら遅くなってしまった。すっかり暗くなっている夜道を歩く。
引っ越しがバタバタしたこともありこの地域にやってきたのが今日の午前中なので、まだ一度も新居を見たことはない。教員用に作られた大学の寮とだけ聞いている。先に送っておいた荷物の荷ほどきをしなければならないと考えると億劫だ。今日の夕飯はどうしようか。
「ここね……」
もらった地図の場所には真新しい寮があった。八階建てで、白一色というシンプルな外装だ。さすが大学寮と言うべきか、入り口のセキュリティに用いられる魔術具は最新のものが採用されている。両親を亡くして以来、女の一人暮らしを続けているので大切な要素だ。一発で気に入ったニナは三〇二号室を目指して足取り軽く階段を上る。
が、部屋の前までくると違和感を覚えた。
中から音が聞こえるのだ。
割り当てられる部屋を間違えたのか、それとも女の一人暮らしと知って泥棒でも入っているのか。教員用の寮は男女で分かれていないのであり得る話だ。
この部屋まで配達をお願いした荷物は玄関前から消えている。その行方はどちらにしろ確かめる必要がありそうだ。
「『The hope of the righteous brings joy, but the expectation of the wicked will perish.』」
魔法を唱えて臨戦態勢。そのまま扉を蹴破らんばかりの勢いで侵入した。
しかし中にいたのは――
「お、やっとニナが返ってきたのじゃ。グッドタイミングじゃぞ。もうすぐ夕飯が出来上がる」
「……ふぇ?」
エプロンをしたクルトだった。すきまから見える部屋の奥にはニナの荷物であろう段ボールも運び込まれている。突飛な状況にニナは困惑した。
「な、なんであんたがここにいるのよ」
「なんでって……ここがワシの部屋じゃからよ。表札にもそう書いてあるぞ」
急いで表札を見ると、『クルト・マヤ・ニナ』と書かれていた。暗くて確認していなかった。
「ど、どうなってるの……?」
この表札の通りなら、ニナはこれからこの部屋で暮らすことになる。
年頃の男女を同じ部屋に住ませるなど、ありえるのだろうか?
「もしや何も聞いておらんのか? ふむ、まあいい。とりあえず中に入れ。腹へってるじゃろう?」
さも当然のように言ってくるが、警戒したニナは後ずさった。
「い、いやよ! 入ったらあんたに何されるかわからないじゃない!」
「ワシはお主の貧相な胸には興味なんてない」
「あんなセクハラしといてよく言えるわね! 人が気にしてることを……」
「それに関しては許してくれたはずでは?」
「それとこれとは話が別よ!」
「でも、腹はへっているじゃろう」
「う……」
お腹はすいていた。部屋の中から漂ってくる香辛料のいい香りがニナの食欲を刺激してくるからなおさらだ。
食欲と身の危険の間でニナが葛藤していると、部屋の奥から誰かが出てきた。
「ニナおねえちゃんきたのー?」
六歳くらいの女の子だった。とてとてと可愛らしい歩みでクルトの傍までやってくる。
「あんたまさか……幼女誘拐⁉」
「表札を見たじゃろう。この子はマヤ。ワシの……まあ、妹みたいなもんじゃ」
そういえば表札には三人の名前が書いてあった。
「マヤ、玄関にいるのがニナじゃ。仲良くするんじゃぞ」
「うん! ニナおねーちゃん、きょうのごはんはおにくだって! 早くたべよー」
「え、ちょっ」
玄関までやってきたマヤはニナの手を引いて強引に中へ連れてしまう。重々しい扉がバタンと閉じた。
「おねーちゃんはうしさんがすき? それともぶたさん? マヤはねー、とりさんがすき! やわらかくてじゅーしーなの!」
「え、えっと……牛さん、かな?」
強引に引っ張られるので断るタイミングを逸してしまった。
