千羽鶴の正しい活用
日本には、千羽鶴を送るという風習があります。
大けがをした人、震災や、戦争で苦しむ人たちに、祈りを込めて鶴を折る。
歴史とかは調べてないけれど、多分そんな古い伝統ではない。
一般的になったのは、多分ここ数十年とかのことだと思う。
だからまあ、いろいろと問題が起きるのも仕方がないのだと思う。
子供の頃は、迷惑とかそんなことは考えず、終戦の日あたりに平和を願って、鶴を折っていた気もする。
大人になって、ああ。
折り鶴なんてものを何千羽、何万羽と送られても、迷惑になるのだなと。
そんな現実に気がつかされた。
千羽鶴に関して、よく話題になるのは
「そんなものを送るより、一円でも寄付してほしい」
「場所をとるだけで役に立たない折り鶴ならば、むしろ送らない方が良い」
のような、議論だ。
一見すると、まともなことを言っているように見える。
だけどそれは、致命的なまでに、一方向しか見ていない。
つまるところ「送りたい側」「鶴を折りたい側」の欲求が満たされないわけだ。
他人の迷惑を顧みない、そんな人を気遣う必要があるのか、と問うだろうか。
それはある意味正論で、まさしくその通りだから反論ができないわけですが。
でも、だからといって誰かに我慢を強いる世の中は、息苦しいと、なんとなく思う。
というかなぜ、誰もが幸せになる解決策を考えなかったのだろう。
それは、私以外に対する文句でもあるし、私自身に対する自責でもあるわけですが。
状況を整理します。
・被災地は、鶴なんていらない。直接役に立つもの(有り体に言えば現金)が欲しい。
・私は、被災地に想いを届けたい。お金が必要というならば出しましょう。でも、お金で想いは伝えられない。
そんな感じでしょうか。
加えて言うと
・折り鶴はいらないけれど、被災地のことを想ってくれる気持ちはありがたい。
と、多分心の片隅では考えているような気がします。
だから、本当に気持ちのこもった折り鶴であれば、受け取った方もうれしいはずなんです。
それが、山のように大量に、トラックに詰められて届けられたのでなければ。
邪魔になるから、だめなんです。
邪魔にならなければ、ありがたいんです。
だったらどうするか。どうしましょうか。
ということで、アイデア:
そこそこ大きな都市とか団体で、寄付と同時に折り鶴を集めるというのは、どうでしょう。
例えば、どこでも良いんだけど例えばどこかの地方都市で。超やばいなんか災害が起きたと仮定します。
日本人は、内輪意識が強いから、きっと国民が一丸となって動き出すことでしょう。
そこで、各都市ごとの企業とかが「折り鶴募金」みたいなものを実施するわけです。
内容はシンプルで
・折り鶴千羽につき、被災地に100円寄付します。
みたいな感じで良いと思う。
被災地には、鶴を直接送りはしない。
折り鶴を大量に並べた様子を写した写真ぐらいなら、添付しても良いかもしれませんが。
被災地を想う気持ちを、現金に変換して、あるいは必要な物資を送り届ける。
そんな感じ。
何が良いかというと……
・鶴を折りたい人と、お金が必要な人の、両方の欲求を満たすことができる。
・折り鶴を回収して現金に変換する企業は、社会的責任とかを果たすことができる。多分企業の信用度とかも微上がりすると想う。
・折り鶴募金に救われた人が、数年後にその折り鶴を見に地方まで来てくれるかも。そしたらなんか、都市同士の交流とかにもなったり、ならなかったり?
まあ、理論上のことなので、問題点があるのかも知れませんが。
でも、ただ「折り鶴を送る人は、人の気持ちがわからないサイコパスだ」と叫ぶだけの人よりは、何倍かましなのではないでしょうか。
なんて、思いました。