変態の家に入るのはかなり身の危険を感じるが、幼子の手を強引に振りほどいて逃げるのはためらわれる。
それに今から部屋を探して荷物を運んで夕食を作ってとなると時間がいくらあっても足りない。抵抗はあるが、苦手な料理の面倒くささには勝てなかった。
「わかったわよ……」
二人きりじゃなければ大丈夫だろう。
仕方なく荷物を置いて部屋に入る。リビング、キッチン、寝室と分かれているので意外と中は広く感じた。
「今日はニナの歓迎会じゃからな。お祝いの高級お肉じゃ」
促されるままに席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。
やってきたのはパンとステーキと野菜スープ。お祝いというにはシンプルだったが、ニナは普段からまともな食事をしていない。鼻孔を突きぬけるステーキの匂いだけで口の中によだれが広がっていく。
「これあんたが作ったの? 一人で?」
「ワシ以外に作る人がいないのでな。マヤには栄養のあるものを食べさせたいので手作りがいいんじゃ。一階に食堂はあるが、あまり美味くないしの」
料理のできないニナはなんとなく負けた気がした。
準備が終わり、三人でテーブルを囲む。嫌いな奴と囲む食卓というのはおかしな感覚だ。
「それじゃ、ニナの研究室入りを祝って乾杯なのじゃ!」
「かんぱいなのじゃ~!」
「か、乾杯……」
おずおずと茶の入ったグラスをこつんと合わせる。ここ一年ほど誰かと一緒に食べる機会のなかったニナには新鮮な感覚だった。
「あれ? あんたの分だけスープがないわよ」
「ワシはいいんじゃ」
「クルトはねー、やさいがたべられないの」
「ふーん。あ、おいし」
好き嫌いではないのだろう。
それからしばらくは雑談をしながら食べていたが、会話が途切れたタイミングで切り出してみることにした。
「ねえ、いくつか質問してもいいかしら」
「よかろう。何でも訊くがよい」
「きくがよーい!」
変なしゃべり方の真似をするマヤをクルトがなでた。きゃっきゃと嬉しそうな顔をしている。
「まず、なんであんたとあたしが同じ部屋になっているのよ」
「法律でそう決まっているからじゃ」
「はぐらかしても無駄よ。お望みなら自白魔法を使ってでも――」
「自白魔法は法律で禁止されているになんで使えるんじゃ……?」
使用は禁止されていても、習得は自由だからだ。
脅すとクルトは一転して真面目な顔になった。
「法律でってのは本当じゃ。『戦争孤児管理法』はお前さんも知っとるじゃろう?」
「……まさかそれが適用されたとは言わないわよね? あたしは十七歳で成人しているし、准教授よ。社会的に自立しているから子ども扱いされるいわれはないわ」
戦争孤児管理法とは、三年前の戦争で大量に出た孤児を一緒に住まわせて互いに助け合わせようというものだ。
クルトたちの学園と寮はこの法律のもと設立されており、戦争孤児であればだれでも無料で入ることができる。とはいえ普通は男女で同じ部屋になることはないはずだが。
「うむ。本来なら、お前さんはこの教員寮で一人暮らしをする予定じゃった。けどワシは少々権力を持っていてな。お前さんと同室になるように手配したのじゃ」
「は、はあっ⁉」
今日一大きい声が出た。食欲が満たされたことで、下がっていた危機管理メーターが急上昇していく。
「あ、ああああああああんたあたしを連れこんで何をする気だったのよ! まさか本当にそういう目的で――」
「違う違う、ワシの目的はマヤじゃ。それと近所迷惑になるから声は落としてくれ」
「マヤちゃんに変なことをする気で!」
「お主、ワシに対しては容赦ないのう。言ったじゃろう、マヤは妹みたいなもんじゃ。だから一緒に住んでいるんじゃが、やはり男ではわからないことも多くてな。困っていたところなんじゃ」
そう語るクルトの目はどこか遠くを向いていた。彼の態度に昼間のようなおふざけは感じられない。正直、別人かと思うほどだった。
「そこで都合よくお主がワシの研究室に入りたいと言っていたから、同室になるよう学園長に頼んだんじゃ。けれどてっきりお主も知ったうえで契約したのだと思っていたぞ」
「何も聞かされていなかったわ……」
前の研究室では浮いていた……というかほとんどいじめられていたので、連絡をくれた上司ともうまくコミュニケーションを取れていなかったのだ。こんな変態と同室と分かっていれば了承しなかった。
ニナは大きくため息をつく。
「何とか別の部屋を割り振ってくれないか相談してみるわ。さすがにあんたと同じ部屋ってのは……」
失礼な物言いだが、それ以上にセクハラをされているので躊躇はなかった。
「うむ、そうじゃな」
クルトはどこか遠くを見るように言う。
すると、今まで黙っていたマヤが食事の手を止めてニナを見た。
「え、ニナおねえちゃんいっちゃうの……?」
消え入るような声だった。満面の笑みは消え失せ、不安に満ちた色が顔を覆っている。
そこで気づいた。この寮に住んでいるということは、マヤも戦争で親を亡くしている。大切な人がいなくなる痛みを知っている子なのだ。
ニナがここに来ることが決定したのは三か月前。今日の態度を見るに、もしかするとずっと楽しみにしていたのかもしれない。
その縋るような視線を振り切って部屋を出ていく勇気はなかった。
「……ちょっとだけ、考えてみるわ」
自分の流されやすさに呆れたが、それ以上にマヤから嫌われるのが怖かったのだ。
「うん!」
リビングに咲いた笑顔の花に、ニナの表情までほころんでしまう。
「あ、それともう一つ聞きたいことがあって」
「訊くがよい」
「きくがよーい!」
すっかりマヤのテンションは戻っていた。無邪気にクルトの声真似をしている。
ニナは入ったときから気になっていた部屋の隅を指さす。
「あれ、何かしら?」
そこには高さ二メートルほどの直方体の物体があった。表面はガラス張りになっており、中には緑色の液体に包まれた人型の何かが見える。研究用の何かだろうか。狭い部屋において異様な存在感を放っていた。
「ああ、クローンじゃ。生物科の奴らに作らせた。脳の部分には人工知能の魔術具も入っているのじゃぞ」
「く、クローン⁉ それに人工知能ってことはスイッチを入れれば動くってこと⁉」
その最先端的な言葉を聞いただけでテンションが上がり、大きな声を出してしまった。
「うむ。と言っても、基本動かさないんじゃけどな」
自宅にクローンのスペアまであるとは。さっきも権力があると言っていたし、クルトは何者なのだろうか。
人工知能なんかの最先端技術のほとんどは「魔術陣」を用いているので、分類は「魔術具」だ。
これは、魔術陣に理論を刻むことで効果を得られる「魔術」の技術を応用して作られるものである。魔術を専攻するクルトの家にあるのは当然かもしれないが、クローンだけで都心に大豪邸を建てられるほどの金額になるはずだ。ニナを安易に家に入れたのは不用心である。
「ジョアンナなんかは入れられないわね……」
「ん? 誰じゃそのジョアンナって」
「あたしの前の研究室の友達よ。こっちに引っ越したら一度くらいお泊り会でもしようって約束してたのよね」
クルトは目を丸くした。
「お前さん、友達いたのか? それもお泊り会でができるような」
「いるわよ失礼ね。数少ない同年代の助教なんだから、仲良くしたいじゃない」
「お前さんと同年代? うーむ、聞いたこともないのじゃ」
「あんたは魔術系だから知らないんじゃない?」
「なるほど」
そうこう話しているうちに、いつの間にか夕食を平らげていた。
「ごちそうさま。美味しかったわ」
「それはよかったのじゃ」
三人とも食べ終わったので食器を片付けて一息つく。
マヤは宿題があると言って勉強を始めたので、邪魔をしないようにニナはソファに座った。
クルトも隣に腰をかける。少し警戒してしまったが、その真剣な顔つきを見てニナも姿勢を正した。
「それで、これからニナはどうするつもりなんじゃ?」
マヤに聞こえないよう、小さな声で尋ねてきた。
正直、どうすればいいのかわからない。クルトが不純な動機でニナをこの部屋に呼んでいないのは理解できた。しかしだからと言って警戒レベルを簡単には下げられない。
「ほんとは今すぐにでも出ていきたいところなんだけど……、あたしの荷物ってここに運び込まれてるのよね?」
「うむ、寝室にあるぞ。お前さんの新しい部屋まで運ぼうか?」
「それは……」
荷物も運んでもらい、夕飯も御馳走してもらった。
いくらクルトが変態とはいえ、そこまでしてもらっておいて何もせずに部屋を出ていくのは人としてどうなのだろうか。
「あんたはあたしにマヤちゃんの世話をしてほしくてここに呼んだのよね?」
「そうじゃな。と言ってもお前さんに負担をかけるようなことはしない。生活の中でワシではできないことを助けてもらいたいんじゃ」
「そんなこと、あたしにできるかしら」
あまり自信はない。ニナはこれまでの人生のほとんどを研究一筋でやってきており、同年代に比べて常識がないのを自覚している。そんな人間が他人の世話をしていいのだろうか。
「無理強いはしないのじゃ。けれど、やってもらえれば助かるし、マヤも喜ぶ」
「うっ……」
そこでマヤを出してくるのは卑怯だ。
ニナも戦争で両親を失っており、その痛みや淋しさを十分にわかっている。それなのにマヤを見捨ててこの部屋を出ていけるだろうか。
それに、夕食を作ってもらったお礼もある。多少なりとも恩を返しておかなければ気がすまない。
いや、でも変態の家に泊まるのは抵抗が……。
悩んでいると、クルトは提案をしてきた。
「ならば一か月だけお試しでこの部屋にいるというのはどうじゃ? 新生活はいろいろ大変じゃろう。お前さんはその間に部屋を探したり荷物を運んだりすればいい。この部屋での生活が気に入れば残ってもいい」
「お試しか。まあ、それなら……」
クルトの事情はよくわからない。しかし、マヤのことを真剣に考えての提案というのは雰囲気から伝わってきた。
マヤだっていい子だ。夕食のとき、本当はもっとおしゃべりしたかっただろうに、クルトとニナに気を遣って黙っているのが伝わってきた。年に似合わない気遣いはどこで身につけてきたのだろうか。
「……わかったわよ。あんただけにマヤちゃんを任せてはおけないし、あたしもしばらくはこの部屋で暮らすわ」
「本当か! 恩に着るのじゃ」
クルトは深々と頭を下げた。
「そのかわり、あんたがちょっとでも変なことしたら殺すわよ」
「うむ、覚悟しておく。それで、早速じゃがマヤとお風呂に入ってくれんかの? ワシは入れないんじゃ」
「ん? マヤちゃんって六歳くらいでしょ? それならクルトと一緒でも問題ないんじゃないかしら」
「ワシはそもそもお風呂に入れないんじゃ。いつも体をふくだけにとどめておる。だからマヤには申し訳なくてのう」
「ああ、そうなのね。てっきり幼女好きが暴走しちゃうから自制したいとかそんな感じだと」
「お前さんはワシに対してもっと遠慮してもいいのじゃぞ? そんな気持ちは微塵もない」
あんなひどいセクハラしたのだから当然の報いだと思う。
まあ、一応は教授なので下手に社会的地位を失うような真似はしないだろう。……多分。
これまで同年代の異性と接する機会が少なかったため、ニナは比較的警戒心が薄かった。